その夜
『嘘も方便』なのである。
その夜の連城陸は、恋人·夏美を前にして、明らかに挙動不審だった。
その原因は何かと申せば、白昼夢(それもやや悪夢)のような出来事の後に彼の手元に残った小学生の名札ひとつであり、それは今、彼の左胸のポケットにすんなり収まっていて、彼がしきりにそのポケットを気にするような素振りさえ見せなければ、家では至って大らかで のんびり屋である彼女が、その存在を察知するはずもなかろうというものなのだが…。
デミグラスソースの良い匂いを振り撒きながら、煮込みハンバーグの皿を二つテーブルに並べた夏美は、左手一本で器用にも甲斐甲斐しく彼女のハンカチにアイロンをかけている陸を夕飯の席に招いた。
が、その時にも彼は、何かの感触を確かめるように、ほぼ無意識にそうしている体で左胸のポケットを2,3度撫でたものだから、ついに夏美は そこに何か重要なものが隠されていると否が応にも気付いてしまった。
―それも何か、恋人である自分に対して、後ろめたいことかもしれない―
彼女が そう推測する根拠は、帰ってくるなり目についた、昨夜は使わなかった筈のネイビーのバスタオルが、洗って干されていたことにある。
それらのピースが組み合わさり、彼女の中で急速に不穏な仮説が構築される。
例えば近所で暇を持て余す目ざとい人妻が、今日 幾度となく降っては止みを繰り返した雨を口実に、以前から狙いを定めていた この若く美しい私の恋人に甘い言葉と誘惑を投げかけて、ひととき不純な快楽に耽った証拠があのバスタオルで、彼が今、しきりに気にしている左胸のポケットには、その女が残した連絡先の走り書きが収まっているのだとしたら―?
自ら生み出してしまった疑惑で俄かに青くなった夏美の顔色に気づくくらいは、真昼の出来事に心奪われ上の空だった この夜の陸にも出来た。
「―どうかした?」
「―え? なにが?」
「―なんか クチ尖ってる。」
安野夏美はもとより思っていることが顔に出易いタイプである。それが言うに言えない不安だったり不満だったりする時は、無言で微妙に口を尖らせるのが常だ。自分より2つ年上ながら、少し子供っぽく思える彼女の そんな一面を今では熟知している故、可愛い子犬をヨシヨシするノリで軽く尋ねた陸だったが、
「―その左のポケット、何が入ってるの―?」
夏美が率直に核心を突く質問を返してきたものだから、陸のほうが大いに慌てることになった。
「…あのバスタオルも、何に使ったのかなって…? 気になって…。」
ジト目の見本のような眼差しを向けられ、夏美が今 自分に対して抱いている疑念がどういう種類のものか凡そ察した陸は、速やかに その誤解を解消すべく、後に続ける言い訳の構想を練りながら、何はともあれ左胸のポケットから例の名札を取り出し、彼女の目の前に掲げて見せた。
「―これって…?」
出て来たものが有閑マダムの連絡先メモでなかったことと、全く予想外の小学生の名札だったことに、夏美は目を丸くして陸の弁明を待った。
「―今日ゴミ出しに行った時さ、拾ったんだ。落とし物かゴミなのか、ちょっと判断つかなかったんだけど、なんだか気になって…。で、拾おうとした拍子にバランス崩してコケたもんだから、帰ってシャワー浴びて着替えたんだよ。あのバスタオルはその時の。納得した?」
―ちなみに七生とキリヤが帰った後、キツネにつままれたような気分を一新させる為と、雨や汗で度々濡れた服を着替える為、シャワーを浴びたことは事実で、それは今乾燥機に入っているTシャツその他で証明できる。
「―転んだって…あ~!! 陸!! また私のミュール履いたでしょ!? 道理で…! 見たら分かるんだからね! もう~! 型崩れるからやめてって言ってるのに~!!」
どうやら陸の申し開きは全面的に信用されたようだが、彼が実際行ったことに対し、然るべきお叱りを受けることからは逃れられなかった。
「ごめん、つい。履きやすくて。」
素直に頭を下げた陸の謝罪を受け、ともかくハンバーグが冷めないうちにと2人は夕飯の席に着いた。
「足の小さい男って困ったものねぇ…! あれ一番可愛くてお気に入りのヤツなんだから、転んだら懲りたでしょ? 危ないんだからね…!二度と履かないでよ! ほんとにもう…。―大丈夫なの? 怪我は無かった?」
「うん。平気だよ。」
「―今度さ、陸用のサンダルとか買いに行こうか? それ玄関に常備すれば私のミュール履かなくてもよくなるでしょ?」
「…でも、玄関狭くなりそうだよね…?」
「―ミュールをユルユルにされるよりはいいの!」
本当は転んでなどいないのに、あれこれ案じてくれる夏美の優しさに、陸は面はゆそうに目を細めて微笑んだ。それは 虚実入り混ぜた弁明を彼女が信じてくれたことに ひとまず安堵する笑みでもあった。
