07Tokyo
土曜日の朝、私は七時に目が覚めた。
任務のない朝は、アラームより先に起きてしまう。体がまだ、緊張を手放す方法を知らないのだと思う。
でも今日は、なんの予定もない。本部からの連絡もない。私は天井をただ眺めて、だらだらとしていた。
奏からメッセージが来たのは、七時十五分だった。
「今日、暇か」
画面を見て、少し考えた。考えるまでもなかった。
「暇です」
「迎えに行く。十時」
「どこへ」
「決めてない」
私はため息をついた。スマートフォンを置いて、クローゼットを開けた。
何を着るか、いつもより少し時間がかかった。
クリーム色のざっくり編んだ厚め生地のニットに、濃紺のスラックス。ニットは少し大きめのサイズで、
袖が手首を半分隠すくらい長くて、すっぽりと私の身体が収まって気に入っている。
髪は下ろした。
外は風が吹いていて、前髪が少し乱れたが、気にする余裕はまだない。
「おはようございます」完璧に普通に言えた。
「おっおはよう」
並んで歩き始めて、三分後に奏は私の手を握った。
私は一瞬だけ指を固くして、それからゆっくり力を抜いた。そのプロセスが全部がぎこちなくて、
そっちの方が恥ずかしかった。
奏の手のひらに伝わったはず。奏は前を向いたまま、なかったことにしてくれた。
結局、代々木公園を抜けて、参道沿いの古い喫茶店に入った。
木の床が軋む、昭和の匂いがする店だった。窓際の席に並んで座った。向かいではなく、並んで。
店も席も私が選んだ。奏は何も言わなかった。
珈琲が来るまで、二人は窓の外を見ていた。落ち葉が風に舞って、
シーズーを連れた老夫婦が通り過ぎた。
「お尻がかわいい」
「え?」
「奏は」
「ん?」
「休みの日、いつもどうしてるんですか」
「あ、えっと映画を見るとか、走るとか、本読んでずっと寝てるとか」
「走るんですか」
「こっ皇居の周り。早朝に」
「私も走ります。でも川沿い」
「どっどの川」
「神田川。早朝に」
奏は珈琲を一口飲んだ。
「今まで一度も会わなかったな。残念だよ。」
「東京は広いから」
「次から神田川にする」
カップの縁を指でなぞった。
「……一緒に走るってこと?」
「そうだな。足には自信がある」
「負けません」
「じゃあ、いいんだな」
「……勝手にしてください」
奏は笑った。私もカップを持ったまま、たぶん自然に微笑んだ。
昼過ぎに、スーパーに寄った。
奏が「何か作る」と言い出したからだ。
「作れるんですか」
「パスタくらいは」
「パスタくらい、というのが気になる」
「食べてから文句を言え」
奏がスーパーかごを持って、ふたりで野菜売り場をうろついた。
トマトを手に取って、品定めをした。トマトを両手で包んで、重さを確かめるように少し持ち上げた。
「これにします」とトマトをかごに入れた。
「なぜそれ」
「重かったから。水分が多い証拠」
「……そういう選び方をするのか」
「違うの?」
「いや、知らなかった」
◇奏語り◇
凛のざっくりニット。オレの視線を気にしているのか、身体がすっぽりと収まっていた。
オレが部屋に呼んでも、そうは考えてない配慮に感じた。
でも、凛の口から「お尻」という言葉が出ただけで凄く動揺した。
食材を買ってパスタを作ると言って部屋に誘った。
今、諜報のエースが、トマトを選んでいる。ニットの袖をずり上げて。
その仕草が、なぜかひどく生活感があって、少し得意そうな顔で、
そのギャップが、オレの心臓のあたりを更に討ちぬいた。
凛の仕草や行動に、討ちぬかれ続けるとオレの心臓はどうなるんだろう。
凛を初めて自分の部屋に連れてきた。
凛は入ってすぐ、本棚を見た。黙って、全体を眺めてから、一冊だけ抜いた。カミュの「異邦人」。
「読みましたか」「むかし」「私も好きです」と凛は言って、戻した。
それだけで、オレの部屋に凛が来たと実感した。
オレの私物に凛が感想を言う。私も好きだと共感する。
こんな事を数えきれないくらい続けたいと思った。
パスタを作っている間、凛はキッチンの横のカウンターに緊張して座っていた。
背筋を伸ばして 、ニットのまま、膝を揃えて。
胸のふくらみだけが、その姿勢に反して柔らかさを保っていた。
