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03Wien

リスボンから帰って、二日後。

私はデスクに山積みになった報告書を前に、まったく集中できないでいた。

原因はわかっている。わかっているから、なおさら厄介だった。奏のハンカチが、まだコートのポケットに入ったままになっている。洗おうと思うたびに、何か別のことをしてしまう。

それが何を意味しているか、私は分析官でもないのに、うっすら理解し始めていた。

ため息をついたとき、デスクの内線が鳴った。

「佐伯です」

「オレ」

奏だった。背筋がわずかに伸びた。意識していると自分で感じた。

「……何ですか」

「今夜、時間あるか」

「任務の話ですか」

「違う」

即答だった。手元のペンを置いた。小さな決断。

「……あります」


待ち合わせは、代々木公園の東門前。夜の七時。

奏はすでにそこにいた。コートのポケットに手を入れて、街灯の下で空を見ていた。

私が近づくと、ちゃんと気づいた。当たり前だ、奏もエージェントだから。

自分が先に着いて、待ちながら心の準備したかった。

「どこに行くんですか」

「決めてない」

「……いつもそうですね、あなたは」

「いつも凛が決めてくれるから問題ない」

悪びれもせずにそう言って、奏は隣に並んだ。私は少し考えてから、公園の中に向かって歩き始めた。

奏は黙ってついてきた。その割に足取りが軽かった。

夜の公園は人が少なかった。落ち葉が足元で鳴った。木々の間に街の灯りが透けて見えた。

「聞いていいですか」歩きながら言った。

「どうぞ」

「リスボンで言ったこと。後ろが好きだって。特に私のときは、って……あれは、どういう意味ですか」

奏はすぐには答えなかった。二人分の足音が、しばらく続いて

「そのままの意味だけど」

「そのままって」

「凛が判断して、凛が走って、凛が決める。それを後ろで見てるのが、……嫌いじゃない」

嫌いじゃない、という言い方が奏らしかった。ただ否定じゃない。

「それって」少し声が低くなるのを感じながら言った。

「仕事の話ですか」

奏が足を止めた。私も止まった。

振り向くと、奏は私を見ていた。街灯が遠くて、表情がよく読めなかった。でも、目は確認できた。

リスボンで読めてしまいそうだと思ったときと、同じ目。

「……仕事の話だったら、楽だったな」

「オレは、急いではいない。でも、凄く大切なことなんだ」

ふたりでベンチに座った。距離は、こぶし二つ分ほど。

私は膝の上で手を組んで、正面の暗い池を見ていた。

奏は少し体を私の方に向けて、どちらかというと私を見ていた。

それが視界の端でわかって、落ち着かなかった。

「オレも聞いていいか」

「……何を」

「凛はどうなんだ。マラケシュの路地で止まったとき、何を考えてた」

答えを探した。でも答えはもうとっくに出ていて、ただ口にするだけでいいのに、と気づいた。

「あなたの体温が、近かった」

言ったあと、自分で呆れるほど正直な答えだと思った。

リーダーとして、もう少し戦略的に話せないのか。

でも奏は笑わなかった。

「オレも、同じだった」

静かに、そう言った。

しばらく沈黙があって、風が吹いて、枯れ葉が一枚、二人の間の隙間を通り過ぎた。

奏が、ゆっくりと右手をこちらに伸ばしてきた。私の手の、すぐ隣に置いた。

触れるか触れないか、そのくらいの距離で止まった。

自分の手と、奏の手。近くなった隙間。

でも、決断するのは、今回も私だ。少し大きな決断。

その隙間を埋めた。(もぉ)

