第六十一話 芸術
来たときよりも陽が高くなっており、直射日光だけでなく、アスファルトからの照り返しもきつくなってきた。こんな状態では、すぐに茹でだこになってしまう。
「早く次の店に行こうか……」
「さんせーい……」
また日傘を差しながら、俺たちは次の店を目指す。またしても複雑な道をくねくねと進むと、間もなくお目当ての店を見つけることができた。
モルタル調の壁に、おしゃれな看板。外には木のベンチが並んでおり、お客さんが座ってコーヒーを飲んでいる。
「おー、こっちは現代っぽいね」
「ああ、古民家を改装したお店らしい」
建物の二階は手付かずになっていて、古民家の姿がそのまま残っている。上と下でまるで違う世界のようだ。
早速入ってみると、店内はこぢんまりとしていた。壁と同じく、床もモルタル調で、所々に木の椅子とテーブルが用意されている。
最初の喫茶店と比べると、半分、いや、それ以下の広さだ。しかし、どこからでもドリップしている様子を見ることができるし、必要最低限の機能美を重視している感じが、とても好みだった。
前にいた人たちの注文が終わり、俺たちの番が来た。
「アイスコーヒーひとつと――――」
「カフェラテのアイスで!」
「かしこまりました。少々お待ちください」
若い男性の店員が、その場でコーヒーを淹れ始める。
すると、紙フィルターをセットしたドリッパーに、小さなりんごのような形状をした、奇妙な器具を載せた。店員は、その器具をドリッパーの中に置いたまま、お湯を注ぎ始める。
「純太郎、あれ何?」
しずくが、興味深そうにその様子を眺めていた。
「あれは〝リンスアシストツール〟だ」
「り、りんす? あしすとつーる?」
聞き慣れないであろう言葉に、しずくは目を丸くする。無理もない。なんなら、俺も知ったのはつい最近だ。
以前も説明したが、リンスというのは、紙フィルターにお湯をかけ、紙の匂いを抑えたり、ドリッパーを温め、抽出するコーヒーの温度を下がりにくくするために行うこと。
店員さんが使っている奇妙な器具は、名前の通り、リンスをアシストするためにある。
ツールを使用しないリンスは、紙フィルターとドリッパーの間に隙間ができてしまうことがあり、そこから未抽出のお湯が抜けやすくなってしまう。
そこでツールの出番だ。これを使えば、紙フィルターが隙間なくドリッパーに貼り付いてくれる。
正直言って、必ずしも必要なものかと訊かれると、リンス同様、気分次第のところがある。実際、歌原さんはツールを使っていない。そもそも、リンスすらも、お客さんの希望に合わせている。ただ、俺はずっと試してみたいと思っていた。
「マキネッタのときも思ったけど、コーヒーのグッズって、ほんとにたっくさんあるよね」
「人の数だけ淹れ方があるからな。布をフィルター代わりにして淹れるやり方もあるぞ」
「え、そうなの⁉︎」
〝ネルドリップ〟と言われるその淹れ方は、紙フィルターよりも目が粗い布を使用するため、コーヒーの油分が多く残った状態で抽出できる。それによって、滑らかな口触りと、甘味を感じることができるそうだ。
「へぇ……! 今度飲んでみたいなぁ」
「俺もずっと気になっててさ。でも、昔ながらの淹れ方だから、今やってる人はあまりいないんだよな」
ネルドリップは、手入れが大変で、ハンドドリップ以上の技術が必要になる。そのため、取り扱っている店が減少傾向にあるのが、現状である。歌原さんですらやっていないし、俺も一度も触れたことがない。
「そっか、残念……」
「でも、完全に廃れたわけじゃないから、今度やってるお店、探してみようか」
「賛成!」
そうこうしているうちに、コーヒーが提供された。コーヒーを持って、店内の空いている席に腰かける。
俺が頼んだアイスコーヒーは、エチオピアの豆を使ったものだ。
エチオピアは『コーヒーの貴婦人』なんて呼ばれるほど、上品な酸味を持っている。
ひと口飲むと、トロピカルフルーツを思わせる果実感と、ジャスミンや紅茶のような風味が、鼻の奥へ一気に駆け抜けた。
「ねぇ、純太郎」
「ん?」
「さっき、メニューに〝スペシャルティティコーヒー〟って書いてあったんだけど、なんのことなの?」
「うーん……ちょっと説明が難しいんだよな」
スペシャルティコーヒーという名前は聞いたことがあっても、実際にどんなものか知っている人は、あまり多くないだろう。
日本スペシャルティコーヒー協会――――通称『SCAJ』と呼ばれる組織がある。
曰く、スペシャルティコーヒーとは、協会が定めた基準をクリアした、クオリティの高いコーヒーということらしい。
基準とは『素晴らしい風味を持ち、飲む人が美味しいと感じ、満足してくれる一杯』であること。これだけ聞くと、正直かなり曖昧である。
「要するに、こだわり抜かれたコーヒーってことらしいな。豆だけで定義されるってわけでもなくて、バリスタの腕とか、カップの管理まで含めて、こだわったものを指すみたいだ」
「そうなんだ……なんか、芸術作品みたいだね」
カフェラテを飲みながら、しずくは何気なくそう言った。
――――芸術、か。
「ん? どうかした?」
「いや、いいこと言うなーと思って」
「え、そう?」
しずくの言う通り、コーヒーもまた、職人の手によって生み出される、一種の芸術作品かもしれない。
そう思ったら、このアイスコーヒーも、一層美味しく感じた。俺も、精進あるのみだ。
「それにしても、コーヒーって不思議だよね。種類によってまったく違うんだもん」
「ああ、そこがまた面白いところなんだよな」
「うんうん。純太郎が頼んだやつはさ、こう……なんていうか、コーヒーなんだけど、コーヒーじゃない味がする? っていうか」
「分かるよ。ほとんど苦くないもんな。あ、苦手じゃなかったか?」
「うん! めっちゃ好き!」
そう言いながら、しずくは俺のアイスコーヒーを飲んで、にこやかな顔をした。
「お互い、いつの間にか深煎り以外も飲むようになったな」
「あ、確かに。正直、最初は酸っぱいのって微妙だと思ってたんだけど、フルーツっぽいって感じるようになってからは、大丈夫になったかも」
「嫌な酸味と、美味しい酸味が分かるようになってきたのかも」
「ね、なんか大人になった感じ?」
しずくは、きゃっきゃとはしゃぎながらそう言った。その様子だけ見ると、まだまだ可愛らしい少女そのものである。
美味しい酸味というのが、豆由来のフルーティさだとしたら、嫌な酸味というのは、酸化による劣化した味のことを指す。この差が明確になり、フルーティさを楽しめるようになってから、俺はまた新たな扉を見つけた。
コーヒーとは、つくづく奥深い。だからこそ、もっと色々なものが知りたくなる。
「しずくのコーヒーも、少しアレンジしていかないとな」
「ふふっ、期待してるよ〜?」
そう言いながら、しずくはカフェラテを飲み干した。俺も、負けじとアイスコーヒーを飲み干す。