視界の隅に見えていて、ソースの火加減を間違えそうになった。えっと三回。
「手伝いましょうか」と凛が言った。「いい」と答えた。「本当に?」と聞かれた。
「凛が見ててくれたら、オレは何でも上手にできると思う」と言ったら、凛が黙った。
二秒後に「……変なことを言わないで」と言った。耳が赤かった。
パスタはうまくできた。凛が「おいしい」と言った。二回言った。二回目の方が、素直に言った。
食後、ソファで並んで座っていたら、凛がうとうとし始めた。肩が少しずつオレの方へ傾いてきて、
最終的にもたれてきた。起こすつもりはなかった。そのまま、窓の外の夕暮れを見ていた。
凛が寝てしまうことを、オレは、凄く貴重なことで、実は特別なことなのではと感じている。
凛はいつも自分自身を後回しに考え、自分を見ないようにして謙虚に振る舞う。
こんなに素直に何度も眠ってしまうのは、何かの緊張をオレが緩和しているのではと感じている。
諜報のエースの寝顔。「そばかす」……今じゃない。知りたい。大切なことだから。
東京の夕陽は、ヨーロッパとは違う。でも今日は、どの街の夕陽よりきれいだと思った。
理由はわかっている。凛が隣にいるからだ。
日常って、こういうことか、と思った。任務でも偽名でもない、ただの土曜日。
凛とパスタと夕陽という最高の贅沢。
◇/◇
目を覚ましたのは、夕方の五時ごろだった。
少し間があって、自分がどこにいるかを把握して、それから静かに体を起こした。
奏の肩からゆっくり離れた。
「あ、……すっかり寝ちゃって……」
「すっかり寝てた」
「なぜ起こさなかったの」
「起こしたくなかった。今回で二回目だな、その理由言ったの」
髪を一度オールバックにしてからクシャクシャと整える。
窓の外を見た。夕陽が東京の街を橙色に染めていた。
「……きれい」
「そうだな」
私はしばらくして、それに気づいた。
「……窓の外を見て」
「今はいい」
「なぜ」
「凛の仕草を見ていたいから」
言葉に詰まった。三秒ほど。それから小さく息を吐いて、また窓の外を向いた。
首筋まで、うっすらと赤くなった。奏が両肩に手を乗せた。窓の外を見たまま、その手を受け取った。
そして少し後ろを向いた。
奏が私の唇を一瞬眺めて、私の肩越しから届く距離まで抱き寄せてくれて、
唇が重なり合う。まあまあ長い時間、繰り返し繰り返し。
「寝顔にキスしようとしたんだ」
「したの?」
「しなかった。まだ同意が欲しかった。必要だったよ」
木曜日の朝は、六時に神田川で待ち合わせることになっていた。
奏が先に来ていた。川沿いの橋のたもとで、軽くアキレス腱を伸ばしながら空を見ていた。
東の空がわずかに白んでいて、川面が薄い光を受けてゆらいでいた。
私は、六時ちょうどに着いた。
黒のランニングタイツ。上は深いグリーンのロングスリーブ。先週より生地をやや厚めにした。
それでも走り出せば体の動きに合わせて揺れてしまう素材だった。身体の線を出すよりいい。
髪はポニーテール。高い位置で結んだ。
「おっおはよう」
「おっおはよう」
二人で川沿いを走り始めた。三分ほどでペースが上がった。私が上げた。奏がついてきた。
私のランニングフォームは水泳で鍛えた体幹を軸にしながら、ストライドで歩幅をしっかりと稼ぐ方法だ。
奏は、左後方から距離を詰めるが抜かない。一分ほどで横に並んだ。
「無駄のない、きれいなフォームだ」
「そお?」
「体幹、強いな。水泳は自由形。もしかして種目500とかじゃないよな」
「200よ。」
「泳ぎはともかく、足は凛よりオレの方が速いな」
「補欠とはいえ、スタミナあるね。さすがポイントガード」
私は感心した。奏の観察眼は普通じゃない。
胸が揺れるのを奏に見られることばかり気にして、自分が恥ずかしかった。
奏に対しては気にするのをやめた。
ここから4キロ、真剣勝負だ。
◇奏語り◇
ポニーテールが、走るたびに左右に弧を描く。高い位置で束ねられた髪が、一歩ごとに規則正しく揺れて戻る。生きたメトロノーム。凛は、息が少し上がっても、頬が赤くなっても、前だけを見て走っていた。
オレがウンチク述べると凛が本気になった。
