警部補・八神典子の悲しみ・2
八神と『彼』とは近所で育った幼馴染で、小学3年の時分から共に同じ空手道場に通い、切磋琢磨した仲でもあるが、それが いつから男女の仲になったのか―、
…明瞭に答えることは難しいが、ともかく、高校を出る頃にはもう、この先も、2人は離れることは無いのだと、誓い合っていた気がする。
通い続けた道場で、心と身体、力と技を磨いた2人は、いつしか共に警察官になることを夢見たが、早くに父を亡くしていた『彼』は、高卒時点で警察官B試験を受け、交番勤務の巡査となる道を選んだ。
一方 八神は、空手の大会での実績を買われ、推薦と両親の賛同を得て大学に進み、その後警察官A試験を突破した準キャリア組である。
学歴や肩書に於いて、女が男よりも上になってしまうと、それこそ先ほどの2人の部下のように、不平不満を漏らすような連中は、やはり どうしても現れる。
それは彼らが真剣に仕事に取り組み、出世と栄達を望む以上、ある程度やむを得ない、向上心の裏返しのようなものだと八神は割り切っているが、しかし こと『彼』に至っては、この点に関しても、完璧なまでに八神を一度たりとも傷付けるような真似をしたことが無かった。むしろ この春には八神の昇進を我が事のように喜び、件の腕時計を贈ってくれた迄ある。
それでいて、警察官の職務にも人一倍熱心に当たり、幼い頃から そうではあったのだが、善意と正義感の塊のような『彼』なのである。
市井に暮らす人々の安全と安心の為、出世や昇進よりも、現場で働き続けることを望む『彼』であり、その尊い志を宿す眼差しは常に精悍で美しかった。
本当に、自分の妄想が生んだ王子なのだと言われれば、正しく そうなのかもしれないと思えるほど、『彼』は素晴らしい存在だった。
少し野暮ったい自分には、勿体無いほどの―。
けれど これは、妄想などでは決してなく、『彼』は、八神が『彼』を愛したように、『彼』もまた、八神を愛してくれていた。
―今年、4月末の大型連休を間近に控えた あの日、2人は2週間ぶりのデートを楽しみにしていたのだ。それは、2人の今後について、八神から ある大切な『返事』を『彼』に伝える為の、特別なデートになる予定だった。
一足早く勤務を終え、待ち合わせの場所に向かおうとしていた八神のスマホへ、『彼』からの着信があった。
この後の2人の予定の為、最早『彼』も勤務を終える間際であったが、そこに2人の子どもが、ただならぬ様子で、『彼』の勤める交番に、助けを求めてやって来たのだという。生憎 他の案件も立て込んでおり、その子らの対応に回るには人員が不足する為、『彼』が それを引き受けたのだそうだ。
勝手を言って済まないが、そういう訳だから、待ち合わせには少し遅れることを許してほしい―…という、『彼』には ありがちな、事後承諾を求める電話だった。
いかにも いつもの『彼』らしいことだと笑って、その『遅刻』を あっさり許可したことを、八神は今になって、ずっと後悔している。
何故なら、 おそらく その2人の子どもに連れられていったのであろう『彼』は、その後 文字通り『消えて』しまったからである―。
度々2人のことを羨まし気に冷やかしてきた課内の同僚も、『彼』と同じ交番に勤務していた仲間の警官たちも、『彼』の勤務態度を高く評価していた所轄の上長も、今や、最初から『彼』の存在など無かったかのように、『彼』を覚えている者は、誰1人として居ない。
かくいう八神も前述の通り、あまつさえ、彼女の持つスマホのデータすら、『彼』に関するものは一切 消えて無くなってしまったのだ、あの日を境に―。
それでも、これだけ『彼』のことを彼女が忘れずにいて、それこそ、『幸せな幻想に憑りつかれた哀れな女』という不名誉な評判を戴くまで、消えた『彼』のことを周囲に訴え続けたのは、偏に彼女の腕に残る、『彼』からの昇進祝いがあったからである。
彼女は今も、えもいわれぬ、不思議な喪失の悲しみに暮れる度、その腕時計に縋っては、『彼』のことを忘れないよう、薄れる記憶が消えないよう、祈るように、1人の『時間』を耐えているのだ。
◇ ◇ ◇
「―いや~! 暑い暑い!! まったく、雨が上がった途端これだよ! 参るね~!
―なんだお前ら―!? もう帰ってたのか―? 情け無ぇなぁ…! 最年長の俺が一番歩いて来たんじゃねぇの―? コレでギャラは同じ―!!ってか!? いやいや、座ってるだけで俺らより高給取りのネェちゃんもいるけどさぁ…、」
「―逸木さん、お疲れっス!」
「―いや~、俺らも結構 歩きましたよ~?」
その懐かしい昭和のギャグで、周囲の気温も若干下がるのではないかと思われる、年上部下の帰還である。
しかし これまでの経歴から、互いに侮り難い存在であることを知っている八神と逸木は、互いの言動や命令に気に喰わないところがあっても、ある程度は不問に処すという方針で一致していた。
実際、帰るなり放たれた逸木の皮肉は、このラウンジの片隅に当の八神がいることを察知する前に言ってしまった失言らしく、たった今 彼女と目が合った彼は、少し きまり悪そうに首を竦めたが、八神は軽い会釈でそれを受け流した。
「―そうそう、今日は久しぶりに3丁目の質屋が開いてたから、そこにも立ち寄ったんだよ、『怪盗マシン』の情報提供がてらな―、」
少々 気まずい空気を変える為か、逸木は唐突に、雑談とも報告ともとれる話を始めた。
「―あすこは目利きの祖父さんと、その息子の大学の講師先生でやってた店なんだが、今日行って見たら、今まで見たことない若い兄ちゃんがいてなぁ…、一緒に店番してたのは、双子の片割れの孫娘だろうけど、何やら『事件』の気配を感じてだなぁ…、」
「―3丁目? あの辺に質屋なんて ありましたっけ―?」
「―事件の気配というと、具体的に どんなです―?」
「―どうにも口の上手そうな兄ちゃんだったんだよ―、あの お嬢ちゃんが騙されたりしないか、ちょっと心配になったのさ…。―なんだ お前、3丁目の『万城目屋』を知らねぇのか―?」
さすが人を疑うのが仕事の刑事というべきか、逸木は そういう目で『万城目屋』に居た連城陸を見、話しをしていたらしい。
「―『万城目屋』さんは、界隈じゃ1番の老舗だよ―。代々万城目さん家が経営してる、その名の通りの『万城目屋』さんさぁ―…、」
この話を遠巻きに聞いていた八神は、ここで思わず立ち上がった。
―その名前には、聞き覚えがあったのである―。
―それだけではない、ここまで逸木が話した内容には、あの日、『彼』が電話で伝えた言葉と符合する、『2人の子ども』と『双子』もある―。
八神は我を忘れて逸木に歩み寄ると、この扱いづらい年上の部下に、拒むことを許さぬ気迫で詰め寄った―。
「―逸木刑事―。その『万城目屋』の話、詳しく お聞かせ願えますか―?」
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