奏の指が、静かに私の手を包んだ。強くも弱くもなく。ただ、確かに。

「……ルール違反ですよ」声が、少し震えた。

「知ってる」

「パートナー同士は……」

「知ってる」奏は繰り返した。

「それでも、伝えたかった。触れたかった。……だめか?」

答えの代わりに、奏の手を強く握った。

奏が、静かに笑った。今度は、はっきり見れた。



公園を出たのは、九時を過ぎたころだった。

駅までの道を並んで歩いた。手は、もう離れていた。でも肩の距離は、来たときより明らかに近かった。

「ひとつ言っておく」

「何ですか」

「任務中は、リーダーと補佐でいる。それは変えない」

私はその言葉の意味を受け取った。任務は任務。それを乱すつもりはない。奏なりの誠実さだと思った。

「わかりました」

「ただ」

「ただ?」

「任務じゃない時間は、オレに使わせてほしい」

私は歩きながら、前を向いたまま、ひとこと返した。

「……検討します」

「それ、凛語でイエスだろ」

「うるさいです」

奏がまた笑った。今度は声が出た。すごく温かい笑い声だった。

私は前を向いたまま、口元が緩むのをどうにも止められなかった。

街の灯りの中を、ふたりは歩き続けた。肩が、触れるか触れないか。そのくらいの距離を保って。

それで今夜は、じゅうぶんだった。



♪♪その④♪♪


「それ、凛語でイエスだろ」って……


恥ずかしいが恥ずかしいのままだ。



「もぉ」




ウィーンは、音楽が石に染み込んだ街だ。

観光客向けのモーツァルト像が建つ広場の端を抜けながら、私はそんなことを考えていた。

任務の最中に似合わない思考だと自分でも思う。でも今回の潜入先がコンサートホールである以上、

音楽のことを頭に置いておくのも、あながち無駄ではない。

今夜の任務は、ターゲットが出席するチャリティー演奏会への潜入だ。

私と奏は、別々のルートで会場入りする。接触は内部で一度だけ。

耳のインカムに、奏の声が入ってきた。

「正面入口、混んでる。VIPゲートはどうだ」

「問題なし。チケットは」

「さっき届いた。本部仕事が早い」

「……奏」

「ん」

「任務中は余計なことを言わない」

少しの間があった。

「余計、ってどれのことだ」

「全部です」

「了解」

でも声が笑っていた。私はため息をついて、VIPゲートへ向かった。


コンサートホールの内部は、金と赤で飾られていた。

シャンデリアが天井から三つ下がり、それぞれが蝋燭の光を模した電球を何百本と束ねていた。

絨毯は深紅。壁は大理石。

ドレスコードを守った観客たちが、シャンパングラスを持ちながら会話の花を咲かせている。

私は黒のドレスを着た。膝丈で、袖なし。仕事用の偽装だと頭では理解しているが、

鏡で見たとき、いつもと少し違う人に見えた。

十メートル先に、奏を見つけた。

濃いグレーのスーツ。ネクタイなし。シャツの一番上のボタンを外している。

規定ギリギリのスタイルだが、会場の中で妙に自然に見えた。奏は元々、どこにいても浮かない人間だ。

近づいていくと、奏は気づいて、一瞬だけ動きを止めた。1秒固まった。

その1秒が、実はうれしかった。

「ターゲットは十七時の方向、三十メートル」と小声で言った。

「確認した」奏も同じ音量で返した。

「……似合ってる」

「任務中です」

「報告です」

私は奏を一瞥して、シャンパングラスをウェイターのトレイから取った。口はつけない。

ただの小道具だ。

「ターゲットへの接触タイミングは、演奏開始から二十分後。私が動く。あなたは出口と背後」

「了解。凛が動くまで、オレはここにいる」

そう言って、奏は私の少し後ろに位置を取った。前ではなく、後ろ。いつものように。

それがどうしようもなく安心感を持つと気づいたのは、わりと最近のことだった。


演奏が始まった。

シューベルトの弦楽四重奏。第一ヴァイオリンが最初の音を出した瞬間、会場の空気が変わり、

会話が止まり、グラスを持つ手が静止し、百人以上の人間が同じ方向に顔を向けた。

