第76話 最大限の譲歩
「おい、起きろ」
「……うぅん」
「シロウサギ、いい加減起きろ」
……誰の、声だ?
聞き覚えがない。
……というか俺はなにをしてたんだっけ……?
「チッ……さっさと起きろ!!」
ドスの効いた、それでいて子どもっぽさの残った不思議な声の怒鳴り声。
しかしそこに込められたパワーは圧倒的で、俺は思わず跳ね起きる。
「うお!?」
そして目の前にいたその存在に、反射でまた飛び跳ねる。
「なにを驚くことがある。お前と全く同じ姿だろうが」
同じ……なのか。
悪い笑みを浮かべて俺を見据えるのは、全身が痣に侵食されきったような俺……イッカクウサギ。
全くふわふわじゃない、チリチリと焼け焦げたような荒れ果てた黒紫色の体毛。
疎らに生えた体毛の隙間からは赤茶色にくすんだ汚らしい肌がよく見える。
脳天にそびえ立つ角は悪魔の角のように歪に捻れていて、漆黒の中に金を混ぜ込んだような、漆塗りに近い輝きを纏っている。
……というか、そもそもここはどこだ?
足元の草花は乾いて枯れ果て、足を軽く動かすだけで塵になって飛んでいってしまう。
暗雲の立ち込める空は不気味なほど薄暗くて、雲の先に太陽がないのではないかと疑ってしまいたくなる。
焼け焦げたような尖った臭いは、俺のそっくりさんという火の手から逃げろと言っているようで落ち着かない。
「君は……誰なんだ?」
少しでも不安を和らげたいのか、いつの間にかそう問うていた。
黒い俺はキッと俺のことを睨み、いきなり突進してきた。
突然のことに反応できず、枯れ草を塵にしながら地面を滑る。
その突進はとんでもない威力で、数秒経ってようやく止まることのできた俺は土煙に包まれながら激しく咳き込んだ。
そうしているうちに黒い俺は俺のすぐ目の前に迫っていて、倒れたまま無様に身構える。
「お前如きがオレにタメ口だと? 最初は起きるまで待ってやったがもう我慢の限界だ。オレは既に最大限譲歩した。オレが許可するまで質問をするな、喋るな」
「い、いきなりなにを……」
「許可するまで喋るなと言った」
そう聞こえた直後、空間が拡大されたかのように捩れた角で視界が埋まった。
瞬きする間もなく角は俺の瞳を貫こうとするが、今度は視界が桃色に光って黒い俺が弾かれる。
ここでようやく俺は思考が追いつき、情けない声を上げながら後退する。
「チッ、忌々しい……オオカムヅミノミコトめ」
「お、お前なんなんだよ!」
「ちっ……お前のせいで話が進まん。黙って話を聞け」
「だから」
「聞こえなかったのか? 聞け」
逆らう気力さえ湧かないほどの重圧、なにもされていないのに鉄球に押しつぶされているような感覚に陥った。
声が喉を通らず、ただ口いっぱいに溜まった唾液と血が伝うだけだった。
「まず、オレはお前の中にいる……まぁ、神みたいなものだ。そして呪いでもある……お前にとっては痣って言った方が分かりやすいか」
なんでもないように、その辺にゴミをポイ捨てするように黒い俺はそう言った。
それを拾い集める間もなく黒い俺は話を続ける。
「で、オレは今お前に縛りつけられている。故にお前が死ぬのはオレにとっても都合が悪い。故にこれまで力を行使して助けてやっていた……が、お前はある時を境に痣を触らなくなったな? なぜだ。答える許可をやる」
絶対的に自分を上だと信じて疑わない、その態度に内心苛立ちを覚えた。
しかしここで抵抗しても不毛なのは、痛い思いをするだけなのはこれまでのやり取りで何となく分かってた……素直に質問に答えるのが吉か。
「痣を触ると、俺が俺じゃなくなるみたいになるし……痛い。身体を噛みちぎられた痛みだって覚えてるのに、それより遥かに痛い、苦しい。それに痣を触った後は全身がズタボロになるし、なにより……」
俺は強く黒い俺を睨みつける。
「友達が傷つくかもしれない」
「……害意を向けることを許可した覚えはないが?」
「知るかよ。大体お前がいるせいで俺の顔に痣ができてんだろ? これまで痣のせいで俺がどれだけ苦労してきたと思ってる。何度死のうと考えたと思ってる。何度諦めたと思ってる。自分のゴミさにどれだけ絶望したと思ってる」
素直に、口答えせずいるのが一番早くて楽。
そう頭では分かっているはずなのにつらつらとこの口は恨み言を吐き出し続ける。
一方で黒い俺は後ろ足で耳を掻き、大きく溜息をつきながら空を見る。
「それこそ知るかよ、というやつだ。お前の都合などオレには何一つ関係ない。だが、力を使うことに躊躇いがある理由は把握した。それらが解決されればお前は再びオレを表に出すのだろう? ならそうしようじゃないか」
「……信用、すると思うか?」
「何?」
黒い俺が俺の方を見た。
「お前は人の気持ちが分からないんだな」
「あぁ。分かる必要もない」
「そうか、じゃあこの話はこれで終いだな」
「は? お前、拒否権があると……」
「さっきみたいに突っ込んでくればいいだろ。だって、お前……俺が痣に触らないと出てこれない寄生虫なんだろ?」
黒い俺の眉根がピクリと動き、世界がガタガタと唸りを上げる。
吊り上げられたように耳が立ち、人魂のようにゆらゆらと揺れ動く。
全身が圧縮されて縮こまってしまいそうな恐ろしさ、今すぐにでも泣いて逃げ出したい。
かつて受けていた、俺を下だと信じて疑わない奴の悪意……けど、けどこれを今受け止めなかったら……俺は本当に痣に、こいつに呑まれてしまうような気がした。
「で、すぐに激昂して襲いかかってこないのと、俺の瞳を貫けなかったのを見るに……俺に一定以上危害を加えられない。違うか?」
「お前……このオレを……」
「言っとくが挑発してるんじゃないぞ。本当はもっと呪詛吐いて、過去の鬱憤全部ぶつけてやりたい、殺してやりたいくらい憎い。が……それに意味がないことも分かる。だから俺と対等に話せ」
黒い俺を中心として、蜘蛛の巣状に地割れが広がっていく。
揺らめく耳は奴の怒りと呼応するように激しく靡き、じわじわと黒い粒子が立ち上っている。
今にも破裂しそうな心臓と、無様に震える足元を決死の覚悟で押さえ込み、虚勢という名の鎧を着込む。
「ふざけているのか? このオレがお前と」
「分からないか? 俺が痣に触れないとお前は外に出られない、都合が悪い。俺が主体なんだよ。その俺が対等に話せって言ってるんだ」
込み上げる冷や汗でびしょ濡れの身体から目を背けながら、俺は黒い俺を不敵に見つめてやる。
「これが俺の、最大限の譲歩だ」