一から十まで本当のことを彼女に打ち明けるのも やぶさかではなかったが、それをすれば彼女もまた、彼女自らが語った『質屋神』の存在に対し、不安や恐れを感じてしまうかもしれない。
ましてや それが東京中の人間をモノに変えるという、穏やかでない目的を持つ神様なら尚のこと―。
いずれ今日の本当のことを話す時が来るとしたら、それは『質屋神』の存在がはっきりして、警戒を促す必要があると分かった時だ。
もっとも まさかそんな時が来るとは夢にも思えないほど、陸にとって昼間のことは現実味に欠ける出来事だった。
ただ残された名札だけが、今もれっきとしたモノとして目の前にあるのであるが。
「…なるほど、確かにこれは気になるわね…、」
「―え? 何が―?」
ぼんやりと自分の物思いに耽っていて、夏美の言葉の意味するところを捉えかねた陸が訊き返す。
「―その名札よ―、その名字―! なんて読むのか分からないよね? それが気になったから、わざわざ拾って来たんじゃないの?」
夏美が指差す名札には、
【万城目 七生】
と書かれてある。
たしかに、【七生】は【ななお】と呼ばれるのを聞いたおかげで分かりもするが、名字に関しては謎である。
「―そう、そうなんだよ、珍しい名字だよね、なんて読むのか気になってさ…、」
陸は咄嗟に調子を合わせ、雨に打たれて濡れていたであろう その名札を転んでまで拾った理由を、そういうことに決定した。
―それにしても―
と、陸はまた自分の内側に湧いた思いに ふと囚われて自嘲する。
―まったく 自分は いつからこんなに嘘をつくのが下手になったのか―?
まだピアノを弾いていた あの頃なら、こんな風に名札の存在に気づかれて 夏美を不安にさせることもなく、こんな とってつけたような言い訳をしなくても済んだだろうにとつくづく思う。
―過去 陸が得意とした嘘とは、悪意を以て人を陥れるものではなく、むしろ相手を思いやり、傷つけない為に使うものだった。
それは生後間もなく捨てられた彼が、庇護者や周囲の機嫌を損ねない為と、自身の欠落を補う為、自然と身に付けた処世術のようなものだったが、その使い手としての衰えに、陸は少しの危機感を覚えた。
―夏美に少し甘え過ぎているのかもしれないな…。
しかし 冷凍の作り置きでも彼女のハンバーグは逸品で、お世辞抜きに「美味しい」と言える今が本当に幸せなのだとも陸は思う。
「ほんとに? 良かった。」
照れ臭そうに微笑んで、目線を下に落とした夏美は、お気に入りの苺の発泡酒で喉を潤しながら、再び目の前の名札に書かれた名字の解読に眉根を寄せる。
「…まんじょうめ…とか、まきめ―って読むんだっけ? 確か そういう名前の作家さんもいたよね?」
「…名字ばかりは本人に聞いてみないと正式な読みは分からないものだからなぁ…、」
「―じゃあさ、届けに行ってみたら? ここの学校、ウチから割と近いよね?」
―思いがけず、迷っていた背中を押してもらえた気がした。
先ほどまで絶えず左胸に手を当てて、陸が逡巡していたのは そこだった。
突如として見知らぬ少年が家の中に現れ、拾って来た筈の人形は その後どこを探しても見つからなかった、今日の不思議な出来事の謎を解き明かすには どうすればいいか? この名札の主たる少年は、果たして本当に『人間』として実在するのか?
そこに行けば きっと明らかにはなるはず。しかし夏美の語る『質屋神』の話によるなら、かの少年の存在は 既に周囲に忘れ去られている可能性もあるのだが―。
「…話とか聞いてもらえるかな…? 今どきの小学校って、部外者の立入りとか めちゃくちゃ厳しそうだよね…?」
「―その時は諦めて警察に届ければ? 名字の読み方は謎に終わっちゃうけど、ただ捨てるのは忍びないし…、―落とし主が現れたら なんて読む名前だったか教えて下さいって、警察にお願いしてみたらどう?」
「…なるほど そっか…、それいいかもね…、」
まったくほろ酔い加減の夏美の入れ知恵に、目を開かれた陸だった。
彼女の言う通り、まずは双方に当たって砕けてみるべきで、それで望む答えが得られなくても、その時は それこそ神様の思し召しとして、これ以上の深入りは止そうと陸は思った。そもそもが、自分の手に負えそうな問題ではないのだ―。
ただ それが、あの「キリヤ」の忠告通り 逃げを打つことになる結論に、少なからぬ悔しさを覚えないではなかったけれど。
ここまでお読みくださり、誠に ありがとうございます。
貴方様の1PVが、筆者に力を与えてくださいます。
引き続き、明日もお楽しみいただけましたら幸いです。




