第六十六話 よくない大人
ちょうど、厨房の近くの席に座っていた中年の男性が、しずくを呼ぶ。
「はーい! ご注文お伺いいたします!」
「えっと、ブレンドのホットと――――って、し、SHIZUKU⁉」
「あ、気づかれちゃいました?」
「な、ナニコレ⁉ まさか、ドッキリ⁉」
「あはは、違いますよ。ここ、知り合いのお店で、お手伝いしに来たんです。あ、拡散はほどほどにしてくださいね?」
お客さんが、こくこくと頷く。
「あ、あの、じゃあ、ツーショットでチェキとか、撮れますか……?」
「もちろん! サインも書いていいですか?」
「え、え、むしろいいんですか……⁉︎」
「はい! いつも応援ありがとうございます!」
しずくは、お客さんとツーショットを撮ったのち、チェキにサインを書き込んだ。
それを受け取ったお客さんは、目を潤ませながら、しずくに何度もお礼を言っていた。
その様子を見て、寅松さんが唸る。
「さすがしずくちゃん、いや、SHIZUKUや……! うちが教えることはもう、なんもあらへん!」
寅松さんは、涙を拭う素振りをしてから、大きく頷いた。
些かオーバーリアクションではあるが、今のしずくは俺から見ても素晴らしい接客だと思う。やったことがないと言っていたわりには、かなり様になっていた。あれぞまさしく、神対応というやつなのだろう。
あのお客さんも、今日という日が、一生の思い出になったに違いない。
「いや……待てよ……?」
寅松さんは数秒黙り込んだのち、その目をたちまち輝かせた。
まだ出会って間もないが、今の間と表情から、ろくなことを考えていないということだけは分かった。
「あのSHIZUKUとツーショットが撮れるなんて、もっと金取らな損や。なんなら、大々的に売り出せば、この店もがっぽがっぽ間違いなし……!」
寅松さんの瞳が、金のマークになっている。金に目が眩んでいる人を間近にするのは、これが初めてだった。なんというか、こういう大人にはなってはいけない気がする。
そうこうしていると、接客を終えたしずくが、伝票を持って戻ってきた。
「ブレンドのホットと、イタリアンプリンひとつお願いします!」
注文を受けた俺は、再びブレンドの用意をする。
「純太郎、調子はどう?」
注文の品を待ちながら、しずくが俺のほうへ身を乗り出してきた。
「ああ、なんとか間に合ってるよ。しずくも、上手くやってるみたいだな」
「まあね! ちょっと緊張してるけど、ノリと勢いでなんとかしてる!」
そう言って、しずくはピースした。
「あとは、女優の勉強をしたのが活きてるのかも。メイドさんになりきったら、結構なんとかなるよ」
「なるほどな……」
俺には理解できない感覚だが、しずくが女優の仕事を経て成長したのだと思うと、なんだか少し誇らしい。
しずくは「よしっ」と気合いを入れ直して、注文の品を受け取った。
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、頑張れ。終わったらコーヒー淹れるよ」
「やった!」
しずくを見送ると、また新たな注文が入った。
俺もぐっと気合いを入れ直して、電動ミルに豆を入れた。
夢中になってコーヒーを淹れているうちに、気づけば閉店時間の二十時がすぐそこまで迫っていた。
客足も落ち着いてきて、最後のお客さんが、今まさに退店した。
「はいはーい、お疲れさんお疲れさん!」
最後のお客さんを見送って、寅松さんが手を叩く。
「ちゃちゃっと締め作業して、今日はおしまい!」
寅松さんの号令を合図に、一斉に片付けが始まる。俺は厨房の片付け、しずくは、ホールの片付けを手伝った。
「あ、あの、SHIZUKUさん……!」
「はい!」
締め作業が終わると、しずくが他のメイドさんにあっという間に囲まれてしまった。
どうやら、ずっと話しかけるのを我慢していたらしい。
「すまんなぁ、純太郎ちゃん。しずくちゃん、ちょっと借りてもええか? みんな話したくてたまらんかったみたいで」
「はい、大丈夫ですよ。それにしても、皆さんすごいですね」
業務中、誰ひとりとして、話しかけたいオーラを出していなかった。
しずくほどの有名人を前にして、感情を押し殺すというのは、なかなかできることではないと思う。
「おおきに。みんな長いこと店を支えてくれてる、自慢の仲間や。うちは、由美ほど高い技術を持ってへんからな。あの子たちがいないと、なーんもできへん」
自虐的なことを言いながらも、寅松さんはけらけらと笑った。
「ま、そのぶん教育に関しては自信あんねんけどな。最初は恥ずかしがってた子も、今では立派なメイドさんや!」
「……ちなみに、あの制服って、何かこだわりが?」
「こだわり? そんな大層なもんちゃうよ。うちの趣味ってだけ」
「な、なるほど」
一体どんな教育をすれば、メイド服が恥ずかしくなくなるのだろう。
いや、想像するのはやめておこう。




