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08Kamakura

その日の夜、奏にメッセージを送った。

「週末、鎌倉へ行きませんか。海が見たいです」

「行く」

「バイクで行きます。後ろに乗ってください」

「よろこんで」

奏からの返事にしては……

土曜日の朝、マンションの駐輪場に二台のバイクが並んだ。

私の黒いCB650R。そして奏のヤマハSR400——マットブラックのタンクに、空冷単気筒のエンジンが剥き出しで、余計なものを何も持たないバイクだった。

「SR400ですか」

「古いか」

「……似合っています」SRを一周した。「キックですか」

「そう。儀式みたいなもんだ」

「かかりますか、冬は」

「コツがある」

SRのエンジンを眺めた。空冷フィンの刻まれたシリンダーが、朝の光に鈍く光っていた。CB650Rの

水冷エンジンとは、全然違う顔をしていた。性能ではなく、哲学が違う。そういうバイクだった。

「整備は自分でするんですか」

「大体は。SRはそれができるから好きだ。複雑じゃないから」

「……奏らしい」

「どういう意味だ」

「余計なものを持たない、という意味です」

奏は少し間を置いてから、キックペダルを踏み下ろした。一発でかかった。単気筒の乾いた音が、

駐輪場に響いた。CB650Rのエンジン音とは全然違う、トントントンという素直なリズムだった。

私もセルでCBのエンジンをかけた。二台の音が重なった。

出発してすぐ、二台の位置関係が決まった。

私が前、奏が斜め後ろ。千鳥の形で、右後方に奏SR。私達のツーリングが形作られていく。

車間を適切に保ちながら、互いの動きが見える距離で走る。

奏はその位置から、私を見ながら走ることを望んでいる。



[◇奏photobook09◇]

目的地は冬の相模湾、由比ヶ浜の駐車場。

斜め前の凛の今日のスタイルは革のライダースに革パンツ。

シートに跨った腰からヒップにかけての曲線が見える。

タンデムのときは背中しか見えなかった。斜め後ろから背中、腰からヒップの丸みと、

シートに沿った曲線全体が、ちょうどいい角度で目に入った。

コーナーに入るたびに、凛がCBを寝かす。腰を極めて、お尻をシートからずらし膝が広がる。

革パンがバンク中、引きつってヒップラインの曲線が生き生き躍動する。

コーナーで視界に入る凛のヒップライン。コーナーで離されたくないオレ。

それはもう、どうしようもなかった。

凛のコーナリングは、オレよりバンク角が深くて、立ち上がりが速い。CB650Rの排気量の差もあるが、

それだけじゃない。凛の体の預け方、腰の乗せ方が大胆だ。バイクを信じて、重力に委ねる量が多い。

SRで凛についていくのは、簡単ではなかった。でも離されなかった。

自己流で積み上げてきたライディング。

単気筒の粘り強いトルクで、コーナーでは引けを取らなかった。

直線では離されたが、コーナーで取り戻した。

自慢のバックステップが荷重で折れるかと思った。

凛が信号待ちで振り返り、「おいでおいで」した。

その動作が、うれしくて隣りに並んだ。凛がバイザーを上げて微笑んだ。

[◇/◇]