口元が緩んでいた。走ることが、本当に好きなのだとわかった。
走る凛は、止まっている凛と全然違う顔をしていた。タイツに包まれた足が交互に前へ出て、腰のラインが一歩ごとにわずかに動いた。グリーンのシャツの胸のあたりが、一歩踏み出すたびに、上下に弾んでいた。生地が押し上げられて、戻って、また押し上げられる。リズムが、そこにあった。
走ることを生まれつき知っている生き物。動作とは動きの作法。それを知る生き物。美しいと思った。
四キロ走って橋で止まったとき、凛が「気持ちよかった」と言った。
任務後の「完了」と同じ声量なのに、全然違う顔だった。
ポニーテールって、揺れるためにあるのかもしれない。揺れているときを前提としてるから、美しい。
凛も同じで、動作中が輝く最高点となる。動くこと前提の美しさ。
思い出していた……
オレは高校2年になった。この頃、膝が痛くて辛い。
医者に診てもらったところ、ただの成長痛。ただのじゃないだろうと漏らしたところだ。
この分だとレギュラーになれない。夕方からプールでの歩行リハビリに参加している。
背番号4番それだけのために。それでも、レギュラーを逃した。
その日は全国高校水泳選手権の県予選中だった。4番レーンを眺めた。
紺と白のアリーナ水着の中に一人だけ黒のSpeed水着がいた。
黒の競泳キャップにもSpeed。ミラーのゴーグルを付けてストレッチしている。
佇まいが、かっこよかった。フォームも美しくて、そして断トツ1位でゴールした。
しかも、ずっとゴーグルを外さなかった。凄くかっこよかった。
刺激を受けた。膝も刺激を受けた。おかげさまで身長が18センチ伸びた。
◇/◇
奏は、私のことを何でも覚えている。
珈琲の好みも、本の選び方も、走るペースも、任務中の癖も。
では私は、奏のために何かしたことがあるか。
奏が嬉しくなって、心が温かくなること。
その日の午後、私は一人で出かけた。
神保町へ行った。古書店の街。学生のころから、時間があると来る場所だった。
石造りのヨーロッパとは違う、紙と埃と時間の匂いがする路地だった。
いくつかの店を回った。目的は決まっていた。
奏の本棚に、チェーホフが一冊しかなかった。「桜の園」だけ。それがずっと、頭の片隅にあった。
もしかして、他の作品を読んでいないのかもしれない。あるいは読んで、手放したのかもしれない。
そんなことを考えながら、時間を忘れてチェーホフの短編集を三冊選んだ。2時間経っていた。
古書だから、それぞれ版が違った。背表紙の色が違って、紙の焼け具合も違った。
どれも読まれた跡があった。
奏のことを、ひたすら考えて選んだ本を渡す。選んでいる時間が不思議な気持ちにさせた。
ただただ純粋に、奏に喜んでもらうために本を選ぶ。私が好きな本を渡すのとは違う。
奏の嗜好を考えて考えて、私の渡す思いと奏の喜ぶ顔を、思い浮かべて……
夜、奏に連絡した。
「今夜、行ってもいい?」
「うん」即答だった。「どうした」
「渡したいものがあります。……届けに行っていい?」
「わざわざ届けに来てくれるのか。嬉しい。」
奏の部屋へ向かった。昼間とは違う服に着替えた。
初めて着る、深いネイビーのVネックニット。Vの字が胸の中ほどまで開いていて、
鏡に映すと下着で寄せられたふくらみが谷間になってVから見えてしまう。
厚手の生地だが、胸の丸みに沿ってふくらんで、「おっぱい」と主張している。
黒のロングスカート。髪は下ろした。ドキドキを隠してインターホンを押した。
奏がドアを開けた瞬間、一秒だけ目が止まった。
私は気づいた。気づいても、何も言わなかった。紙袋を差し出した。
「チェーホフです。古書を三冊。……棚に一冊しかなかったから」
奏は紙袋を受け取って、中を見た。版の違う三冊。どれも読まれた跡がある背表紙だった。
奏はしばらく、それを眺めた。
「神保町か」
「……わかりますか」
「古書の匂いがする」
少し目を伏せた。見つかった、という顔をした。
「凛が選んできてくれたのか」
「……棚に足りないと思っただけ」
「凛語か」
「……半分」
奏は本を一冊手に取って、しばらく表紙を見た。それから私を見た。
