第六十二話 楽しみばかり
あまり長居できる雰囲気のお店ではなかったため、完飲すると同時に、席を立った。
相変わらずの猛暑の中、次なる店を目指して歩き出す。
「しずく、ちゃんと水分補給しとくんだぞ」
「りょうかい!」
自販機で買った水を差し出すと、しずくはびしっと敬礼してから、それを受け取った。
コーヒーには、利尿作用がある。飲みすぎると、トイレに行く頻度が増え、体内から逆に水分が持っていかれてしまう。ただでさえ、夏場は汗のせいで、常に水分を失い続ける。そのため、コーヒーを水分補給と思わず、ちゃんと水を飲んでおくことが大切だ。
「ぷはっ……そういえば、そろそろお昼どきじゃない?」
「ん? ああ、確かに」
二店舗回っているうちに、すっかり昼時だ。いつの間にか、腹も空いている。
「どこかで食べる? それこそ、ランチやってる喫茶店とかないかな?」
「だったら、確かそこのお店がやってたはずだ」
指を差した先には、一軒目に行った喫茶店に似た雰囲気の建物があった。外に置かれた看板には、ドリンクメニューの他に、ランチメニューも書いてある。
昔ながらのナポリタンや、オムライス、カレーなど、洋食屋らしいものが並んでいる。
「わ、美味しそ〜……! ね、ここにしよ!」
「もちろん」
店内は少し賑わっていて、食欲をそそる香りに満ちていた。そして遠くに、ほんのりとコーヒーの香りもする。
二人席に案内され、俺はカレーを、しずくはオムライスを注文した。
「喫茶店でご飯食べるのって、ちょっとわくわくするんだよな……」
「そうなの?」
「コーヒーを飲むところって認識が強いからかな? なんか、背徳感があるっていうか」
「あ、それ、カラオケでめっちゃご飯頼むときと同じだ。ぶっちゃけ、冷食なのは分かってるんだけどさ、ああいうところで食べると、やけに美味しく感じるんだよねぇ」
割高なのも分かってるんだけど――――。
そう言って、しずくは遠い目をした。
「そういえば私たちって、カラオケ行ったことないよね? てか、そもそも、純太郎ってカラオケとか行く?」
「いや、まったく行かないな。一度だけ、体育祭の打ち上げで行ったくらい」
去年の話だ。まあ、歌えるような曲もないし、ただ置物になっていただけだが。
「私は去年までは、よく行ってたんだけどね。思いっきり歌うのって、ストレス発散になるんだけど、最近は滅多に行かなくなっちゃった」
「どうして?」
俺が素直にそう訊くと、何故かしずくはため息をついた。しかし、すぐにふっと笑って、幸せそうに目を細めた。
「……今はカラオケに行くより、純太郎と一緒にいるほうが、ストレス発散になるの」
「そ、そういう言い方は……なんか照れるな」
「ふふっ、顔赤いよ?」
しずくに顔を覗き込まれた俺は、思わず目を逸らした。
「そうだ。今度二人で行ってみる?」
「俺は構わないけど、歌える曲なんてひとつもないぞ?」
恥ずかしながら、音楽には本当に疎いのだ。知っている曲といえば、精々合唱コンクールで歌ったものくらいで、しかも自分のパートしか分からない。
「歌わなくたっていいじゃん! ほら、そういうときこそ、カラオケのご飯を食べたらいいんだよ」
「ああ、なるほど」
確かに、それなら歌わなくても楽しめるかもしれない。
しずくは「私ってば大天才!」なんて言いながら、得意げに胸を張った。
「まあ、私は歌うけどね! 純太郎に見せてあげるよ。私のソロコンサート」
「はは、それは楽しみだ」
一体、しずくはどんな曲を歌うのだろう?
