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04Prague

奏と映画を見た。

私が選んだのは、フランスのモノクロ映画だった。1960年代の、ヌーヴェルヴァーグ。

台詞が多くて、スクリーンが揺れた。

奏が時々、スクリーンを見ている私の横顔を観察するように、でも、やわらかく見守るように見ていた。

「難しかったですか」

「正直半分くらいしか理解できなかった」

「私も最初そうでした」

私は自分が最初から何でもできると思っていない。ただ、諦めないだけだ。

「凛は、初めはと言って、最後は凄い領域に到達するんだ」

「何かを自分で納得できる領域まで磨くのが好きなんです」

今日は、髪を下してニットじゃなくてブラウスにして、奏に見られても、自分に納得できるデート服だ。

「凛、今日のブラウス。とても似合ってるよ」

帰り道、並んで歩いていたら手が触れた。どちらからともなく、繋いだ。

交差点の信号待ちで、私の手が奏の手の中にすっぽりと収まった。


◇奏語り◇

暗い劇場の中で、凛の輪郭だけが柔らかく浮かんでいた。首筋。肩の丸み。胸のあたりで重なった腕。

シルクっぽい生地のブラウスが、光の加減で微かに透けていた。

凛の手は小さくて温かい。リーダーの手だとは、やっぱり思えない。

思えないくせに、あの手が現場で下す判断は、いつも正確だ。それがたまらなく、好きだ。

◇/◇


プラハの任務が下りたのは、映画の三日後だった。

ターゲットは東欧の武器ブローカー。現地の協力者から情報を受け取り、身柄確保まで持ち込む。

これまでで最も危険度の高いミッションだと、本部は正直に言った。私はブリーフィングを聞きながら、

頭の中でチームを組み立てていた。メンバーは四人。

私、奏が補佐、あとは二人のフィールドエージェント。

ブリーフィングが終わり、メンバーが部屋を出たあと、奏だけが残った。

「危ない」

「知っています」

「凛が前に出すぎる場面が来たら、オレが止める」

私は資料を閉じて、奏を見た。

「それはリーダーへの越権です」

「わかってる」

「……奏」

「ん」

「帰ります、ちゃんと。二人とも」

奏は少し黙った。それから、私の額に手を乗せると、指がさらっと髪をながしてくれた。

「知ってる。でも言わずにいられなかった」




♪♪その⑦♪♪


不謹慎にも

髪をすく、その手が気持ちよくて、

猫みたいに「ゴロゴロ」喉がなりそう



「もぉ」



[◇奏photobook05◇]

プラハは、石でできた街だ。カレル橋の欄干に並ぶ聖人像が、霧の中に白く浮かんでいた。

ヴルタヴァ川は鈍く光り、旧市街の尖塔が灰色の空を突いていた。美しいのに、どこか翳りがある。

ウィーンとは違う、プラハの美しさだ。

かつてはハプスブルク家に400年支配され繫栄したが、世界戦争に二度敗れる。まず、ハプスブルク家が解体され、ナチス、ソ連に翻弄され、共産国家になる。その後スロバキアとビロード離婚。

今ではEU加盟でドイツの知能と工場を請け負う国。賢い人が多い印象だが、

日本同様にご近所付き合いは大変だ。

それにしても……イギリス(アメリカ)、フランス、ロシアの政治家や軍人はどうも苦手だ。

凛は黒のロングコートを着ていた。胸元まで閉じたデザインだが、動くたびに裾が割れ、

細い足首が見えた。髪はまとめている。

任務中の凛の顔だ。目が鋭く、口が引き結ばれ、歩幅が広くなる。

それでも、カレル橋の風に髪の後れ毛が揺れると、その佇まいの隙間に何か柔らかいものが見える。

いや、オレにだけは見える。

[◇/◇]