134号に入って、海が見え始めたとき、私は少しペースを落とした。

奏はそれを感じて、同じように落とした。

二台が、ゆっくりと海沿いを流し始めた。冬の相模湾が左手に広がった。

灰色がかった青で、白い波頭が遠く光っていた。

駐車場に着いて、ヘルメットを脱いだ。風のおかげで潰れた髪が勝手に揺れた。

ライダースのジッパーを半分開けた。海の方を向いて「ふーっ」と息を吐いた。

胸の苦しさから解放された。

奏がSRのエンジンを止めた。トントントンというリズムが消えた。

「SR最高です」

「凛のダブルライダースもCBも最高です」

「コーナーで離せなかった」

「離されてたら格好がつかない」

「直線では離しました」

「排気量の差だ」

「言い訳をするの?」

「事実を言っている」

笑った。

「奏は走ると負けず嫌い。この前のジョギングもそう」

奏も笑った。

「おいでおいで。うれしかった。顔見たかったから」

「フルフェイスのヘルメットなのに?」

「ケツだけじゃ飽きた」

「ぶっ」噴き出した。

「帰り道は、隣りにきて」

革グローブを外した手をつないで、砂浜へ向かった。

バイクブーツで砂を踏んだ。歩きにくかったが、気にしなかった。

波打ち際まで来て、並んで立った。冬の由比ヶ浜が、静かに広がっていた。

波打ち際で、冬の光の中で。江ノ島が遠くに見えた。

由比ヶ浜を出たのは、夕方の四時を過ぎたころだった。

冬の日は早い。西の空がオレンジに染まり始めて、134号の海側が逆光になっていた。

波が光を受けて、白く砕けていた。行きより風が強くなっていた。

海の夕陽が右手に見えた。西へ走るから、光が正面から来た。夕陽が眩しい。

私の斜め後ろを行きと同じに奏がいる。でも帰り道は、行きと少し違う。

最初の信号で、奏が隣へ並んだ。

前を向いたまま、シールドを上げて会話した。

「夕陽がきれい」

「そうだな」

「……夕陽よ。見てる?」

「見てるって」

「どっちを」

信号が青になった。二台が同時に動き出した。シールドが下りた。

茅ヶ崎に入ったあたりで、渋滞が始まった。

週末の134号、夕方。車が詰まっていた。二台はすり抜けを始めた。私が先で、奏がついてくる。

車と車の間の、ぎりぎりの隙間を縫うように進んだ。SRの細い車体が、この場面では有利だった。

渋滞の中ほどで、一台のミニバンの横を抜けるとき、少しペースを落とした。奏も落とした。

ミニバンの窓ガラスの向こうに、カップルが見えた。助手席の女性が運転席の男性に身を寄せていた。

信号待ちで、ためらいなく、口づけをしていた。

二台はその横をゆっくり抜けた。

また信号で止まった。奏が隣へ並んだ。シールドを上げた。

「今の、見たか」

「信号待ちで……見ちゃった」

「車の中だから、できる」

「バイクでは、できないよね」

「ヘルメットがある」

「そうね……」

私はシールドを下ろした。信号が青になった。

平塚を過ぎて、渋滞が少し解けてきた。

二台はペースを上げた。夕陽が海に落ちて、空が紫に変わり始めていた。

134号から一号線へ。街の光が増えてきた。東京が近づいていた。

信号のたびに、奏は隣に並んだ。シールドを上げた。そのたびに、短い言葉が交わされた。

「寒くない?」

「平気。凛は?」

「走っていると、平気」

次の信号。

「腹が減った」と奏が言った。

「帰ってから私が作ります」

「凛が?」

「たまには」

「……楽しみだ」

また信号。

「SR整備して来てくれたんでしょ。調子は?」

「久しぶりにしては。凛のペースについていけた」

「コーナーは互角」

「……それは嬉しい」

どれも短い。ヘルメットを被ったまま、シールドだけ上げて、青になったらまた下ろす。

その断片的な会話が、134号から一号線の間にいくつも積み重なった。

車の中のカップルには、できない会話のしかた。走りながら、信号のたびに、言葉を少しずつ渡し合う。

それがバイク乗りの話し方だと、私はこの日初めて理解した。




♪♪その⑪♪♪


信号が青になってシールドを下して、

さっきに会話の続きは……

バイク乗りながらだと思考できない。事故る。

しょうがないから奏の歌でも歌いましょう。思考のない歌。

「S、R、か、な、で。S、R、か、な、で。」


奏もやっていた

「凛、凛、凛、ケツが飛ぶ。凛、凛、凛、ケツが飛ぶ。」




「もぉ」     (聞こえるわけないんだから、皆、やってますよね。)