またひとつ、楽しみが増えてしまった。
「――――お待たせしました、こちらカレーライスと、オムライスになります」
テーブルに、注文した料理が並ぶ。
俺が頼んだカレーは、家で食べるカレーよりも、深い茶色をしていた。具は、とろとろになるまで煮込まれた牛すじが入っている。
しずくのオムライスは、全体が卵に包まれている昔ながらのタイプで、上からトマトソースがかかっている。
「そうそう、これこれ! こういうのが食べたくなるんだよねぇ」
しずくは、スプーンにトマトソースをつけ、端っこから卵を崩していく。
中央から食べ進める俺とは、ひと口目から順番が違って、なんだか新鮮な気持ちになった。
「ん〜! トマトソース濃厚……! 卵もバターの香りがして最高! あ、ウインナー! 鶏肉もいいけど、ウインナーも美味しいんだよなぁ〜」
ひとつひとつにリアクションを取る彼女は、とても面白く、見ていて飽きない。
「……ちょっと、純太郎も食べなよ。冷めちゃうよ?」
「おっと」
いつの間にか、しずくの様子に夢中になってしまっていた。
急いでカレーを口に運ぶ。強いスパイスを感じたあと、牛すじのこってりとした甘味が追いかけてくる。牛すじは歯がいらないほど柔らかく、溶けるように消えてしまう。一体、どれほど煮込めば、こんなに柔らかくなるのだろうか。あまりの美味しさに、思わず天を仰いだ。
カレーは飲み物という言葉に、初めて同意した瞬間だった。
「このお店にして正解だったね」
「ああ、近所にあったら通いたいくらいだ」
「うわ、やばいそれ。あったらすぐ太っちゃう!」
しずくはそう言って、両頬を押さえて身を捩った。
そう時間もかからないうちに食べ切ってしまった俺たちは、食後のコーヒーを求めて、次なるカフェを目指していた。
「あ、ここだ」
「おっ、ここも古民家カフェだね」
先ほどのモルタル調の店と同じように、この店も、古民家の一階を改装していた。
店の壁はガラス張りで、中の様子が見える。外にはテラス席があり、パラソルによって日差しが遮られていた。
ただ、店内含めすべて満席で、とても座れそうにない。注文を終えた俺たちは、しばらく受け取り待機列で待つことになった。
「仕方ないね。受け取ったら、駅まで向かっちゃおうか」
「ああ。バイトの時間もあるしな」
大阪をたっぷり満喫しているところだが、歌原さんからのお願いも忘れてはいけない。
実は、詳しい話は店に行ってからのお楽しみとのことで、バイト先のことはほとんど何も聞かされていない。
歌原さんと同じく、喫茶店を経営しているということだけは聞いているのだが、一体何をさせられるのか……。
「お待たせしました! マンデリンのアイスコーヒー二つになります!」
「わーい、ありがとうございます!」
コーヒーを受け取って、俺たちは店を離れた。
マンデリンは、インドネシアの豆であり、ハーブやシナモンのような、複雑な風味が絡み合った味がする。酸味は控えめで、苦味と甘味が目立つ。
喫茶メロウで取り扱うようになってからは、しずくのためのブレンドに採用している。それもあって、この一杯からは、馴染みのある味がした。
「ん~これこれ! 知ってる味だ!」
「おー、だいぶ分かるようになってきたな」
「ふふっ、まあね。……でも、こんなに分かるようになるなんて、自分でもびっくり」
歩きながら、しずくがカップを太陽に透かす。
すると、コーヒーは琥珀色に輝き、氷がゆらゆらと揺れた。結露した水滴が、カップを伝って、アスファルトに落ちる。しかし、熱されたアスファルトには、跡すら残らない。
しずくはその様子を、宝物を眺めるかのような目で見つめていた。
「しずくも、もう立派なコーヒー好きだ」
「純太郎の足元にも及ばないけどね」
そう言いながら、しずくはどこか誇らしげに言った。
「あ、そこにもカフェある」
しずくが指差した先には、また別の古民家カフェがあった。
雰囲気がいいし、寄ってみたいところだが、生憎時間がない。
「また今度だな」
「うん。次来たときは、全制覇目指しちゃう?」
「いいよ。でも、店が増えてたらどうしよう」
「そのときは、また来ればいいよ」
「じゃあ、あと二回は来ないとな」
俺たちは、けらけらと笑った。まだこの旅行も終わっていないのに、すでに未来の話をしているのが、なんだかおかしかったのだ。




