第五十八話 オムレツ
朝。ぼんやりとした頭のまま、まばたきを繰り返す。
視界には、見知らぬ天井が広がっている。おもむろに体を起こし、辺りを見回した。すると、少しずつ意識が覚醒してきて、自分がどこにいるかを思い出す。
それと同時に、けたたましいアラームが、隣のベッドから鳴り響く。
「ん……うう……」
アラームを止めながら、しずくが身を起こす。寝ぼけ眼に、ぼさぼさの髪。彼女の意外な一面を見て、朝から心が温かくなる。しずくも年相応の女の子なんだと、改めて実感した。
「おはよう、しずく」
「おはよ……あれ、純太郎……? なんで――――」
目元をこすっていた彼女は、はっと気づく。
「やばっ! ちょ、ちょっと待って! あっち向いてて!」
「え?」
「すっぴんだし! 髪も終わってるし! こんなの見せたら死ぬ!」
「いや、そのままでも十分可愛い――――」
「嬉しいけど、プライドの問題!」
言われた通りに背を向けていると、ベッドから飛び降りた彼女が、素早く動き回る音が聞こえてきた。一体この後ろで、何が行われているのだろう。
「はぁ……はぁ……オッケー、これならまだ……うん、多分大丈夫」
「振り向いていいのか……?」
「イエス」
「なんで英語?」
くすくす笑いながら振り返ってみると、そこには普段の様子と限りなく近いしずくがいた。
髪は整えられていて、すっぴんだと言っていた顔も、いつも通り綺麗で可愛いが、この前のプールの補講のときのような、幼さを感じた。
「あ、でも、やっぱりあんま見ないで。まだ下地しか塗ってないから」
「下地?」
「えっと、まだ土台しか終わってない、みたいな感じ? ごめん、ちょっと待っててね! 急いで準備するから!」
ドレッサーを陣取った彼女は、ポーチから次々と化粧品を取り出す。
女性がメイクしているところを見るのは、これが初めてだ。終わるまで眺めていたかったが、しずくが睨みを利かせてくるため、諦めて着替えることにした。
「明日は純太郎よりも早く起きなきゃ……」
昨日の夜、風呂を出た俺たちは、特に何事もなくそのまま眠った。お互い、変に浮かれている部分はあったものの、移動などで疲れていたのか、あっという間に眠ってしまったのだ。
何も起きなくて残念という気持ちと、心の準備をする時間がもらえて安心したという気持ち。その両方が、俺の胸の内に渦巻いている。
「髪のセットはあんまり時間かからないんだけど……メイクはなぁ」
ぶつぶつ言いながらも、しずくはてきぱきとメイクを進めていく。
そして、そう時間が経たないうちに、彼女はますます魅力的になった。
「はい! お待たせ! どう? こっちのほうが可愛いでしょ!」
「ああ、可愛いよ」
「えへへ、まあ、それほどでもあるけどね。てか、待たせちゃってごめんね?」
「大丈夫だよ。まだ急ぐような時間でもないし」
「よかった……遅れたら絶対後悔してたよ」
しずくが、時計を確認しながら言った。
このホテルでは、朝食ビュッフェが用意されている。高級ホテルの料理が食べられる、またとない機会だ。遅刻して食べられなかったなんてことになったら、目も当てられない。
ホテルのレストランに向かうと、そこにはすでに多くの宿泊客がいた。ただ、レストランはかなり広く、多くの人が集まっていながら、席にはかなり余裕がある。
たまたま空いていた窓際の席を確保すると、緑溢れる中庭の景色を見ることができた。
しかし、しずくは景色よりも、ずらりと並んだ料理に夢中なようだ。
「よーし、がっつり食べるぞ!」
気合い十分といった様子で、しずくが料理のもとへずんずん向かっていく。
俺も負けてはいられない。すぐにその後を追った。
――――さて、どうしようか。
ずらりと並んだ料理を前に、俺は悩んでいた。選択肢が多いと、優柔不断な俺は、どうしても迷ってしまう。主食は、米かパンか。どちらもというのは、さすがに食べ切れない気がする。
ちなみに、しずくは両方食べるつもりらしい。それから、肉料理と卵料理を、ふんだんに盛りつけている。
熟考の末、パンを選んだ。パンはどれもホテルで作られているらしく、特別感があったからだ。とはいえ、米も有名ブランドのものを使用しているらしいから、後ろ髪を引かれる思いなのは否めない。
「純太郎……! オムレツだって!」
「オムレツ?」
しずくが指差した先には、ライブキッチンコーナーがあった。どうやら、オムレツを注文すると、シェフがその場で作ってくれるらしい。
「行こうよ! 絶対美味しいよ!」
「ああ、もちろん」
意気揚々と向かうと、シェフは優しげな笑みを浮かべながら、俺たちを迎え入れてくれた。
「こちらからトッピングをお選びください」
シェフが示したメニュー表には、ハムやチーズなど、様々なトッピングが用意されていた。これを、オムレツの中に包むことができるらしい。
「えっとじゃあ、チーズとハムで! ソースはケチャップでお願いします!」
「俺も同じで」
「かしこまりました」
シェフは、流れるような手つきでオムレツを作っていく。もはや、手際がいいなんてもんじゃない。これは、ひとつの職人技であり、芸術でもある。
最後に飲み物を用意してから、俺たちは席に戻った。飲み物は、もちろんコーヒーである。
「ひゃぁ……ローストビーフとろけるぅ……」
いきなり肉を頬張ったしずくは、恍惚とした表情を浮かべた。朝からは重たいかと思い、遠慮したのだが、しずくを見ていたらどうしても食べたくなってしまった。第二陣では、必ず取ってこよう。
俺が最初に手に取ったのは、クロワッサンだった。手に持った感じは、とても軽く、顔を近づけずとも、しっかりとバターの香りを感じる。ひと口食べてみると、さくっ、ぱりっとした食感のあとに、優しい甘味と、濃厚なバターの味が口いっぱいに広がった。何もつけずとも、十分美味しい。これは、他のパンも期待できそうだ。
「ねぇ、見て見て」
しずくは、コックが作ってくれたオムレツを、スプーンでつついた。すると、オムレツがぷるんと揺れる。
「おお、すごい……!」
「ねっ! プリンみたいだよね!」
子供のようにはしゃぐしずくが、あまりにも可愛くて、俺は一瞬オムレツのことを忘れてしまった。
――――と、いかんいかん。
せっかく作ってもらったのだから、出来立てを食べなければ。
オムレツをスプーンですくうと、とろっとチーズが溢れ出してきた。なんて食欲を刺激する見た目だろう。我慢できずに、すぐさま口に運ぶ。
卵の火入れは完璧で、口の中ですぐにとろけた。卵には、軽く塩味がついているだけ。しかし、そこにハムとチーズが加わることで、味がぐっと引き締まっている。上からかけられたケチャップも、酸味が抑えられており、トマトの旨味がぎゅっと凝縮されている。このオムレツのために作られたのかと思うほど、見事に調和していた。