私はその流れの逆方向へ、静かに動き始めた。

ターゲットに近づき、隣に立ち、名刺を渡す。三十秒以内に終わらせる。

それだけの動作が、今夜の仕事だった。

あとはターゲットが名刺の裏に仕込んだ受信チップを受け取り、気づかずに本国へ持ち帰る。

すべては計画通りに進んだ。

ターゲットは名刺を受け取り、私の偽名に微笑み、また演奏に目を戻した。

私はそのまま人混みの中に溶けて、奏の隣に戻った。

「完了」と唇だけで言った。

奏は返事の代わりに、ほんの少し肩の力を抜いた。ずっと張っていたのだ、この人も、と思った。

ステージでは、第二楽章に入っていた。

旋律が低くなり、ゆっくりと、まるで水が石の間を流れるように広がっていく。

奏の手が、私の手の甲にそっと触れた。

また1秒だけ。それだけで、引いた。

「よかった。お疲れ」という意味だと伝わった。言葉より早く、確かに。

音楽を聴いた。胸の中に、シューベルトともうひとつの旋律が鳴っていた。


撤収は滑らかだった。

演奏の休憩時間に紛れて会場を出て、石畳の裏道を二つ抜け、観光客で混む広場を横切った。

追跡はなし。今夜は珍しく、すべてが静かに終わった。

ドナウ川沿いの遊歩道に出たとき、私はようやく息を深く吐いた。

十一月のウィーンの夜は、リスボンより冷たかった。吐く息が白くなる。

奏が隣に並んだ。川の方を向いて、しばらく何も言わなかった。

私もしばらく黙っていた。任務後のこの静けさが、いつからか好きになっていた。

「さっきの」

「さっきの?」

「手。触れたでしょう」

奏は川を見たまま、少し間を置いた。

「任務中だったか、あれは」

「……ギリギリです」

「じゃあセーフだ」

奏を見た。奏はまだ川を見ていた。耳が、少し赤かった。寒さのせいかもしれない。

でも、そうじゃないかもしれないとも思った。

「奏」

「ん」

「こっちを向いてください」

奏がゆっくり私に向いた。表情は読めないが、真っ直ぐ私を見つめた。

私から、奏のコートの袖をつかんだ。引っ張るのではなく、ただ、掴む。

伝わる温度は少ないけど、お返し。

「私も、さっきの1秒が、届いたと伝えたかった」

奏は何も言わなかった。

代わりに、掴んでいた私の手に、自分の手を重ねた。

ひとまわり大きな手が、私の手をそっと包んで、指先が、私の指に絡んだ。

ドナウ川が、黒く光りながら流れていた。遠くで誰かの笑い声がして、それからまた静かになった。

「凛」

「何ですか」

「今、任務中じゃないよな」

心臓が、一拍だけ跳ねた。

「……中じゃないです」

奏の顔が、少し近づいた。ゆっくりと。確認するように。

あえて目を閉じなかった。ただ正面から奏を見ていた。

私の額に、奏の額が触れた。それだけだった。口づけではなかった。でも、やさしさが沁みてきた。

互いの吐く息が白く混ざって、消えた。

体温が、ここにある。

偽りの名前でも、極秘の任務の中でも、これだけは本物だ。私は確信した。




♪♪その⑤♪♪


まるで赤ちゃんの体温を確かめるかのよう

すごくすごく、やさしかった。



「もぉ」




ホテルへ戻る道、二人はずっと手を繋いでいた。

報告書には書けないことだ。上官に言えることでもない。

それでも私は手を離さなかった。奏も離さなかった。

ホテルのロビーで、エレベーターを待ちながら奏が言った。

「次の任務、どこだ」

「まだ決まっていません」

「そうか」奏はしばらく考えるように黙って、「……どこでもいい」

「どこでも?」

「凛と行くなら」

私は、前を向いたままなら言えた。

「……凛語じゃないです」

「どういう意味だ」

「私も、同じです」

二人だけになった箱の中で、私が先に笑った。そして奏が小さく笑った。

互いの体温で存在を確かめあったウィーンの夜。




[◇奏Photobook03◇]

オーストリア、ウィーン。ハプスブルク家と音楽の都市。

マリーアントワネットが幼少を過ごしたシェーンブルン宮殿。

モーツァルトは、何処でプロポーズしたのだろうか?

