聖水
建国祭から、数日が過ぎた。
あの騒動の後も、王都では様々な出来事が続いていた。
ロザリアさんの姉であるイザベルさんが、シオン聖国によって逮捕されたこと。
その事実がベルシュタイン侯爵夫人によって公にされ、貴族社会に大きな波紋を広げた。
そして、ピラカンザ伯爵が一連の騒動の責任を取る形で、自ら爵位を返上したこと。
特に伯爵の爵位返上は、人々に大きな衝撃を与えたらしい。
その影響もあってか、私に向けられていた非難の声も、多少は和らいでいた。
とはいえ、すべてが解決したわけではない。
私を快く思わない人々が、今もいることは分かっている。
そんな私を心配して、周囲の人たちは何かと気を遣ってくれていた。
もちろん、ノアールも。
「マリア。また考え事ですか?」
不意に声を掛けられ、私は顔を上げた。
そこには、心配そうに私を見つめるノアールの姿があった。
「ノアール?! うん、少しね……」
「マリアが心配する気持ちも分かりますわ。ですが、きっと大丈夫ですわよ」
ノアールはそう言って、優しく私の膝に乗ってきた。
その言葉はありがたかったけれど、私の胸には、もう一つ気掛かりなことが残っていた。
「ありがとう、ノアール。でもね、実はそれだけじゃないの」
「まあ、他にも何か?」
「ええ。建国祭のパーティーでのことなんだけど……」
私は少し迷ってから、あの日の出来事を話し始めた。
「オリビアさんと会った時、私には彼女の心の声が聞こえたような気がしたの」
「心の声、ですか?」
「ええ。『助けて』って……」
その言葉を口にした途端、あの時の光景が鮮明によみがえってきた。
華やかな衣装に身を包み、大勢の人々に囲まれていたオリビアさん。
けれど、あの時の彼女は、本当に幸せそうだっただろうか。
「もちろん、私の空耳だったのかもしれないわ。でも、どうしても気になってしまって……」
私はノアールを見つめた。
「ねえ、ノアール。もう一度、オリビアさんと会う機会を作れないかしら?」
すると、ノアールは少し困ったような表情を浮かべた。
「そうですわね……。ですが、今のマリアの立場では難しいのではありませんこと?」
「……そうよね」
私は小さく肩を落とした。
「ただでさえ色々な騒動を起こしてしまったのに、これ以上セインフォード殿下にご迷惑をお掛けするわけにはいかないもの」
「まあ! そういう意味ではありませんわよ」
ノアールは驚いたように目を丸くした。
「セインフォード殿下は、マリアのことを溺愛していらっしゃるでしょう?」
「で、溺愛っ?!」
思いがけない言葉に、私は思わず声を上げてしまった。
「そ、そんなこと……!」
「あら? マリア、お顔が真っ赤ですわよ?」
ノアールは楽しそうに笑った。
「そんなに恥ずかしがらなくてもよろしいではありませんか。周囲の者は、皆そう思っておりますわよ?」
「も、もう! ノアールったら!」
私は慌てて両手で頬を押さえた。
確かにセインフォード殿下は、いつも私を大切にしてくださる。
でも、溺愛だなんて……。
そんなことを改めて言われたら、凄く恥ずかしくなってしまう。
「私は真面目に相談しているのに!」
「あら、あたくしも真面目ですわよ?」
そう答えるノアールの口元には、まだ笑みが浮かんでいた。
「セインフォード殿下は、マリアが再び危険な目に遭うことを何よりも心配していらっしゃいます。ですから、オリビア様に会うためとはいえ、危険が予想される場所へ行くことには反対なさるでしょう」
「……そうね」
その言葉には、私も納得するしかなかった。
確かに、これまで何度も心配を掛けてしまっている。
だからこそ、今度は慎重に行動しなければならない。
「ですが……」
ノアールは何か良い案を思い付いたようだった。
「そうですわ! 一つ、良い機会がございますわよ」
「えっ? 本当?」
「ええ。建国祭の最終日には、帝国時代の皇帝や皇后をはじめ、亡くなられた方々の魂を慰め、平和への誓いを新たにする式典が神殿で執り行われますでしょう?」
「ああ、慰霊の式典ね」
