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05Budapest-1

[◇奏photobook06◇]

凛とまた映画を見た。今度はオレが選んだ。マリリン・モンローの「七年目の浮気」。

凛は最初、少し意外そうな顔をした。「モンローですか」と言った。

オレは「凛に似てると思って」と言った。

凛は黙った。三秒くらい。それから「オードリーじゃないんですか」と言った。声が少し低かった。

怒っているのかと思ったら、そうじゃなかったと思う。少し耳が赤かった。

説明した。モンローは賢い人だった。コメディエンヌとして類まれな才能を持ちながら、それを表に

出しすぎなかった。柔らかく見せながら、芯があった。ふとした瞬間に、息が止まるほど色っぽかった。

本人はそれに気づいていなかった。おそらくこの頃は。

凛はしばらく黙って画面を見ていた。そして、地下鉄の風でスカートがめくりあがるシーン。

それを観て「褒めてるんですか」と聞いた。「褒めてる」と答えた。

「……そうですか」とだけ言って、また画面を向いた。

この1シーンだけでモンローは今でも語り継がれる世界的に有名な女優になったと言っていいと思う。

でも、モンローより凛の横顔だった。世界中の誰よりも凛。

オレはたぶん、もう取り返しがつかない。それでいい。


ハンガリー。国章がハンガリー大国当時に戻った、つまりマリア・テレジアの国。

名字+名前表記の国で、お辞儀の習慣や温泉がある。日本と似た文化があるがキリスト教国家。

凛はワインレッドのドレス姿だ。肩が大きく開いて、首筋から鎖骨の先までなだらかに続く。

胸元は深すぎず浅すぎず、柔らかなふくらみが生地を前に押し出して大きさを高さで主張していた。

ウエストは絞られて、腰からお尻にかけてもタイト。裾はフロアまで流れる。

歩くたびにスリットから膝下がのぞく。髪は夜会巻きにして、後れ毛が二本、首の左側に落ちていた。

[◇/◇]


次の任務はブダペストだった。

ドナウ川を挟んでブダとペストに分かれた街。王宮の丘から見下ろすと、川の向こうに国会議事堂の

尖塔が夕陽に染まる。私は現地に着いてすぐ、その景色を一分だけ眺めた。

それから顔を切り替えた。任務の顔に。

今回の潜入は、高級ホテルでのパーティー。ターゲットは東欧の政財界に食い込む情報ブローカーで、

接触だけでなく会話の録音まで求められていた。私の偽肩書きは、日本の投資ファンドの代表。

英語とフランス語を使い分け、その場の空気を読みながら相手を誘導する。

これまでで最も高度な潜入だった。

私は今夜、ワインレッドのドレスを着ていた。このデザイン。普段なら絶対に着ない。

奏がホテルのロビーで私を見た瞬間、一秒だけ動きが止まった。お約束で固まる奏。

「録音機の確認を」と仕事声で言った。変な心境だ。

「した。ドッドレスの」奏は一拍置いた。「左の、こっ腰のあたり。問題ないか」

「問題ないです」

「……行けるか」

「行けます」

私は踵を返してパーティー会場へ向かった。ワインレッドの裾が石床をさっと払った。

奏は三歩遅れてついてくる。

シャンパンを片手に、私は三つのグループを渡り歩いた。英語では少し砕けた投資家として、フランス語では文化的な教養を匂わせながら。相手が何を話したいかを瞬時に読んで、そこへ自分を合わせる。