凛もモーツァルト像が建つ広場の端を抜けながら、

何か思考しているようだった。

任務地はコンサート会場。シューベルト弦楽四重奏。

モーツァルトに憧れ、ベートーヴェンを尊敬した苦労人。

ただ、彼には嫉妬はなかったのではないだろうか。

楽曲の数からして、ずば抜けて才能があったはずだ。

 

凛は黒の膝丈のドレスを着ていた。細いが筋肉のついたふくらはぎを眺めた。

袖なしで胸元は閉じているが、大きな胸の膨らみと高さが強調される。笑顔なし。

自然な表情で深紅の絨毯に溶け込んでいるが、

オレには特別に映った。一瞬、固まった。綺麗だ。

凛がオレの隣に来た。「完了」。

1秒だけ凛の手の甲にそっと触れた。


ドナウ川の沿いの遊歩道に出て、凛が深く息を吐いた。吐く息が白い。

凛が、オレのコートの袖を掴んだ。凛語の動作のつもりか。

伝わったよ。お互いを見つめ、凛の額にオレの額をそっと触れた。

やさしく凛の体温を計るかのように……

[◇/◇]



翌朝の便まで、時間があった。

本部からの指示は「現地待機、二十四時間」。理由は次のターゲットの動向確認だったが、

実質的には何もしなくていい一日だった。私の人生でこれほど希少な時間はない。

ホテルのレストランで朝食をとってから、奏が言った。「どこか行くか」

「任務外の行動は」

「自由です、今日は」

私が言う前に奏が先に言った。

「……先読みしないでください」

「もう一緒にいれば読める」

その言葉が思いのほか胸に響いて、私は珈琲で誤魔化した。


結局、美術史美術館へ行った。私が決めた。奏は黙ってついてきた。

ウィーンに来るたびに、ここへ寄ることにしている。

理由はブリューゲルの絵があるからだ。「バベルの塔」。

近づくほど細部が現れ、引くほど全体が見えてくる。諜報の仕事に少し似ている、と思っている。

平日なので、館内が静かだった。

私は私服だった。もちろん昨夜のドレスではなく、細身のグレーのパンツにオフホワイトのニット。

ニットは薄手で、身体の線が出るが、胸の丸みを柔らかくできる。

仕事着でも偽装でもない、ただの私の格好だった。

奏がブリューゲルの前で止まった。

「これが好きなのか」

「こういうの、嫌いですか」

「いや」奏は絵を眺めたまま言った。「ただ、意外だった。もっとシンプルなものが好きかと思ってた」

「シンプルなものも好きです。でも、近づくと違う顔を見せるものの方が、長く飽きない」

奏が私を見た。何かを言いたそうで、でも言わなかった。

お互いわかっていて、続きを待つ必要はなかった。



[◇奏Photobook04◇]

次の日、 「自由です。今日は」

凛は細身のグレーパンツにオフホワイトニット。

爽やかな印象だが、しっかりと鎖骨が見えるようにスクエアカットされたデザイン。

逆に、その下の大きな膨らみが柔らかさを表現していて絶妙に良いバランスだ。

「流石、凛だ。」

「何のことですか?」と凛。

ウィーン美術史美術館にふたりで出掛けた。

600年ハプスブルクコレクション。

広場でマリーアントワネットの母親に出迎えられた。(マリア・テレジアって母だよな)

