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第六十五話 労働開始

「まあ……そこまで拒否られちゃ、しゃーないなぁ」

「ですねぇ……。はぁ、見たかったなぁ〜」


 寅松さんとしずくは、揃って唇を尖らせながら、ちらちらと俺の様子を窺った。

 この二人、いつの間にこんなに仲良くなったのか。流れに乗れない俺は、すでに置いてけぼりをくらっていた。


「ま、純太郎ちゃんにはあとで着てもらうとして」

「だから、着ません!」


 柄にもなく、大きな声が出た。しばらくこの人と一緒に働いていたら、俺の引っ込み思案も解消されそうだが、それより先に撃沈する自信しかない。


「だはは! …………冗談やって! うん、冗談!」


 いや、今の間は、絶対冗談なんかじゃない。

 それに、目が笑ってなかった。これから業務終了まで、俺は無事でいられるのだろうか。


「んじゃ、しずくちゃんはこの先の更衣室で着替えてな。純太郎ちゃんは、エプロンだけでええから。あ、それと髪の毛だけ落ちんように、帽子かぶってもらえる?」

「分かりました」


 無地の黒い帽子を受け取った俺は、後ろで結んでいた髪を一度解いて、きつく結び直す。その上から帽子をかぶって、前髪を中にしまった。

 それにしても、ここまで髪が長くなると、さすがに鬱陶しくなってきたな。思い切ってばっさり切るのもありか、なんて考えていると、再び二人が俺をちらちら見ながら、小声で話していることに気づいた。


「ロン毛男子が髪を結んでるところって、なんか……よくないですか?」

「分かるわぁ。セクシーやんなぁ……」

「そうそう! さすがアイちゃん、分かってるな〜」

「せやろ? こう見えてうち、センスはあるほうやねん」


――――一体、なんの話をしているんだ……。


「じゃ、純太郎ちゃんはこっち来て。しずくちゃんは、着替えたらとりあえず厨房まで来てくれる?」

「分かりました!」

「ほな、またあとでな」


 俺は、寅松さんについて、バックヤードをあとにした。

 案内された厨房は、年季が入っているものの、とても清潔にされている。喫茶メロウの雰囲気と、少し似ていた。

 厨房では、メイドさんが、ハンドドリップ中だった。辺りに、コーヒーの香ばしい匂いが広がっている。


「料理は他の子がやるから、純太郎ちゃんはコーヒーの用意だけお願いできる?」

「分かりました。淹れ方はどうすればいいですか?」

「由美のやり方と同じでええ。実はうちも、あいつの淹れ方を参考にしとんねん」


 寅松さんは、どこか照れ臭そうに、鼻の下をこすった。


「ま、由美の味には届かへんけどな。あいつのハンドドリップは、もはや魔法や。抽出量も、湯を注ぐ間隔も揃えとんのに、ちっとも同じ味にならん」

「俺も、そのことにずっと悩んでます」

「そか。ほな、本当に魔法だったりして!」

「はは、そうかもしれません」


 気づけば、俺も自然と笑っていた。

 寅松さんは、距離を詰めてくるのが上手い。コミュニケーションが苦手な俺ですら、こうして楽しく話せるほどだ。

 しずくほど物怖じしない性格なら、すぐに仲良くなれたことにも納得である。


「由美んとこで鍛えられとるなら、他のドリンクメニューも大丈夫そうやな」

「はい!」

「よっしゃ! ほな頼むで! 分からんことがあったら、うちか周りの子に訊いてな!」


 寅松さんに、背中をばしっと叩かれる。近くにいたメイドさんも、俺に向かってにこりと微笑んでくれた。

 いきなり実戦というのは、少し緊張するが、喫茶メロウ以外の場所で働くまたとない機会だ。

 期待に応えられるよう、頑張ろう。

 他のメイドさんたちとの挨拶を終え、早速ハンドドリップに取り掛かろうとした、そのとき。


「お待たせしました!」


 しずくが、厨房に現れる。その姿は、他のメイドさんと同じ、クラシカルメイドであった。

 しかし、彼女から溢れ出るオーラは、周囲の視線を一手に引き受けてしまうほど、一線を画すものがあった。


「どひゃ~! なんて可愛らしい! さっすがは大人気モデルやなぁ!」

「それほどでもあります!」


 しずくは、仁王立ちしながら胸を張った。

 その様子は、とてもメイドらしくはないものの、あまりにも格好が似合いすぎていて、もはやまったく気にならない。


「純太郎! どう? この格好!」


 しずくが、俺の前でくるっと回ってみせる。それにつられて、スカートの裾がふわりと舞う。


「めちゃくちゃ似合ってるよ」

「ふふっ、でしょ?」


 しずくは、スカートの裾をつまみ、華麗なお辞儀を披露する。

 本当、いちいち絵になるな。俺がカメラマンだったら、しずくの一挙手一投足を逃さず撮影していただろう。現に、俺の視線はしずくに釘付けである。


「そういやしずくちゃん、接客の経験は?」

「お恥ずかしながら、まったくないです……!」

「ははは! その笑顔さえ忘れないでくれたら、オッケーや! 細かいとこは、今からうちが教えたる!」

「はーい! よろしくお願いします! 純太郎、またね」

「ああ、お互い頑張ろう」


 寅松さんに連れられ、しずくが離れていく。

 気を取り直して、俺も早速、仕事に取り掛かるとしよう。

 アイスコーヒーの注文が入ると同時に、俺は電動ミルのスイッチを入れた。効率を考えるなら、先に豆を挽いておいたほうがいいと思われるかもしれない。

 しかし、豆の状態よりも、粉の状態のほうが空気に触れやすく、酸化しやすい。

 コーヒーが酸化してしまうと、嫌な酸味が出てしまう。だから、こうして注文が入るたびに、必要な量だけ挽くのだ。

 挽き目は、中細挽き。コーヒー粉を、紙フィルターをセットしたドリッパーに入れたら、さっとお湯をかけて蒸らす。

 すると、氷がたっぷり入ったサーバーに、ぽたぽたとコーヒーが落ち始める。

 この、落ち初めの時間が好きだ。氷が少しずつコーヒーの中に沈んでいく様子を見ていると、心がすっと落ち着いていくのだ。


「ほーん、やっぱり上手やなぁ」

「わっ⁉」


 急に横から話しかけられ、びくっと肩が跳ねる。


「おっと、ごめんごめん。つい覗き込んでもうた」

「い、いえ……大丈夫です」

「にしても、さっすが由美の一番弟子やな。上手く淹れるもんや」

「ありがとうございます。でも、まだまだです」


 練習を欠かした日は一日としてないが、それでも歌原さんには遠く及ばない。

 だからこそ、調子に乗らず、もっともっと練習しなければ。

 俺の今の目標は、喫茶メロウでドリップを任されることだから。


「そっかそっか。ま、この店は由美んとこほど厳しくない。これだけのドリップができるなら、まったく問題なしや」


 そう言って、寅松さんは俺の肩に手を載せた。


「せや、見てみ」


 彼女が顎で指し示した先には、ホールで働くしずくの姿があった。

 その様子は、最初からここで働いていたのかと錯覚するほど、よく馴染んでいた。

 しずくは注文を取り終えると、厨房まで伝票を持ってきて、そしてまたホールへと戻っていった。


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