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第五十一話 緊張

 八月某日。

 俺は、東京駅でしずくと待ち合わせしていた。


「ごめーん! お待たせ!」


 新幹線の改札の近くで待っていると、息を切らしたしずくが、キャリーケースをがらがらと引きながら現れた。

 キャスケット帽を目深にかぶり、伊達眼鏡をかけている。

 普段から当たり前のように接してくれる彼女だが、今をときめく大人気モデルであることを忘れてはいけない。東京駅を変装もせずに歩こうものなら、あっという間に囲まれてしまう。


「おはよう。俺も今さっき来たところ」

「よかったぁ。まだ駅弁選ぶ時間あるよね!」


 しずくが、安心したように笑った。

 なるほど、駅弁を選ぶ時間が欲しくて、こんなに急いで来たのか。


「駅弁大好きなんだよねぇ……前に仕事の移動で新幹線使ったんだけど、駅弁選ぶのに時間食っちゃって、スタッフさんたち焦らせちゃってさ」

「乗り遅れそうになったのか?」

「そうそう!」


 しずくはえへへ、と頬を掻く。

 なんて可愛らしい理由なのだろう。駅弁コーナーで右往左往するしずくを想像して、自然と頬が緩んだ。


「あのときは申し訳なかったなぁ……あ、でもさ、たくさんあるんだから仕方なくない? この中から選べって、そりゃ時間かかるでしょ!」


 目の前には、駅弁のコーナーが広がっていた。まるで、デパ地下のようだ。これだけ色んな店が並んでいたら、迷ってしまうのも無理はない。

 何十個と積まれた弁当の山は、かなり圧巻で、減るたびに忙しなく補給されていく様子も、見ていて飽きない。


「純太郎はなんの気分?」

「うーん……肉かな」


 遠目に見える厚切り牛タンと書かれた看板に、ふらふらと吸い寄せられる。

 サンプルを見るに、肉厚な牛タンが何枚も載っていて、とても美味しそうだ。

 しかし、その隣の店に並んだカツサンドも気になる。ふっくらとした食パンに、分厚いカツが挟まれている。見るからに食べ応えがありそうだ。

 どれもこれも美味しそうで、見ているだけで腹が減ってくる。なるほど、しずくが新幹線に乗り遅れそうになったのも頷ける。


「もしかして、絶賛迷ってる感じ?」

「……その通り」

「じゃあさ、私牛タン弁当にしていい? あとで交換しようよ」

「え、いいのか?」

「うん! 見てたら、私も食べたくなっちゃった」

「ありがとう……!」


 なんとありがたい話。喜びのあまり声が上擦ってしまった。しずくに「大袈裟だなぁ」なんて笑われてしまい、少しだけ照れ臭い。

 これで駅弁は手に入ったわけだが、しずくのおかげで思いの他早く決まったことで、まだ時間がある。

 俺たちは、時間まで駅をぶらつくことにした。


「あ、カフェだ。ねえ、コーヒーも買ってかない?」

「ああ、いいよ」


 俺が笑みを浮かべると、しずくがつられるように笑う。


「純太郎、なんかゴキゲンだね。どしたの?」

「いや、しずくから提案してくれたのが嬉しくて」

「ふふ、なにそれぇ。私だって、もう立派なコーヒー好きだよ?」


 そう言って、しずくは胸を張った。

 初めは、俺の趣味に付き合わせてしまって申し訳ないとすら思っていた。

 しかし、こうして彼女が何気なくコーヒーを飲みたいと言ってくれると、とても安心する。


「ま、純太郎とかマスターの前で言うのは恥ずかしいけど……ん?」


 しずくは、店先に置かれた看板を見て、目を細めた。看板には、お店のメニューが書かれている。特に不自然なところはないように見えるが――――。


「ねぇねぇ、この『コールドブリュー』ってなに?」

「ああ、水出しコーヒーのことだな」


 ブリューという言葉には〝淹れる〟という意味がある。コールドは、言わずもがな冷たいという意味で、冷たい水で長い時間かけて抽出したコーヒーを、コールドブリューというのだ。