その両側に美術史美術館と自然史博物館。対になっている。

豪華絢爛な装飾が額縁になっている天井画。 「ルネッサンス賛美」

装飾品で思った。凛の胸元にはネックレスは要らないな。鎖骨と胸で芸術の域。

そうだ。髪飾りがいいな。いつかプレゼントしよう。

そして「ルカ・ジョルダーノ 反逆天使の堕落」青が鮮やかだ。

オレとしては「グイド・カニャッチ クレオパトラの死」を観てみたい。

「グイド・カニャッチ マグダラのマリア」に感動した覚えがあった。(本物は観てないが……)

 凛は、「ブリューゲル バベルの塔」が目当てで何度も訪れていた。

素晴らしい絵画を鑑賞すると感情が溢れてくる。自制が効かない自分に会える。

「バベルの塔」は素晴らしかった。昔、「バベルの塔」が来日したことがあって、

大きな垂れ幕で表現されていた覚えがある。細やかな描写がホークアイのような視点で好きだ。

凛の穏やかな横顔を眺めながら思った。いま、どんな感情が溢れだしているのだろうか。

今日は木曜日でカフェKHMにディナーがある。

凛の目を盗んで予約しておきたい。サプライズで歓ぶ凛の顔が見たい。

[◇/◇]



「凛、ご飯にしよう」

「はい。通りに出てから何か」

「ううん。こっちだ」

カフェKHM。奏はいつの間にか予約していた。全く気付かなかった。

ここで食事するのは初めてだった。

ハプスブルク家に招待された気分だった。

「奏、ありがとう。凄く嬉しい。」

「あのね、いつか誰かとここで食事したいってずっと思ってた。」

奏が突然言った。

「中学、高校とバスケ部だった」

文脈がなさすぎて、一瞬反応が遅れた。

「……何の話?」

「好きなスポーツ」

なんだ照れ隠しか。私はフォークを置いた。

「バスケ部」

「ポイントガード。高校三年間補欠だった」

「それは……でもなぜ言うの?」

「凛には正直でいたい」

急に真顔に戻り言うから、私は少し笑ってしまった。奏がわずかに目を丸くした。

私が声を出して笑うのを、あまり見たことがないのかもしれない。

「私は水泳です。中学から大学まで」

「速かったのか」

「県大会止まりです。でも、水の中にいると、頭が静かになる」

奏は少し考えてから、うなずいた。

「わかる気がする」

「補欠のポイントガードに?」

「補欠でも、ボール追いかけてる間は余計なこと考えない」

その言葉を、しばらく噛みしめた。この人も、頭を静かにしたい瞬間があるのだと思った。

飄々として見えて、どこかで何かを抱えている。

「……中学のころ、どんな子でしたか」

「目立たない子。でも観察はしてた」

「観察?」

「クラスの力学とか、誰が誰に気があるかとか。今の仕事の原型がそこにある気がする」

私はおかしくって、また笑いそうになるのをこらえた。

「私は逆です。目立ちたくないのに、なぜか委員長になってた」

「なぜか、じゃないだろ」

「なぜかです」

「凛が一番しっかりしてたから、みんながそうしたんだ」

答えようがなかった。その代わりに、珈琲を飲んだ。

窓の外のウィーンの石畳に、薄い日が差していた。



♪♪その⑥♪♪


「カフェKHM」うれしかった。

思わず、 いつか誰かとここで食事したいと言葉にしていた。

奏が照れるくらい正直な私でした……



「もぉ」





「映画は何が好きですか」川沿いを歩きながら聞いた。

「古いやつ。白黒の」

「意外です」

「そうか?」

「もっとアクション系かと」

「仕事でやってることを、わざわざ映画でも見たくない」奏は少し笑った。

「カサブランカとか、ローマの休日とか」

「……ローマの休日」

「知ってるだろ」

「知ってます。オードリー・ヘプバーンの」前を向いたまま言った。

「お姫様が、一日だけ普通の人間として街を歩く話」

「凛に似てると思って、好きになった」

