第七十話 イベント開始
一夜明けて、コーヒーイベントの日。
そして、俺たちにとっては、大阪旅行の最終日でもあった。
「はぁ……もう帰らないといけないのかぁ」
残念そうに呟いて、しずくはデニッシュパンを齧った。
朝食ビュッフェは、今日もまた豪華な料理が並んでいる。これも、明日は食べられないのだと思うと、とても寂しい気持ちになった。
「今日の夜には、もう帰るわけでしょ? なんか実感なくない?」
同じく、ブールパンを口に運びながら、俺はこくりと頷いた。
今晩からは、また家のベッドで寝ることになる。つまりは、日常に戻るということだ。
それは分かってはいるのだが、どうにもイメージが湧かない。
「でも、帰るのが残念って思うくらいが、ちょうどいいんだろうね」
「ああ。そのほうが、また来たくなるしな」
「そうそう! 思い出と一緒に、次の楽しみが増えるって感じ!」
しずくは、楽しそうに笑ってから、オムレツのおかわりのために席を立った。
朝食を終えて、俺たちはホテルをチェックアウトした。キャリーケースは、新大阪駅のロッカーに預け、そのままイベント会場へ向かう。
「お~! 結構人いるね!」
「ああ、思ったより混んでて、ちょっとびっくりしてる」
「ここにいるみんな、コーヒー好きで来てるんだもんね。みんなうちらと同志だ」
「同志、か……いいな、それ」
「ふふ、でしょ? とりあえず列並ぼっか」
会場の前には、すでに長い列ができていた。これだけの人が、コーヒーのために集まっていると思うと、なんだか興奮する。しずくの言う通り、ここにいる人はみんな同志なのだ。そう考えると、この行列に並ぶのも苦ではない。
「今日のお目当ては? やっぱエスプレッソマシン?」
「そうだな。歌原さんにも、見てくるよう頼まれたし。それ以外にも、お互い気になるものがあったら寄っていくって感じでどうかな?」
「賛成!」
店に置くためのエスプレッソマシンだ。きちんと吟味しなければ。
マシン選びを任されたことに、少なからずプレッシャーを感じているが、それ以上に、歌原さんから信頼してもらえていることが、嬉しかった。
「あとは、お土産になるような豆も欲しいな。歌原さんと、自分用に。せっかくだし、まだあんまり使ったことがないやつがいい」
「そういえば、試飲もできるんだっけ?」
「豆を出展しているブースなら、基本用意してくれているはずだ」
「よし、じゃあ味見は任せて!」
「頼りにしてるよ」
試飲にしても、意見はひとつでも多いほうが安心だ。ここは遠慮なく頼らせてもらうことにしよう。
やがて開場の時間になり、列が進む。
広大な会場には、様々な企業のブースが、所狭しと並んでいる。そして、そこかしこから、コーヒーの香りが漂ってきた。
俺にとって、ここはまさにテーマパークだった。何日、いや、何十日だってここに居られる気がする。
「すごいすごい……! ぜーんぶコーヒーグッズだー!」
早速近くのブースに近づきながら、しずくが興奮気味に言った。
カウンターの上には、その会社がデザインしたドリッパーや、ラッピングされた豆が並んでいる。どれも包装がおしゃれで、思わず手を伸ばしたくなる。
「隊長! 早速試飲を発見しました!」
「はは、せっかくだし、飲んでいこうか」
ブースの人に声をかけると、快くコーヒーを淹れてくれた。
小さなカップで提供されたコーヒーは、とても澄んだ茶色をしていて、花のような甘い香りと、柑橘系のフルーツのような、甘酸っぱい香りがする。
「わっ……ジュースくらいフルーティなんだけど……!」
しずくが、信じられないといった顔でカップを眺めている。
苦味はほとんど感じられず、柑橘系のフレッシュな酸味と、ハチミツのような優しい甘味が、余韻として残り続ける。もはや、コーヒーの概念を覆すような一杯だった。
豆のパッケージに『ゲイシャブレンド』と書かれているのを見て、俺は「ああ……」という情けない声と共に納得した。
『ゲイシャ』とは、主に中南米で栽培されている、突然変異によって生まれた、かなり希少な豆のことである。希少価値もさることながら、コーヒーとしてのクオリティも、極めて高いとされている、とても人気な品種だ。
ちなみに、ゲイシャという名前は、エチオピアの南西部に位置する『ゲシャ地域』に自生していたことが由来だそう。
家でも飲みたい――――そう思って、豆の値段を見てみる。
そこには、予想以上の金額が書いてあった。
「百グラム、三千五百円か……」
コーヒー豆の中では、相当高価な部類だ。百グラムの豆から抽出できるコーヒーは、精々六杯程度。そう考えると、気軽に買える値段ではない。
「わぁお……どうする?」
「うーん……」
悩んでしまうのは、バイト代を溜め込んでいる俺にとって、手を伸ばせば届く値段だからだ。
ただ、どうしたって、少し抵抗が――――。
「お兄さん、このブレンド、イベント限定品ですよ」
「え⁉」
俺が悩んでいることに気づいたブースの人が、こそっと教えてきた。
イベント限定ということは、ここでしか手に入らないということ?
駄目だ、それは絶対に逃せない。
「……っ、百グラムください!」
「ありがとうございます!」
――――ああ、買ってしまった。
後悔はしていない。むしろ、達成感すらある。
「限定品なんて言われたら、我慢できないよねー?」
しずくは、俺が持つ紙袋を眺めながら、くすりと笑う。
まだブースはいくつもあるというに、まさか衝動買いすることになるとは。
しかし、試飲して、確かに美味しいと感じた豆だ。そう思うと、途端に見合った値段だと思えてきた。
「帰ったら早速淹れるよ」
「やったー! 楽しみ!」
手を上げたしずくは、その場でぴょんぴょんと跳ねた。
続いて目に入ってきたのは、ドリッパーの新商品を並べているブースだった。
目玉商品は、花の形をしたドリッパー。どれも可愛らしい色味で、インテリアとしても映えそうなものばかり。性能に関しても、今実演している人の淹れ方を見る限り、不便なく使えそうだ。
「……実はさ、私も家でコーヒー淹れる練習しようかなーって思ってるんだよね」
しずくが、ふらふらとドリッパーに吸い寄せられる。
「くっ……カラーバリエーション多すぎ……! こんなの迷っちゃうよ!」
「しずくが一番好きな色でいいんじゃないか?」
「うーん……じゃあ、これかな!」
しずくが選んだのは、水色のドリッパーだった。
「爽やかでよくない?」
「ああ、夏にもぴったりな色だな。今度、淹れてるところ見てみたい」
「ちょっと純太郎、まさか、このブースの回し者⁉︎ 勧めるのがうますぎるよ!」
しずくは頭を抱えたのち、よし! と吹っ切れたような声を出す。
「すみません! これください!」
――――こうして、紙袋がまたひとつ増えた。