ターゲットの潜伏先は、旧市街の外れの建物だった。

私はチームに指示を出した。低い声で、速く、無駄なく。四人が別々の角度から建物を囲む。

正面から私が入り、奏が背後をカバーする。残り二人は脱出経路を抑える。

「タイムラグは十秒以内。私の合図で動いて」

全員がうなずいた。奏だけに、もう一度目を向けた。

奏が小さくうなずいた。それだけで足りた。

建物の中は暗かった。

正面扉を抜けて三秒で、状況が変わった。ターゲットが予想より早く動きだした。

階段の上から二人、廊下の奥から一人。瞬時に判断した。廊下の奥は捨てる。階段に集中する。

体が動いた。水泳で鍛えた体幹が、狭い廊下でも軸を保つ。

一人目をかわし、二人目の腕をとって壁に押さえた。

肩が壁に当たって、鈍く痛んだ。気にしない。

そのとき背後から足音。振り向く前に、奏が来ていた。

奏が廊下の奥の一人を制圧し、私の背後の安全を確保した。二人の動きが、呼吸のように合った。

言葉はなかったが、互いの位置を、常に把握していた。

リーダーが奏に代わった三分間。ターゲットを確保した。

廊下に静寂が戻ったとき、奏が私の右腕を掴んだ。

「肩、打った」

「見えてましたか」

「ああ」

「……大したことないです」

「後で見せろ」

命令口調だった。私は少し驚いた。奏がそういう言い方をするのは、珍しかった。

「……了解」

素直に返事した。



♪♪その⑧♪♪


本当は満身創痍だったの。

こんな時、一瞬で奏がリーダーに代わってくれて指揮してくれる。

サブだから当然のことだけど、感謝です。

私は、そういうやり方がわからない。

奏とは、ずっと前から繋がっていたのかもしれない……



「もぉ」




◇奏語り◇ 

凛の肩を見た。

打撲だった。コートの下、肩のあたりに青紫の痣が出ていた。凛は「大したことない」と言ったが、

触れると少し顔をしかめた。その顔を見て、オレは自分が思っていたより動揺していることに気づいた。

凛が痛がる顔を、初めて見た。任務中はまったく見せなかった。廊下で二人を相手にして、肩を壁に打ちつけながら、顔色を変えなかった。それがすごいのか、無謀なのか、判断がつかない。たぶん両方だ。

湿布を貼るとき、凛がコートを脱いで、ブラウスの肩口をずらした。白い肩が出た。痣がなければ、ただきれいだと思っただけかもしれない。でも痣があったから、怖くなった。怖かった。これが頭だったら。これが胸だったら。

湿布を貼りながら、できるだけ丁寧に、できるだけ痛くないように触れた。

急いで何かをするより、今、大切なことをする。

凛は黙っていた。窓の外のプラハの夜景を見ていた。その横顔が、任務中とも、映画館とも違った。

ただ疲れた、二十八歳の女の人の顔だった。

好きだと思った。今更みたいだが、改めて思った。強いところも、笑うところも、凛語も、謙虚なところも。

そして今夜みたいに、疲れてただ窓の外を見ているところも、全部。全部、好きだ。

◇/◇



湿布を貼り終えて、奏が手を離した。

私はブラウスの肩口を戻して、コートを羽織った。鏡を見ずに、ボタンを上まで留めた。

奏は後ろで、使い終わったものを片付けていた。

「奏」

「ん」

「……ありがとう。今日の廊下と、これと」

鏡に言った。奏の方を向かずに。振り向くと、何か顔に出そうだった。

奏が近づいてくる気配がした。背後に立って、痛くない方の肩に、手をそっと乗せて。

もう一方の手で頭を撫でてくれた。本当にちょうどいい加減で沁みた。

「凛」

「何ですか」

「オレに、もう少し頼っていい」

鏡の中の奏を見た。奏は後ろから、真っ直ぐ見つめていた。

「……頼り方がわからないです」

「知ってる。だからオレが、そこにいる」

鏡から目を外した。奏の手が、肩から首のつけ根へ、ほんの少し移動した。そこに、額を寄せた。

ウィーンのときと同じ温度が、首筋に落ちてきた。

「凛、大好きだよ。オレに甘えて。」

目を閉じた。

プラハの夜は長く、静かで、窓の外の尖塔が霧の中で揺れていた。奏の額の温度が、じわりと広がった。

首から、肩へ。痛みより、その温度が届いた。

私は、息を「ふーっ」と長めに深く吐いた。少し涙で目が潤んだ。

鎧を脱ぐのに似ていた。一枚だけ。でも確かに。

「……奏」

「ん」

「次の任務も、隣にいて」

じゅうぶんだった。



凛 中学一年 春  

制服を着た最初の日のことを、今でも覚えている。

白いブラウスに紺のスカート。鏡の前に立った。母が「似合うわね」と言った。

でも私が見ていたのは胸のあたりだった。ブラウスが、他の女子とは違う張り方をしていた。

ボタンの間に、わずかな隙間ができていた。

その日から、ブラウスの下に一枚重ねて着るようになった。キャミソールを。

誰にも言わなかった。夏でも重ねた。暑かった。隙間よりよかった。

成績は、ずっと良かった。「直感と努力の積み重ね」テスト問題が全て読めてしまう。

廊下ですれ違う男子の視線の方向を、気配で感じるようになったのもこの頃だ。

顔ではなく、胸に来る視線。悪意はなかった。好奇心だとわかっていた。

でも、好奇心の視線は時として悪意より疲れる。

見られているのに、見られていないと振る舞わなければならない。

背筋を伸ばすことを覚えた。前屈みにならないようにした。

走るときは腕をしっかり振って、揺れを最小限にした。

工夫の積み重ねが、今の凛の姿勢を作った。


了

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