第五十九話 日傘
「「うまっ……」」
意図せず声がハモる。間違いなく、今まで食べたオムレツの中で、一番美味しいオムレツだった。ここまで上手に作るのに、どれだけの練習を重ねたのだろう。ちらりとシェフのほうを見やると、朗らかな笑顔の奥には、歴戦の戦士のような勇ましさすら感じた。
「明日の朝も、絶対食べようね」
「ああ、絶対食べよう」
「明日は違う具材を選んでみようかな?」
「そしたら、俺はソースも違うやつを試したいな」
俺たちは頷き合い、ぱくぱくと朝食を食べ進めていく。いつもはあまり朝食を摂らないのだが、こうも美味しいと食べる手が止まらなくなる。
「うま……」
「うまいな……」
このときばかりは、二人して「うまい」という言葉以外を忘れていたように思う。
オムレツを食べて、パンを食べる。これを繰り返すだけで、どこまでも幸せになれそうだ。
「てか、コーヒーも美味しいし……ちょっと完璧すぎない?」
「ああ、想像以上だった……」
専用のポットから注いだコーヒーからは、深煎りの香ばしさと、コクを感じた。インスタントとはまったく違う、それでいてとても飲みやすい、万人受けするコーヒーの代表と言っていいクオリティだ。これすら飲み放題とは、本当に恐れ入った。
「高級ホテルじゃないと満足できない体になったらどうしよう……」
まさか、そんなことはさすがに――――と言いたいところだが、否定の言葉が上手く出てこなかった。もうすでに、毎日このオムレツを食べたいと思っている自分がいるからだ。
朝食を大満足で終えた俺たちは、ホテルをあとにした。
少々食べすぎた気もするが、今日はたくさん移動するし、バイトもある。そのために精をつけた、ということにしておこう。
相変わらず、外は痛いくらいの日差しに晒されている。軽く日焼け止めは塗っているが、これではあまり意味を成さない気がする。
「純太郎、もっとこっち寄って?」
「え?」
しずくは、折り畳みの日傘を広げながら、俺に寄り添った。
日差しが遮られただけで、体感温度がぐっと下がる。
「ありがとう。あ、俺が持つよ」
「いいの? ありがと!」
しずくから傘を受け取り、並んで歩き出す。
「昨日は夕方だったからまだマシだったけど、日中はさすがにあっついねぇ……」
「ああ、日傘なしだったら焦げてたかも。ありがとな」
「あはは! どういたしまして。持ち歩いてて良かったよ。……ちょっと照れるけどね」
確かに、公衆の面前でこの密着具合は、なかなかに恥ずかしい。
「俺も自分の分買おうかな……」
「お、いいじゃん!」
「でも、変かな? 男が日傘さしてたら」
「ぜーんぜん変じゃないよ? 普通に見かけるし。こうも暑いと、差さないほうが危ないよ。それに、純太郎ってあんまり肌強くないでしょ?」
「え、なんで分かった?」
「こんなに肌白かったら、言われなくても分かるって」
なるほど。俺は自分の真っ白な腕を見ながら、納得する。
昔から日焼けをすると、赤くなって痛みが出るタイプだった。日焼け止めでかろうじて抑えていたが、長時間外にいると、それでもひりひりと痛む。日傘があれば、それも防げるかもしれない。これからは、活用するとしよう。
「せっかく綺麗な肌なんだから、ちゃんと守らないとね。あ、今日ホテル戻ったら、スキンケアのやり方教えてあげる。純太郎も絶対したほうがいいよ!」
「そうなのか?」
「てか、しなくていい人なんて、ほんとはいないんだよ。荒れ始めてから治そうとしたんじゃ、もっと大変だし。私なんてほら、毎日ちゃんとお手入れしてるから、つるっつるでしょ?」
確かに、しずくの顔はつるつるしていて、白玉のようにもちもちで柔らかそうだ。
「……ん? なんで笑ってるの?」
「なんか、赤ちゃんみたいだと思って」
「でしょ? よく言われる」
自分の頬をつつきながら、しずくは嬉しそうに言った。
羨ましく思って眺めていると、しずくはにやっと笑って、頬を近づけてきた。
「触る? 純太郎ならいいよ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
指で優しく触れると、ぷにっとした感触のあと、弾き返されるような弾力を感じた。これが、柔らかさとハリを兼ね備えた、大人気モデルの肌か。急に、自分がどれだけ贅沢な思いをしているのかという、実感が湧いてきた。
「どう? 触り心地よくない?」
「ああ……」
調子に乗って、ぷにぷにと揺らしたりして遊んでいると、徐々にしずくの目つきが変わってきた。どうやら、ちょっと不機嫌な様子だ。
「純太郎……なんか、私のほっぺをおもちゃにしてない?」
「あ、悪い。あまりにも手触りがよくて」
謝っている間にも、俺の手は止まらない。
ため息をついたしずくは、やれやれと肩を竦めた。
「もう、純太郎は仕方ないなぁ。ホテル戻ったら、いくらでも触っていいから。今は一旦お預けね?」
「……分かった」
名残惜しさを覚えながら、俺は手を引っ込める。
「でも、これでスキンケアの大切さが分かったでしょ?」
「あ、ああ」
まあ、いくら自分の肌質がよくなったところで、今みたいに触りたいとまでは思わないだろう。ただ、それでしずくに褒められるなら、多少の手間などないようなものだ。
そんな話をしているうちに、俺たちは駅についていた。ここから、中崎町駅に向かう。
地下鉄で移動し、改札を抜けて地上に出ると、一層日差しが眩しく感じた。
「なんか、わくわくしてきた……!」
古民家に挟まれた道を歩いていると、しずくは興奮気味にそう言った。
中崎町は、第二次世界大戦の空襲をまぬがれた街であるため、大正時代や昭和初期の木造建築が、そのまま残っているらしい。
住民の高齢化によって、一時期は空き家が目立つようになったものの、古民家を改築したカフェやショップが流行り出した頃から、活気を取り戻しつつあるようだ。
そして戦後、区画整理が行われなかったことで、やけに細い道がそのまま残っていたりする。予習のために、色々調べたりしたが、こうして実際に歩いてみると、頭に入れておいたマップなんて、まるで意味をなさない。まさに、迷路のようだった。
「こっちで合ってる?」
「大丈夫。このまま真っ直ぐだ」
くねくねと何度も道を曲がり、事前に目をつけていた店を目指す。
そこは、喫茶メロウに近い、まさに喫茶店といった外観の店だった。レンガ調の壁は、経年劣化によって味のある色味になっている。掲げられた看板は、所々錆びていて、どこか物寂しい。この外観こそ、レトロという言葉に相応しい。
「すごい建物だね……いつからあるんだろ」
「お店自体は、創業七十周年らしいぞ」
「お~……なんか、あんまり想像つかないね」
店の中には、壁や床、天井に至るまで、コーヒーの香りが染み付いているようだった。そして、ほのかにタバコの香りも混ざっている。ほんの十年くらいまでは、タバコが吸える喫茶店だったらしい。時世の影響を受け、今では完全禁煙になったようだ。
今は二代目のご夫婦で経営しているようで、カウンターの向こうに、年配の男性と女性の姿がある。
店の中で何より目立つのは、カウンターの上にある大きな『サイフォン』だ。
フラスコ内から響く、こぽこぽとした音が、なんだか心地よい。




