06Budapest2
◇奏語り◇
凛から「好きです」と言ってもらえた。オレは、宙に浮いていた。足元が軽い。これをスキップという。
キスはしなかった。したかったが、しなかった。凛が自分の言葉に驚いていたから。
あの驚き方は、計算じゃない。
自分の口から出た本当の言葉に、本人が一番びっくりしたという顔。
先を急いではいけない大切なことだと思った。
凛に消化の時間が必要なのが手に取るように伝わった。
今朝、凛と廊下で顔を合わせたら、凛の頬が少し赤かった。「おはようございます」と言った。
完璧に普通の声だったが、目が少し泳いでた。かわいい、と思った。
リーダーに向かって言うべき言葉じゃないかもしれないが、思ったから仕方がない。
今日の凛はグレーのタートルネックを着ていた。首元まで覆っているのに、
胸のあたりはニットの柔らかさのおかげで、ふくらみがはっきりと形を主張していた。
昨夜のワインレッドのドレスとは全然違う主張の仕方で、
「今朝は高さより膨らみな感じか」と頭の中で反芻した。
この記録、誰かに見られたら終わりだな。
◇/◇
今朝、私はいつもより三十分早く起きた。朝食はホテルのレストランで、二人並んで食べた。
窓の外にドナウ川が見えた。昨夜は光に沈んでいたが、朝は川霧が薄く漂い、対岸の国会議事堂が
白い靄の向こうに浮かんでいた。私はパンをちぎりながら、その景色を見ていた。
奏は珈琲を飲みながら、私を見ていた。
「見てますか」と言った。川を向いたままで。
「見てる」
「川を?」
「凛を」
パンをちぎる手を止めた。耳が、じわりと熱くなった。
「……朝から」
「朝から」
「もぉ」
ため息をついて、パンを珈琲で流し込んだ。奏はそれを見て、小さく笑った。
昨夜の告白で余裕など全くない。
「奏」
「ん」
「昨夜のこと」「思いがけず……でした」
奏はカップを置いた。
「それは凛語でどういう意味だ」
「……そのままの意味。本心よ」決断は要らなかった。
奏は少し目を細めて私を見ている。私は川の方を向いた。でも口元が、緩んでいた。
そのさまを見て、奏が笑顔になった。
「もう少し、宙に浮いてるわ。スキップしだしたら止めてくれ」
◇奏語り◇
帰国の飛行機の中で、凛はまた眠った。
今度は最初から、オレの肩に頭を乗せた。乗せてから少し固まって、でも離れなかった。何も言わなかった。
左腕をそっと凛の背に回した。こうすると凛の上半身を包み込んであげられる。
凛の呼吸が、十分で深くなった。眠るのが早い。緊張が解けた証拠だ。
凛の重みが、少し深くなった。完全に預けてきた。オレは腕の力を少し強くして懐で支えた。
凛は水泳アスリートだが、身体はやわらかくて体温が高め。
宝物を抱えた三時間のフライト。
◇/◇
東京の夜は、ヨーロッパと違う匂いがする。湿度があって、人が多くて、でもどこか落ち着く。
私は深呼吸して、少し肩の力を抜いた。
「帰ってきましたね」
「帰ってきた」
奏が手を取った。ターミナルの人混みの中で、さりげなく迷わず。私は握り返しておきながら、
「……人がいます」
「いる」
「任務外とはいえ、同じ組織の……」
「凛」
「何ですか」
「いまは、リーダーじゃない」
「少し歩こう」奏は手を離さなかった。
私は歩きながら、握り返した手に力を加えた。すると……
いつのまにか、周りから人は消えて、夜空の月と星が私たちを見つめていた。
「それでいい」
「まだ夢なのかな」
私は前を向いたまま、奏の手の温度を確かめていた。今夜の手の温度は、これまでとは少し違った。
機内で奏に甘えて眠った後の余韻なのか。心まで沁みて温かだった。
「どんな夢だったんだ?」
奏は立ち止まって、私を引き寄せた。
奏の目が、近かった。ブダペストで「愛しい、と書いてあった」より近かった。