「探すの大変だっただろう。ありがとう。」
「……どういたしまして」
「ネイビーのニット、凄く似合ってるよ。着てきてくれてありがとう」
「あっありがとう。どっどういたしまして」
「凛」
「なっなに?」
「オレのことを、考えていてくれたんだな」
「……いつも、考えてしまうよ」
ふたりの体温が、部屋の中に満ちていった。
奏を思っている。凛に思われている。
凛を思っている。奏に思われている。
伝わった。奏に届いた。
私は「どういたしまして」という言葉をあまり使ったことがなかった。気づいた。
◇奏語り◇
凛はオレの視線に気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。
いつもは「前を向いてください」と言うのに。
それが、今夜は違った。わかった。凛は意識してネイビーニットを選んできたんだ。
オレのために……神保町で本を選ぶのと、同じ気持ちで。喜んでほしいという気持ちで。
これは凛からの、さりげないサプライズ。言葉にしないけど贈りもの。
オレはずっと凛を観察してきた。だから凛はオレの目に自分がどう映るかを知っている。
そして今夜、凛はそれを受け取って、オレの目が胸に向かうことを自らに許した。
それがどれほどのことか、うまく書けない。ただ、胸の奥に何かが満ちた。
凛のオレに対する思い、受け止めたよ。
今まで凛を見続けてきて、たくさんのものをもらってきた。凛の存在が既にプレゼントなのに……
凛自らで、更なるご褒美をくれて、心に沁みた。
◇/◇
「土曜日、レコード屋に付き合ってくれるか」
「レコード屋」
「アナログ盤を集めてる。下北沢に気に入りの店がある」
レコード。奏の部屋にプレーヤーがあったことを思い出した。棚の端に、静かに置いてあった。
私は一度も触れなかったが、ずっと気になっていた。
それとこの前、奏に帰り道が心配だからってジーンズを履かされて、革ジャンを羽織らされた。
私、強いのに……
「付き合う。でもその前に……スカートを」
「ああ、持ってくか?それともレコード、オレの部屋で聞くか?」
「聞かせて」
「うん。……それは嬉しいな」
「ジーンズ返さないと……」
「あげるよ。クタクタだけど履きやすいって言ってた」
「うん。すごく履きやすくてコンビニ行くときの定番。」
「なんか嬉しいし。オレの育てた501を凛が履いてるって」
「育てた?」
「うん。育てた。」
土曜日の下北沢は、人が多かった。
待ち合わせ場所で、固まった奏を発見。
私は友達から貰った、また初めての服を着てきた。かなりの勇気がいるTシャツ。
私がそわそわしたり恥ずかしがったりすると奏も気にするから自然に自然に。
古着屋と小劇場と中華料理屋が混在する路地を、二人で手を繋いで歩いた。
私は自然にふるまう努力中。
「古着屋が多い」
「凛はこういう街、来るか」
「あまり。でも嫌いじゃないな」
「すっごく似合う」
「……何が」
「この街も、今日の格好も」
私はわかった。今日の格好、という言葉を奏が使った意味が。わかっていて、また何も言わなかった。
でも代わりに、奏の手をかなり強く握った。
レコード屋は、地下への階段を降りた先にあった。
薄暗くて、棚がぎっしりで、店主が奥で何かを聴きながら本を読んでいた。ジャズが流れていた。
入った瞬間に、少し目を細めた。匂いが、神保町の古書店に似ていた。時間と、誰かの記憶の匂い。
奏は迷いなく棚へ向かった。慣れた場所だとわかった。私はその少し後ろから、棚を眺めた。ジャズ、ロック、ソウル。ジャンル別にラベルが飛び出している。ロックだけアルファベットのタグが付いている。
「探しものは?」
「決めてない。来て、気になったものを手に取る」
「……本の選び方も同じ?」
「そうかもしれない」
[◇奏photobook07◇]
今日の凛は、白いチビTシャツにフレンチデニムを合わせていた。
チビTは丈が短く、腰骨のあたりまでしかない。腕を上げるたびにウエストが出た。
そして、胸のあたりで、薄い生地が左右から引っ張られるように、
確かなふくらみが丸ごと形を表していた。
谷間というより、右の山から左の山に渡る生地上のロープーウェイ。