私は足を止めた。奏も止まった。

「……私が、お姫様?」

「違う。偽名で街を歩く方」

それはひどいのか褒めているのか判断がつかず、しばらく奏を見た。奏は真顔だった。

でも目の奥が、少し笑っていた。

「……うるさいです」

「凛語でありがとう、か」

私はため息をついて、歩き始めた。奏がまた隣に並ぶ。今日は任務がない。追跡もない。

ただ二人で夕暮れのウィーンを歩いていた。日が落ちて、街灯が点いた。

川沿いのベンチに並んで腰を下ろしたとき、奏が腕を肩にまわしてきた。昨夜の手を繋ぐより、もう少し先の距離。

私は固まらずに、かすかに体を奏の方に傾けることができた。それだけで、奏の腕が少し強くなった。

肩に、奏の体温を感じる。コートの上からでも、確かな温もりがあった。

「奏」

「ん」

「中学のとき、好きな人はいましたか」

奏は少し考えた。

「いた。同じクラスの、陸上部の子」

「告白は」

「できなかった。観察で終わった」

「……今は」

私は自分でも、なぜそれを聞いたのかわからなかった。

奏が私の頭に、そっと頬を寄せた。額でも口でもなく、ただ頬が、髪に触れた。

「今は、観察じゃない」

静かな声で言ってくれた。

目を閉じた。奏の体温が、肩から首のあたりまで広がっていく。遠くで教会の鐘が鳴った。

本物の言葉と、本物の温度だけがある夜だった。




◇奏語り◇

佐伯凛について、整理しようとして、できていない。

最初に会ったのは本部のブリーフィングルームだった。

資料を広げて、すでに三つ先のことを考えているような目をしていた。

オレが挨拶すると「よろしくお願いします、遠野さん」と言って、すぐ資料に戻った。

オレのことはもう把握済みだという顔だった。少し悔しかった。

マラケシュの夜、ホテルのベランダで並んだとき、凛が「眠れますか」と聞いてきた。

任務前に聞くような言葉じゃない。でも凛は聞いてきた。オレが正直に答えると、自分も苦手だと言った。

そのとき初めて、この人も人間なんだと思った。そして、宝物を見つけたんだ。

凛は、目立ちたがらない。でも必ず中心になる。会議室でも、現場でも、気づけば全員が凛を向いている。

本人はそれに気づいていない振りをするが、たぶん気づいている。ただ、それを利用する気がないだけだ。

そこが、他のリーダーと決定的に違う。

それから、笑い方が好きだ。滅多に笑わないくせに、笑うとき少し不意打ちのように笑う。

今日もカフェで笑った。オレが補欠だったと言ったとき。その顔を、うまく言葉にできない。

◇/◇



◇凛語り◇

帰国の朝、空港へ向かうタクシーの中で、私は窓の外を見ていた。

ウィーンの街が、白い光の中に溶けていく。石畳、路面電車の線路、並木の枯れた枝。

それらが後ろへ流れていくのを、ぼんやりと目で追っていた。

隣で奏が、静かに目を閉じていた。眠っているのか、眠っていないのかわからない。

肩が私の肩に、ほんの少し触れていた。タクシーの振動のせいかもしれない。

でも私は、自分から離れなかった。バベルの塔のことを、まだ考えていた。

あの絵は、思っていたより小さかった。百十センチと百五十センチほど。美術館の大広間の壁に掛かっていても、

圧倒的な迫力があったのは、近づくたびに違う顔を見せるからだ。

遠くから見ると壮大な塔だが、近づくと、そこには無数の人間が描き込まれている。

石を積む人、命令する人、倒れた人、ただ空を見上げている人。

奏もそうかもしれない、と思った。

遠くから見ると読めない人間だが、近づくほどに、細部が現れる。補欠だったバスケ部の話。白黒映画。

観察することで誰かを好きになること。そして、今は観察じゃない。と言ったときの声。

奏に近づいて、見て、よかったと思った。互いに未来を発見していく。

◇/◇



◇奏語り◇

凛が眠っている。