今夜は読めるだけじゃなかった。
その目の中に、私自身が映っていた。本当に映っていた。
私は目を閉じずに奏を見つめた。奏がまばたきして、私がそれにつられてまばたきした瞬間に
奏の唇が、私の唇に、やさしく触れた。
一秒。二秒。三秒。離れた。
まだ奏の目に私は映っていた。吐く息が混ざりあった。
「……凛」
「なあに?」
「オレも夢を見たんだ」
「どんな夢?」
「凛の瞳に映る自分を見ている夢」
「私、いま全く同じことを思っていたの」
「もう一度、いいか」
「……凛語じゃなく言うと」
「うん。」
「いいです」
今度は、私から少し近づいた。
凛 高校時代
私は、体育の時間が嫌いだった。
体操着に着替えるとき、更衣室の隅を選んだ。ブラウスを脱ぐ一瞬を、誰にも見られたくなかった。
胸の大きさを、同性にも知られたくなかった。羨ましがられることも、哀れまれることも、
どちらも違った。ただ、普通でいたかった。
でも体育が始まると、少し違った。走り出した瞬間だけは、コンプレックスを忘れた。
風を切る速度の中では、視線を意識する余裕がなかった。身体が道具になる感覚。
泳ぐときも同じだった。速く動くことで、身体が自分のものになった。
跳び箱が嫌いだった。踏み切りの瞬間に、胸が上下に跳ねる。着地の衝撃が来る前に、視線を感じた。
体育教師の目が一瞬、胸を見ていた。その日の帰り道、遠回りをした。
悔しかった。その視線に性的な悪意を感じ嫌悪した。こういう男性は許せない。
水泳の授業だけは、違った。水の中では全員が同じだった。浮力が全部を平等にした。
水面下では、誰の視線も届かなかった。
県大会まで泳ぎ続けたのは、水の中だけが視線のない場所だったからかもしれない。
逃げ場だったんだ。
凛 高校3年
県予選を通過したが、憂鬱だった。周りの視線が怖かったのだ。胸に集中する知らない人々の嫌な目。
タイムも全国水準だった。でも、水着になるのが嫌だった。
競泳用の水着は、身体の輪郭を隠してくれない。
県予選までは、結果で黙らせた。その先は……もっと大きな視線、多くのカメラもある。
それに耐える自信が持てない。それでも、凄くあたたかい視線もあったことはあった。
少しだけ心が晴れた。でも、速く泳ぐことと見られることを一緒に抱えられなかった。
「水の中だけが自由だったのに、水から上がった瞬間が怖かった」
凛 20歳 転換点 興味を惹くのではなく、置いておく。
二十歳の頃、先輩に言われたことがある。
見られるということは「あなたが、男性の興味を惹くということ」善意だった。励ましだった。
でもその言葉が、一番嫌だった。興味を惹くという発想が、私にはなかった。
胸が大きいことで男性の興味を惹く。それで?興味? 否、それで引くのは気持ちではなく目だけ。
コンプレックスである事実は変わらない。興味を惹いても、コンプレックスはコンプレックスのままだ。
その頃から、考え方が少し変わった。興味を惹くつもりもなく、隠し続けるのでもなく、
ただ「置いておく」ことにした。胸の大きさは私の一部だが、私の全部ではない。
視線が来ても、来た視線の責任は私にはない。私にできるのは、視線に怯えないことだけだ。
背筋を伸ばす理由が変わった。必死になって勉強した。
コンプレックスを隠すためではなく、自分の重心を保つために伸ばすようになった。
姿勢は同じでも、理由が変わると身体の感覚が変わる。
そして、内調に入った。エージェントの仕事は、身体を道具として使う。
道具として使うことと、部分として見られることは違う。
任務の中では、身体は全部が私だった。胸も、くびれも、お尻も、走る速さも、判断の速さも、
全部が佐伯凛というエージェントの一部でしかない。
了