いつもより、少し視線の数が多い。後ろの奏だけに気配を残したい。



♪♪その⑨♪♪


奏、仕事中です。

言葉の歯切れが悪い。

こんなドレス……

大胆過ぎだよ……



「もぉ」



◇奏語り◇

パーティー会場は、凛の舞台だった。

主張しすぎず、しかし存在感は消さない。消さないどころか……

凛がモンローを知らない理由が、今夜わかった気がする。

初期は、自分の色気に気づいていなかったモンロー。あのドレスで会場を歩きまわる凛も同じだ。

凛は「ターゲットへの最短経路」しか考えていない。

でも周りの男たちは全員、凛が通るたびに視線を向けた。

凛は気づかなかった。本当に気づかないのだろうか? オレは全部を見ていた。

開始四十分後だった。

ターゲットが自分から近づいてきた。向こうから来た。凛が仕掛けたわけじゃない。

ただそこにいただけで、引き寄せられた。凛は少し驚いた顔をした。一瞬だけ。

それからすぐ、切り替えた。その切り替えの速さも好きだが、あの驚いた顔も好きだ。

自分が引き寄せているとは思っていない顔。それが一番、色っぽかった。

凛は気づいていない。自分が引力を持っていることを。あるいは……

オレの耳に会話が届いた。凛の声が、いつもより少し低くなった。少し柔らかくなった。それは計算ではなく、

相手に合わせた結果だったが、端から聞くと、ひどく艶っぽかった。

女性は、内緒話を耳元で囁くだけで魅力度が30%増すらしい。

凛は耳元ではないが、時々、接続詞を囁きにして会話に挟む癖がある。

オレはシャンパングラスを持ったまま、別の会話をしながら、視界の端で凛を追い続け、聞き続けた。

録音は、三十分で完了した。

◇/◇



パーティーが終わった。

「うまくいったわ ね?」

「そっそうだな」夜会巻きが少し崩れてた。

「おっおまえが凄かった。録音時間30分だぞ」

「ううん。チームのおかげです」

ホテルの部屋に戻って、私はドレスのまま窓の前に立った。

任務を無事終え、緊張がゆっくりと抜けていく、その眺めは夕方とは違う。

ドナウ川の夜景が広がっていた。対岸の国会議事堂が白く輝き、川面に光が溶けていた。

プラハとも、ウィーンとも違う美しさだった。しばらくそれを眺めた。

奏がソファから立って、隣に来た。

二人で川を見た。奏の場合、会話のない沈黙が苦にならない。

「奏」

「ん」

「今夜のターゲット、向こうから来ましたね」

「来た」

「なぜだと思う?私の偽の肩書きが効いたのか、それとも何か思惑が」

「凛だから」

奏を見た。「……肩書きとは関係ないと?」

「関係ない」奏は川を向いたまま言った。「凛がいると、人が来る。それだけだ」

「……大げさ」

「今夜、見てきた結論だ。大げさじゃない」

私は返す言葉がなくて、また川を見た。

奏が、夜会巻きの後れ毛に、そっと触れた。指先で、一束だけ。耳の後ろへ、押しやるように。

「崩れてる」

「……なぜ今頃」

「直さなくていいから」

「それは理由になっていません……」

「オレの中ではなってる」


「凛」

「なぜ?自分を見ないようにしている?」


奏を見た。奏はまっすぐ私を見ていた。

「そんなことない。自分自身を見ているつもりです。」


「いつか、知りたい。大切なことだから」


指先が、まだ耳のあたりに触れていてくすぐったい。

私の胸の中で、何かが静かに満ちていった。川が光るように、少しずつ、確かに。

「……奏」

「ん」


「好きです」


言ってから、自分で目を丸くした。自分で驚いた。奏も一瞬、止まった。

それから奏が、ゆっくり体を向けた。手が、私の頬に触れた。ドレスのまま、夜会巻きが崩れたまま。

「……知ってた」

「知ってたの?」

「いや……」

「知りたかったんだ、ずっと」

吐く息が混ざった。

ドナウ川が光っていた。国会議事堂の尖塔が、遠く白かった。

奏の目の奥が完全に読めた。

愛しい、と書いてあった。



♪♪その⑩♪♪


奏、本当に本当にあなたって人は。



「もぉ」



あなたになら、いつか聞いてもらえるかな。






帰国に続く

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