離陸から三十分で落ちた。本人は「眠れない」と言っていたくせに。シートに深く沈んで、口を少し開けて、

肩が均一に上下している。リーダーの顔じゃない。ただの二十八歳の顔だ。そっちの方が、困る。

ニットの肩が、オレの腕に触れている。凛の身体は、見た目より柔らかい。いつも姿勢がいいから、もっと固い印象を持っていた。でも昨夜、川沿いのベンチで肩を抱いたとき、ニット越しに伝わってきたのは、温かくて、柔らかいものだった。胸の方に目がいった。もっとやわらかく温かな椀曲。違う。川を眺めながら視界に胸も留めておいた。

凛が委員長だったというのは、聞いた瞬間に「そうだろうな」と思った。あの人は、誰かが困っているのを放置できない。任務中も、エスケープルートを確認するとき、必ず全員分を想定してから動く。

自分のことは後でいい、という体が染みついている。

そこが、一番怖い。

凛が自分を後回しにするとき、オレは隣にいなければならない。絶対にいたい。オレが凛を守る。

だから補佐でいることに何の不満もない。

……これを観察と呼んでいいのか、もうよくわからない。

◇/◇



目が覚めたとき、機内は薄暗かった。

自分が眠っていたことに一瞬気づかず、次の瞬間に状況を把握して、少し身体を固くした。

奏の肩に、頭が乗っていた。

「……いつから」

「離陸してすぐ」

「起こせばよかったでしょう」

「起こしたくなかった」

あっさり言われて、返す言葉がなかった。頭を起こそうとすると、奏の腕に軽く包まれた。

引き止めるでもなく、ただ添えるように。

「もう少し、このままがいい」

逆らわなかった。ひどく甘えた気分で心地よかった。

奏の身体は、温かくて寄りかかる私をしっかりと受け止めた。水泳で鍛えた私の身体でも、肩を借りることがある。

それを、この人の前では認めてもいいと思った。機内の空気が乾いていて、毛布の端が膝から落ちかけていても。

外は雲の上で、機内と違ってどこまでも明るくても。私は気にも留めずに、だらしなく寄りかかった。

もう一度、目を閉じた。



◇奏語り◇

凛がまた眠った。今度は最初から、オレに身体を預けるようにして。

観察、と自分では呼んでいるが、これはもう観察じゃない。気づいたことを記録したいだけだ。忘れたくないから。

凛の髪は、任務中は必ずまとめている。でも今日の美術館では下ろしていた。肩のあたりで緩やかに波打っていて、

歩くたびに少し揺れた。ブリューゲルの前で立ち止まって絵を見上げたとき、首筋が見えた。細くて、長くて、

光の当たり方でうっすら透けそうなほど白かった。しばらく絵より凛を見ていた。

凛は気づいていなかった。たぶん。

今、凛の柔らかなふくらみが腕に触れている。のっている。重力に従って。

着陸まであと二時間、凛の大きな胸を支え続ける。純粋に凛も楽なはずだから。

次の任務でどこへ行くかはわからない。でもこの記録を読み返す日が来たら、きっと思う。

あのとき、ちゃんと隣にいられてよかった、と。

◇/◇



羽田に着いたのは夜だった。

到着ロビーを出て、タクシー乗り場へ向かう途中で奏が言った。

「今度、映画を見に行かないか」

「白黒のやつですか」

「凛が選んでいい」

「……私が選ぶと、難しいものになります」

「それでもいい」

私は少し考えて、答えた。

「だったら。」

「凛語でイエスだな」

「もうその言い方をやめてください」

「やめない」

奏が笑った。私も、もう隠さずに笑った。夜の到着ロビーの、人混みの中で。誰も見ていない。

でも、誰かに見られていても構わないと思った。

もう奏の瞳に映る私が大好きだった。


この人の隣にいることが、少しずつ、当たり前になっていく。

それを尊いとさえ感じる。




了


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