09Kanade Diary
それは、何でもない火曜日の夜だった。
私は奏の部屋にいた。ランニングの後にそのまま寄って、シャワーを借りて、
奏が作った味噌汁と焼き魚を食べた。
パスタじゃない夜もある。二人の間に、そういうものが増えていた。
食後、ソファで並んで音楽を聴く。レコードに針を落とすことも、もう自然にできた。
音楽が終わって、部屋が静かになったとき、奏が立ち上がった。
棚の引き出しから、薄いノートを取り出した。
表紙に何も書いていない、黒いノートだった。
私の前に、置いた。
「読んでいい」
ノートを見た。それが何かは、すぐわかった。
「……日記?」
「観察記録、のつもりで始めけど、もう違うものになっている」
「読ませてくれるの?」
「凛に見せたいと思ってたから」
「……奏は」
「隣にいる。読み終わったら、話そう」
ノートを開いた。
◇奏日記◇
オレはヒーローではない。今はヒーローになる気もない。
凛を支えたい。励ましたい。ずっと傍にいられる男でいたい。
凛は、素晴らしく優秀だ。頭が良いのに謙虚で努力を惜しまない。
特に鋭いのは、その直感と対応力の速さだ。
そして、センスが良いから選択に迷いがない。ためらいが殆んどない。
凛を追い落とそうと画策したり、嫉妬したりは男女問わず多々あるが、
凛は意に介さない。気づいていても自分の感情の外の事として処理してしまう。
それでもオレは、余計なお世話かもしれないが、様々な外圧から凛を遠ざけたい。
凛だって傷つくことはあるんだ。
幸いオレには、俯瞰的に状況を把握する目があり、凛の危機を事前に把握し対応する能力がある。
凛を暗闇から助け出すことよりも、はじめから暗闇を作らないようにしている。
凛は凄く頭が良いからそれが分かっている。オレの領分を確保してくれている。
それが、凛にとって必要で大切なことなら、オレにヒーローは必要ない。
オレが幼少の頃の記憶はあまりない。母親に言わせれば「人見知り」で足りる。
代表例が幼稚園の担任が妊娠して休職したことがあったらしい。
なついていたらしく、それから幼稚園に行かなくなり中退している。家のそばにデパートがあって一人でよく出かけていって遊んでいた。屋上に遊具があったが、他の子達もいるからなのか?
オレは売り場で遊ぶ。何をして遊んでいたのかは憶えていない。
当時はエレベーターガールという若い女性従業員がいて、追いかけっこをしたのを憶えている。
わざと捕まるように逃げたのを憶えている。
捕まえられて抱きしめられたことを憶えている。柔らかな感触を憶えている。
やわらかくて、やさしい体温を感じるわずかな記憶。凛が呼び起こしてくれたんだよ。
中学校1年の春、難関私立中学の数学の受験問題をパーフェクトに解答し、
連立方程式が得意だったこともあり、数学教師から「天才」と呼ばれていた。
観察し現実を直視し、オレが正しいと思える未来に石を置く。すると、世界が違って見えてくる。
他の人々が「きっかけ」と呼ぶものをオレは、見つけられる。自らつくれる。
自分で石を置きトレースできる。「ホークアイ」だ。
数学教師に言わせれば天才の一言なのだが、そんな単純じゃない。
石を置く場所選びは、常にオレが正しいと判断した場所。
判断材料は多岐に渡り観察項目は増え続ける。優先事項より緊急でない大切な事に石を置き続ける。
オレはもう止まれなかった。今も続いている。
凛、これがオレの武装だよ。これからも後ろを任せてもらえるかな?
凛に話せない。察しているかも知れないが。
「そばかす」女性を3人知っている。
一人目は、初恋の陸上部少女。コンプレックスだったみたいで、日焼けすると増えると気にしていたが、
いつの間にか「そばかす」を自分のチャームポイントに変えてファッションモデルになった女性だ。
オレは、何もできなかった。ただ、その頃からそばかす顔が好きだった。
ベースが整っていることもあるのだが、ギャップに惹かれてしまう。
二人目は、ケーキ屋のアルバイトをしていた女性。
ある日、鼻に絆創膏を貼っていた。あまり話したことはなかったが、思いきって話しかけた。
「鼻、怪我でもしたの?」
今思えば、とっくに好きになっていた。
女性は正直に「そばかすを取る治療を受けているんです。」という。
オレは、「絶対にそのままの方がいい」と強めに言ってしまった。
大失態だ。ふと我に返り、しどろもどろしていると彼女がきいてきた。
「どおして、そいうことを言うんですか?」
オレも正直に「そばかすがあった方が可愛い」と答えた。
彼女はビックリしていた。そして言った。
「彼が、そばかすが無ければ美人だと言ってくれたから。」
「自分でもコンプレックスで悩んでいたから。」
オレは、何も言えなくて心の中で彼氏を憎んだ。
嫉妬よりも魅力的な女性がひとり減った悲しい感情だった。
そして、凛と出会った。凛も多少気にしているように見えた。
任務のおわったマラケシュの夜、凛の笑顔の中心の「そばかす」を見ることができた。
完全に一目惚れだった。後々、凛はその時のオレの目がやさしかったと言ってくれた。
◇/◇
ノートを閉じた。
私は何度もうなずきながら泣いた。
♪♪その⑫♪♪
ある朝。
「あれ?……声が・で・な・い。」
風邪でもひいたのだろうか?でも、熱はない感じ。
少しだるい……
奏はまだ寝息をたてている。私の方を向いて無防備な寝顔。
私は、身体を起こして枕を抱えこんだ。
こうしていると落ち着く。
しばらく静かにしていると、奏が目覚めた。
「・を・ば・お・お・」
奏は、驚いた目をして私をみつめた。
「おはよう。どおした?」
「な・ん・で・も・な・い」
「声、かすれてるぞ。大丈夫か?」
「だ・い・じょう・ぶ」
「凛?声出ないのか?どおして?」
「言い・たく・ない」
「凛?」
「もぉ」
了