マンションの駐輪場に戻ったのは、夜の七時を過ぎていた。

私も奏も疲れていたが、なぜか笑顔だった。

二台のエンジンを止めた。SRのトントントンが消えて、CBの音も消えて、駐輪場が静かになった。

ヘルメットを脱いだ。奏の声が変わった感じで聞こえた。

髪をクシャクシャしながら言った。

「とても楽しかった。今日」

「オレも」

「SRで来てくれてよかった」

「洗車して整備した甲斐があった」

「後ろに乗せるより、ずっとよかった……奏が走る姿を、見れた」

「見ていたのか」

「かっこよかった。奏、SR凄く乗れてます。自分のものにしている」

駐輪場を出て、マンションのエントランスへ向かいながら、奏が言った。

「凛」

「なあに?」

「さっき、帰り道で」

「……」

「残念だと言わなかった」

「……言えないよ」

「今は、言えるか」

エントランスの前で、街灯の下。

「……残念でした」小さな声で応えた。

ヘルメットは手に持ったままの不格好なまま、奏が短いキスをくれた。

短かった。

「……エントランスです」

「うん。だから……な」

「あがってく?」

「うん。よろこんで」

「……奏、なにが食べたい?」

「任せるよ。凛の手料理、楽しみだな」


約束通り 、キッチンに立った。奏に手料理を御馳走する。いや、御馳走ではない。

少し考えて、豚汁を作ることにした。バイクで走って冷えた身体には、温かいものがいい。

理由はそれだけ。べつに自慢する腕はない。今はまだ……

キッチンの私に奏が声を掛ける。楽しい。凄く楽しい。

「手伝うか」

「ううん。座ってて」

「……見てていいか」

「うん」

奏がソファに座って、私の後ろ姿を黙って眺めている。また話し掛ける。

「凛、いい香りがしてきた」

「そお?具だくさんの豚汁。おかず無しだよ」

振り向かずに応えた。やっぱり楽しい。

ご飯と蕪のお新香と豚汁。

「いただきます」

「どうぞ、めしあがれ」

私の向かいで、奏は満足そうに食べてくれた。

「うまい」

「豚汁くらいは作れます」

「本当に美味い。癖になりそうな味。」

「よかった。本当に豚汁くらいしか作れないから」

「癖になってもいいってこと?」奏が笑いながら言った。

「今日、とても楽しかった。今も楽しい。だからまた何度でも何度でも」

「オレも。とてもとても楽しい。美味い」

「奏、おかず、作ろうか?鮭ぐらいしかないけど」

「ううん。いい。蕪でご飯食べながら、具だくさんの豚汁。思いっきり食える。」

私は、料理に興味を持った。奏を喜ばせたい。

いつか自分で納得できる料理を作って奏に御馳走する。

「本当に最高の味だよ」奏は、豚汁を二回おかわりした。


食後、ソファに並んで座った。体が温まった。走ってきた疲れが、じわりと出てきた。

「奏」

「ん」

「日記 、書いてるんでしょ?」

「書いてるよ。でも、観察日記ではなくなった」

「……何を書くの?」

「凛が豚汁を作ったこと。ツーリングのこと。エントランスのこと」

「それ全部書くの?」

「うーん。その時にオレがどう感じたかを書いてる」

私は少し黙った。

「……読んでもいい?」

「いいよ」

「今夜書いたら?」

「書いたら、すぐ読ませてもいい」

しばらくして、奏が言った。

「凛」

「なあに?」

「本当は、時間をかけて話せたらいいんだけど、その時その時の思いを直ぐに伝えることって、

なかなか難しいんだ。だから、書き溜めて読んでもらった方が伝わりやすいかもしれない」

「うん。わかるよ。私もおんなじ」



目が覚めたとき、部屋が明るかった。

冬の朝の光が、カーテンの隙間から細く入っていた。疲れて寝てしまった。

奏と本当に色々な話をした。思いは、後で日記を読ませてもらう。

バイクのこと。バスケの話。水泳やジョギング。勉強の仕方や本の嗜好。キリがなかった。

よく分かったことは、私も奏も「お得」より「お徳」を選ぶということ。

「バベルの塔」を思い出した。

近くから見る奏は、本当に魅力が溢れだしていて、ますます大好きになった。

隣に、奏がいた。まだ眠っていた。私の方を向いて、規則正しい呼吸で。

目を閉じた奏を見て自分の独占欲を感じた。

テレビドラマでは男性が女性に対して感じるようなことを、私は奏の寝顔に感じた。

私は奏を起こさないように、静かに起き上がった。

珈琲を二つ作った。ブラックと、カフェオレ。


奏が目を開けた。天井を見て、三秒かけて状況を把握した。少し目が緩んだ。そして私を見あげた。

「……おはよう」

「おはよう、珈琲いれたよ」

カフェオレを差し出した。奏は体を起こして、ひとくち飲んで、凄くいい感じで微笑んだ。

窓の外に日曜日の静かな東京の朝。もう冬の朝光が街に満ちていた。

「よく……ねっ眠れた?」

「うん。いつのまにか。凛は」

「……私も」

気まずさは全く感じなかった。




了

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