 ストレーナーという、多くの場合は円柱状をしているフィルターに、コーヒー豆を入れて、水を入れたピッチャーにセットする。あとは十二時間ほど待てば、コールドブリューコーヒーの完成だ。

 熱湯で淹れるドリップコーヒーは、豆の苦味や渋味といった成分を引き出して楽しむもの。

 しかし、その点コールドブリューは、苦味や渋味を抑えることができるため、すっきりとした味わいになる。分かりやすく言うなら、とても飲みやすい。コーヒー初心者にも、おすすめしやすい一杯だ。


「へぇ……! 買ってみよっと!」

「俺も、久しぶりに飲もうかな」


 このカフェのコールドブリューは、豆によって二種類あった。

 ひとつは、お店限定のブレンド。そしてもうひとつは、期間限定のブレンド。

 まずは基本的な味を知ろうと思い、お店限定のブレンドを選んだ。一方しずくは、期間限定という言葉に釣られ、もう一方のブレンドを選んだ。


「え、すごっ! なんか透き通ってる!」


 カップを光にかざしながら、しずくが感心したような声を漏らす。

 喫茶メロウでしずくに提供しているアイスコーヒーと比べると、色味はかなり薄く、紅茶に近い色をしている。このカフェは、浅煎りの豆をメインに使っているようで、俺のカップも、色味はしずくのものとよく似ていた。

 深煎りと違って、中煎り、浅煎りの豆は色素が薄いため、薄い色になるのだ。


「――――んっ! 待って⁉ なにこれ⁉」


 一口飲んだ瞬間、しずくは目を見開いた。


「フルーツの味がする! 全然苦くないし! 浅煎りってこんなに違うの⁉」

「コクとか、ビターな風味を楽しむ深煎りと違って、浅煎りは豆の個性を楽しむものだからな」

「豆の個性?」

「豆っていうのは、土壌とか、気候とか、育つ環境によって色んな変化があるんだ。そこに豆本来の風味も合わさって、色んな個性が生まれるんだよ。ベリーの香りだったり、柑橘系の香りだったり、ナッツの香りだったり」

「そうなんだ……! おもしろっ……!」


 しずくのはしゃいでいる様子に、思わず噴き出しそうになったが、それと同時に、少し安心した。

 様々な風味が楽しめる浅煎りコーヒーだが、独特な酸味が苦手という人も多い。

 しかし、コールドブリューであれば、そういった棘も丸くなる。浅煎りを初めて挑戦するときは、コールドブリューから試して見るのは、ありなのかもしれない。しずくを見ていて、改めてそう思った。


「ねぇねぇ、そっちはどんな感じ?」


 おっと、しずくが飲んでいる様子に夢中で、自分のコーヒーを疎かにしていた。

 ひと口飲んだ瞬間、まるでブドウを思わせる香りと、チョコのような風味を感じた。かなり独特だが、とても美味しい。


「交換するか?」

「しよしよ!」


 カップを交換してすぐ、しずくがストローに口をつける。

 その姿に、心臓が小さく跳ねる。彼女と恋人になった今でも、俺はこんな小さなことにも緊張してしまうような、情けない男であった。


「おぉ~! 確かにブドウみたい! って、どうしたの?」

「い、いや、なんでもない……」

「……おやぁ~?」


 しずくが、にやにやしながら顔を覗き込んでくる。俺は、思わず目を逸らした。


「もー、純太郎はピュアすぎるよ。まあ、そういうところも可愛いんだけどさ」

「可愛い?」


 そのとき、たまたま近くにショーウィンドウがあった。ガラス面に、俺の姿が反射している。

 そこにいたのは、可愛さの欠片もない、冴えない男だった。


「まあまあ、こういうのは、恋する女の子にしか分からないもんなんだよ」

「……そういうものなのか」

「うん、そういうものなの。……そうだ、そんなに緊張するならさ」


 しずくは辺りをきょろきょろと見回し、人に見られていないことを確認すると、突然俺の頬に口づけをした。


「えっ⁉」

「ほ、ほら、これで間接キスなんてへっちゃらでしょ?」


 そう言って、しずくは照れ臭そうに笑う。


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