第七十三話 もえ、もえ
それから、コーヒー器具のブースをいくつか回って、カタログを集めた。ほどほどに試飲をして、大体回り切ったかというところで、俺はあるものを見つけた。
「あれ、この豆は……」
そこには『チャイナ』と書かれた豆が置いてあった。
中国の徳広で採れた豆らしい。スペシャルティコーヒーの産地として有名なのは知っていたが、この目で見るのは初めてだった。
ブースの人に試飲を頼み、カップを受け取る。このブースは、アイスで提供しているらしい。会場を歩き回って火照った体には、とてもありがたかった。
匂いを嗅いでみると、トロピカルな香りが鼻に抜けた。今までに飲んできたどんな豆よりも、フルーティな印象で、思わず目を見開く。
ひと口飲んで、さらに驚く。はっきりと感じる、ライチやピーチの風味。それから、炭酸飲料を飲んだときのような清涼感が、一気に駆け抜ける。
「わぉ、めっちゃ爽やか……! 東京駅で飲んだやつもジュースみたいだったけど、これはもっとすごいね!」
「ああ……ここまですっきりしたコーヒーは、初めて飲んだな」
「そうだ! これさ、マスターのお土産にどうかな?」
「あ、それいいかも」
この、良い意味でコーヒーらしくない豆を、歌原さんが淹れたら、一体どうなるのだろう?
一度気になってしまえば、試さずにはいられない。俺は、チャイナの豆を二百グラム購入した。また手に感じる重みが増える。
しかし、歌原さんのコーヒーを思えば、この程度はなんてことない。大阪を離れるのは名残惜しいが、これで東京に帰る楽しみが増えた。
さて、残すところは、あと――――。
「お、純太郎ちゃん! しずくちゃん!」
俺たちは、挨拶するために〝喫茶寅まる〟のブースへ向かった。
寅松さんは、遠くからでもかなり目立つ、虎柄の法被を着ている。その隣にメイドさんを侍らせている構図は、まさにカオスそのものだ。
「アイちゃん! 昨日ぶり!」
「こんにちは。す、すごい列ですね……」
彼女のブースの前には、長蛇の列ができていた。何故か男性ばかりで、鼻息が荒い人が多い気がする。
「おうおう、すごいやろ! 今日は〝メイドの愛がこもった・もえもえドリップコーヒー♡〟って商品で、絶賛ぼろ儲け中や! だっはっはっ!」
なるほど、それで男性客ばかりなのか。
昨日、俺と一緒に厨房を任されていたメイドさんが、抽出が終わったコーヒーに向かって、両手でハートを作る。
「はい、ご一緒に! もえ、もえ、きゅんっ♡」
メイドさんの高い声が響く。
昨日キッチンにいたから気がつかなかったが、この人も寅松さんにしっかり〝教育〟されているようだ。
彼女の前に立つ男性は、大興奮でハートを作った。
「もえ、もえ、きゅん‼︎」
男性の、野太い声が響く。
――――ここだけ、世界観が違いすぎないか?。
「そうや、しずくちゃ~ん……昨日渡した衣装、どうやったぁ?」
寅松さんは、にやにやと悪い笑みを浮かべながら、しずくに擦り寄る。
ぼっ、と顔を真っ赤にしたしずくは、反射的に口を開く。
「べ、別に! 何もありませんでしたよ!」
「ほ~ん……そかそか。ま、今後も大事に使ってや」
「ぐっ……まあ、たしかに……またリベンジするのはアリなのか……」
「せや。それに、もう一着用意したってええし」
「ええ……これ以上恥ずかしいのは嫌ですよ」
「ちゃうちゃう、しずくちゃん用やないで」
しずくと寅松さんが、ぐるりと首を回して、俺のほうを向く。
あ、嫌な予感がする。
「……着ませんよ」
「…………さて、仕事に戻りますかっと」
「あ、店長。こっちはもう手足りてます」
「ぐふっ」
メイドさんの言葉に、撃沈する寅松さん。
この人は、どうしてこうも愉快なのだろう。見習いたいようで、見習いたくない。
「くぅ〜! 純太郎ちゃんが女の子やったら、すぐスカウトしたのになぁ!」
「ええっ! ダメですよ! たとえ純太郎が女の子だったとしても、純太郎のもえもえきゅんは、私だけのものです!」
――――なんだそのヤキモチの焼き方は。
俺が頭を抱えていると、寅松さんが豪快に笑い出す。
「だはは! ほんと、しずくちゃんは純太郎ちゃんが大好きやねぇ」
「そうですよ! 純太郎への愛なら、誰にも負けません!」
しずくはそう言って、俺の腕に抱き着いた。汗ばんでるから申し訳ないと思いつつ、つい頬が緩む。
「かーっ! 見せつけてくれるわ! こーんなカワイイ子に、毎日好き好き言われるなんて、夢のようやなぁ」
「ああ……自慢の、彼女です」
口ごもりながらそう言うと、しずくが隣で「えへへ」と笑った。
その顔があまりにも可愛くて、それと同時に恥ずかしくもなってきて、俺は思わず押し黙る。
「ええなぁ、若いって……。よっしゃ、お姉ちゃんも負けてられん!」
寅松さんは、どこからか真っ赤な鉢巻きを取り出すと、それを額に巻いた。
「ここからが後半戦や……! みんな、気張っていくでぇ!」
「あ、店長。雰囲気崩れちゃうんで、大人しくしててください」
「がーん!」
寅松さんが、膝から崩れ落ちる。
その様子を、俺たちは肩を揺らして見つめることしかできなかった。