Tシャツ生地に守られてるから着てる本人に悪気はない。でも圧倒的な存在感。
オレは三回、別の方向を向いた。
凛は気づかなかった。下北沢の路地を、楽しそうに見回していた。
これが均衡というものだ。見ないというわけにはいかない。でも凛が気にしないで済む程度にだ。
その均衡が心地よかった。怒られることも、過剰に意識されることも、どちらもなかった。
ただ手をつないだ。
チビTシャツを選んできた凛のことを、神保町で古書を選んだ凛と重ねた。言葉にしない贈りもの。
今日の凛と手をつないで歩き回ったこと、一生忘れない。永久保存。
[◇/◇]
「奏、明日も会える?」
奏は微笑んだ。私から誘った。
「バイクで走りに行きませんか。奥多摩の方へ」
「……凛、単車乗るのか」
「限定解除。仕事柄、必要で」
「仕事柄ね」
「でも、乗りたいから乗ってるの」
「オレ、中型しかないよ」
「私の後ろに乗ってくれる?」
「……凛が運転するのか」
「問題がありますか」
「ない。全然ない」
私は、うれしくて声を出して笑った。
日曜日の朝七時、マンションの駐輪場に、バイクをさらした。
黒のCB650R。ネイキッドタイプで、余計な装飾がなく、エンジンが剥き出しになっている。
ブロンズ色のフロント倒立フォークとホイールがお気に入り。
昨日、磨いて整備してエンジンを掛けてみた。タイヤの溝は8分山だったし手間はかからなかった。
ヘルメットも革のライダースジャケットも防寒デニムもブーツも黒。
奏はマットブラックのジェットヘルとゴーグルを持ってきた。
焦げ茶のB-3にLevis501にレッドウイングの編み上げ。
ヘルメットを抱えて、バイクの横に立つ真っ黒黒助な私と、どこかビンテージな奏。
「私の腰か肩に手を置いて」
「……腰でいいか」
「どちらでも」
ヘルメットを被り、エンジンをかけた。低い振動が、シートを通して体に伝わってきた。
[◇奏photobook08◇]
奥多摩へ向かう道は、街を抜けると急に山になった。
山に入ると、凛は少し重心をお尻から足首のあたりに移動した。
少しは攻めるのかなと思っていたら違った。
コーナー入口アウト側からセンターのイン側にお尻ごと倒し込んだ。
そのままアウト側に急加速で立ち上がった。次のコーナーも次のコーナーもCBを滑らかに寝かせた。
腰に回した手の中で、凛の各コーナーの重心移動に付き合ったが上手く乗れているだろうか。
右へ、左へ。CBと凛の均衡の邪魔になってないかな?
バイクとライダーが同じ意志を持っているときだけ生まれる、あの感覚。
ライン取りが正確で、スロットルの開け方が滑らかだった。水冷四発のエンジン音を高く響かせ、
またシフトダウン、エンブレ低音で落ち着かせ、そしてお尻をずらして膝を開きスロットルオン。
走る凛より、動いている凛より、CBの凛は大胆で自由だった。
凛の細いウエストから腰骨、お尻への曲線は実際に手を置くとしっかりと幅と膨らみがある。
凛の強い体幹は、背骨を通って尾てい骨までがしっかりしているからだ。
[◇/◇]
奥多摩湖の畔で、二人でホットコーヒーを買って、湖を見下ろすベンチに並んで座った。
私はヘルメットを脱いで、髪の結び目をほどいた。跡がついていた。
これは奏のための気遣いで、普段は気にせず髪を留めない。そんな長さでカットしている。
いつも以上にエアを入れてクシャクシャと整えた。
「CB、いつからだ」
「二十二のときに、最初は原付を買って、それで足りなくなって半年後」
「CB乗れてるな。驚いた。コーナー邪魔にならなかったか?」
「ありがとう。大丈夫。でも、いつもはもっと突っ込みます」
「ラインどりが安定しているから、立ち上がりは開けんだろうなって。後ろでも息止めてたよ」
「もっと速く、もっと遠くへ行きたくなった」
「任務でもそう思うのか?」
「仕事は、帰ってきます。……帰る場所ができたから」
「オレのことか?」
「……うーん」
「凛語か?」
「いまは……半分だけ、凛語」
奏が笑った。低く、温かく。
私は湖を見たまま、口元を緩めた。
「奏」
「ん?」
「キスして」
頬が、山の冷気にしては少し赤すぎた。
了