「そうですわ。王族や貴族の方々も出席される大切な式典ですもの。マリアも出席なさればよろしいのではありませんこと?」
「なるほど……!」
私は思わず身を乗り出した。
確かに、それなら不自然ではない。
私も聖女として、亡くなった方々の冥福を祈りたいと思っていた。
それに、オリビアさんも式典に出席するかもしれない。
もしそうなら、もう一度彼女と話す機会があるかもしれない。
「ありがとう、ノアール! それなら私にも参加できそうね!」
「ただし!」
喜ぶ私に、ノアールはぴしゃりと言った。
「決してお一人でオリビア様に会おうなどと、危険な真似はなさらないでくださいませね」
「わ、分かっているわ」
「本当ですの?」
「本当よ! 私だって、これ以上皆に心配を掛けたくないもの」
そう答えると、ノアールはようやく安心したようだった。
「それならよろしいですわ」
「ええ! 早速、セインフォード殿下に相談してみるわ!」
こうして私は、慰霊の式典への出席について、セインフォード殿下に相談することにした。
◇
「慰霊の式典に出席したい?」
私の話を聞いたセインフォード殿下は、少し驚いたようだった。
「はい。私もその一応元聖女として、亡くなられた方々のために祈りを捧げたいのです」
「……それだけではないのだろう?」
「えっ?」
思わず顔を上げると、殿下は私をじっと見つめていた。
「マリア。君は他にも目的があるんじゃないのか?」
「……殿下」
私は少し迷った末に、オリビアさんのことを打ち明けた。
あの日、彼女から助けを求める声が聞こえたような気がしたこと。
それが今も、どうしても気になっていること。
そして、もう一度会って確かめたいと思っていること。
殿下は途中で口を挟むことなく、最後まで私の話を聞いてくださった。
「……なるほど。そういうことだったのか」
しばらく考え込んだ後、殿下は静かに口を開いた。
「君がそう感じたのなら、何か理由があるのかもしれないな」
「では……!」
「式典への出席は認めよう。だが、決して無茶はしないと約束してほしい」
「はい!」
「それから、オリビア嬢と話す機会があったとしても、決して二人きりにはならないこと。何か異変を感じたら、すぐに私か護衛に知らせるんだ」
「分かりました。お約束します」
私がそう答えると、殿下は少しだけ表情を和らげた。
そして、傍らに置かれていた小さな小瓶を手に取った。
「それと、これを持っていてほしい」
「これは……?」
差し出されたのは、透明な液体が入った小さな硝子瓶だった。
「聖水だ」
「聖水……ですか?」
「ああ。私か『王家の病』掛かった時に貰った物だ。万が一、マリア。君が危険な目にあって自分では治せない怪我をした時は、身を守る助けになるだろう」
私は小瓶を受け取り、そっと両手で包み込んだ。
「ありがとうございます、殿下」
「本当なら、こんなものが必要になるような事態にはなってほしくないのだがな」
そう言って、殿下は苦笑した。
「君は困っている人を見過ごせない。そんな君だからこそ、私は心配なのだ」
「……申し訳ありません」
「謝る必要はない。ただ、君自身のことも大切にしてほしい」
殿下はそう言うと、優しく私の手を握ってくださった。
「君に何かあれば、私は……」
そこまで言いかけて、殿下は言葉を止めた。
そして、改めて私の目を見つめた。
「だから、必ず無事ていて欲しい」
「……はい。約束します」
私は殿下の手を握り返した。
その温もりに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
こんなにも私を大切に思ってくださる方がいる。
そのことが、何よりも嬉しかった。
けれど――。
あの日、聞こえた声。
『助けて』
あれが本当にオリビアさんの心の声だったのなら、私はどうしても見過ごすことができない。
私は手の中の聖水を見つめた。
どうか、何事もありませんように。
そう願いながら、私は建国祭最終日の式典を迎えることになった。




