第七十一話 エスプレッソマシン
「あ〜あ、私も純太郎のこと言えないね」
茶目っ気のある笑顔を見せながら、しずくは紙袋を両手で掲げた。
この調子だと、帰る頃にはとんでもない大荷物になってしまうかもしれない。というか、まだ入ってすぐのブースを寄っただけだというのに、この調子では破産してしまうのではないだろうか。
しかし、せっかくのイベントなのに、我慢しろというのは無理な話である。
買わないで後悔するより、買って後悔するほうがマシ――――などと自分に言い聞かせながら、次なるブースを目指す。
「今日は、お金のことは気にしすぎないようにしよう。そのほうが楽しい」
「おっ、ポジティブでいいね!」
「はは、それに、バイトを頑張る口実にもなるしな」
「確かに、私も帰ったら仕事頑張ろっと!」
しずくは、拳を小さく前に突き出し、ファイティングポーズを取る。
その手に握られたままの紙袋を、なんの気なしに持つと、しずくがあっと声を出した。
「このくらい自分で持つよ?」
「いいよ。俺が持ちたいだけだから」
「む、じゃあ……お言葉に甘えちゃおっかな?」
しずくはやけに嬉しそうに、俺の顔を見てにこにこと笑った。
この笑顔を見られるのなら、いくらでも荷物を持ちたい。そう思ってしまう俺は、おかしいのだろうか?
そのあとは、実演販売を見学したり、豆の香りを嗅がせてもらったり、大型の焙煎器を眺めたり……ただひたすらにブースを巡った。
そしてその道中、気に入ったものを購入しているうちに、すっかり手荷物も増えていた。
荷物の重さで手が疲れ始めた頃、俺たちの前に〝それ〟は現れた。
「エスプレッソマシンだ……!」
「え⁉︎ どれどれ⁉︎」
俺は、銀色の機械を指差した。
思っていたよりも小型だが、あれはエスプレッソマシンで間違いない。
そのマシンを置いているのは、海外の企業ブースだった。
様々なコーヒーメーカーを製造、開発する会社で、エスプレッソマシンの他にも、全自動コーヒーメーカーなど、ハイテクな機械がいくつもサンプルとして並んでいる。
「よかったら、試飲しませんか?」
エスプレッソマシンを眺めていると、気の良さそうな男性が、そう声をかけてくれた。
迷わずお願いすると、すぐに二杯分のエスプレッソを準備してくれる。
「ねぇねぇ、あんなに細かくしていいの……?」
しずくが、電動ミルから出てきたエスプレッソ用の粉を見て、心配そうに言った。
「ああ、エスプレッソだと、あれくらいは普通だよ。前に俺がマキネッタを使っただろ? あのときも、豆の粒度はこれと同じくらいだった」
「へぇ……ドリップコーヒーとは、全然勝手が違うんだね」
男性はコーヒー粉を、取っ手つきのフィルターに入れる。
「ね、あれは何?」
「ああ、あれは『ポルタフィルター』だ。あれを通して、エスプレッソを抽出するんだよ」
「ほ〜! なんかハイテクな感じだ!」
知らないものを見るたび、しずくの表情がコロコロ変わる。それが愛おしくてたまらない。
とはいえ、俺もこんなに近くで見学したのは初めてで、さっきからワクワクしっぱなしだった。エスプレッソを抽出するところを見る機会は、そうそうない。しっかり目に焼き付けておかなければ。
男性は、ポルタフィルターに入った粉を、スタンプのような器具を使って上から押し潰す。
その様子を見て、しずくがまた驚きの声を漏らした。
「今、ぎゅって潰した! なんで?」
「あれは『タンピング』っていう工程だよ。上から押して、コーヒーの粉を均一に固めてるんだ」
「えっ、せっかく挽いたのに、固めちゃうの?」
「ああ、むしろ固めないと駄目なんだ。エスプレッソは、蒸気圧を使って、お湯をコーヒーの粉に一気に浸透させるんだけど、その時に粉の密度が均一じゃないと、綺麗に抽出されないんだ」
「へぇ〜! 化学の実験みたい!」
男性の手から目を離さないようにしたまま、しずくは感心したように頷いた。
ちなみに、タンピングするための道具は『タンパー』という。
「あ、いよいよ抽出だな」
タンピングを終えたポルタフィルターが、エスプレッソマシンにセットされる。
そしてマシンのボタンを押すと、ぶーっと唸るような音が響き始める。
やがて、抽出されたエスプレッソが、用意されたカップに滴り始めた。
うす茶色の液体は、少しずつ黒に近い茶色へと変わっていく。それを見て、しずくが目を丸くした。
「わ、色が変わった! なんで?」
「豆から出る油分と炭酸ガスが乳化して、泡が生まれるんだ。先に落ちてきた薄いコーヒーは、その泡の部分」
この泡のことを『クレマ』という。
上質なエスプレッソは、カップをかき混ぜても、クレマが消えずに残るらしい。
「が、がちで化学だ……最初に作った人、天才すぎない?」
「はは、確かに。ちなみに、エスプレッソの原型自体は、一八〇〇年代にはあったらしい」
「二百年以上前じゃん! エスプレッソって、大先輩だったんだ……」
現在の形に近いエスプレッソマシンが開発されたのは、一九〇〇年代に入ってからなのだが、百年以上前から、今に至るまで手法が大きく変わっていないということを、当時開発に携わった方々に教えてあげたい。
先人の知恵があってこそ、今こうして俺はコーヒーを好きでいることができている。時にはこうして、歴史に思いを馳せるのも楽しみ方のひとつだと思う。
「はい、お待たせしました」
「ありがとうございます」
男性は、エスプレッソが入った小さなカップを、スティックシュガーと、使い捨てスプーンと共に提供してくれた。
俺は、カップの中にスティックシュガーをすべて入れる。
「えぇ⁉︎ ちょ、ちょ、純太郎⁉︎」
その反応も無理はない。
小さなカップに向かって、スティックシュガーを躊躇なく逆さまにする様子は、傍から見ていて恐怖でしかないだろう。
しかし、こうすることにはきちんと理由がある。
「あの、ブラック派の純太郎が……もしかして、暑さでおかしくなっちゃった?」
「大丈夫だよ。やってみて」
「えー……? ほんとに大丈夫なの……?」
しずくは訝しげな表情のまま、カップにスティックシュガーを入れる。
そして、恐る恐る飲んでみると――――。
「あっ! 美味しい……!」
「だろ?」
「うん! めっちゃちょうどいい甘さ! 体がかっと目覚める感じがする!」
エスプレッソは非常に濃厚で、顔をしかめるほどの苦味がある。試しにそのまま飲んでみたことがあるのだが、ひと口飲んでギブアップだった。いくらブラック派とはいえ、エスプレッソを美味しく飲むには、砂糖が必要不可欠だと、俺はそのとき実感した。
ちなみに、スティックシュガーは一本三グラム。それに対し、エスプレッソは三十ミリリットルほど。中には二本入れる人もいるそうだが、俺が試した限りでは一本でちょうどいいと思う。




