02Lisboa
登場人物
佐伯凛 28歳・上級エージェント/リーダー
遠野奏 27歳・上級エージェント /フィールド補佐
珈琲を奢ると言い出したのは奏のほうだったが、実際に店を選んだのは私だった。
いつもそうなのだ。奏は提案するが、決断は私に委ねる。
それがこの二人の、いつのまにか定まった形だった。
外苑前の、路地裏にある小さな喫茶店。窓際の席。私がブラック、奏がカフェオレ。
「……マラケシュ、整理できてるか?」
奏が先に口を開いた。私は指先でカップの縁をなぞりながら、少し考えてから答えた。
「データの受け渡しは確認しました。ブローカーの特定も八割方できている。残りは本部が追う」
「いや、任務のことじゃなくて」
顔を上げた。奏はカップを両手で持ったまま、窓の外を見ていた。
「……おまえが、走り出す前に一瞬止まっただろ。あの路地で」
覚えていたのか、と思った。あの行き止まりの路地で、足音が通り過ぎたあと。
一瞬、体が動かなかった。
それは恐怖ではなく、何か……別のものが、胸の中で詰まったせいだった。
「気のせいです」
「そうか」
奏はそれ以上追わなかった。ただ、カップをテーブルに置いて、私の方に少しだけ体を向けた。
「お疲れ、凛」
名前を呼ばれた。偽名でも、コードネームでもなく。
黙った。珈琲を一口飲んだ。濃かったが苦くなかった。妙に落ち着いた。
♪♪その②♪♪
「そうか」って……
「お疲れ、凛」って……
私、今日お誕生日なんだよ。奏。
「もぉ」
次の任務が下りてきたのは、二週間後のことだった。
場所はリスボン。ターゲットは東欧系の資金洗浄グループで、現地の金融機関を経由した不正取引の証拠を確保する。それが今回の骨子だった。私はチームのリーダーとして、奏は情報分析兼フィールドサポートとして同行することになった。
ブリーフィングルームで資料を広げながら、頭の中でルートを組み立てていた。三か所の拠点、四つの接触ポイント、二つの脱出経路。それらを同時に把握しながら判断を下す。それが私の仕事だった。
「エスケープBはリスクが高い」と奏が言った。「工事中の橋を渡ることになる。場合によっては・……
「知ってる。だから最終手段にした」資料を一枚めくった。「AがつぶれてBも使えない状況になったときは、Cを即時起動する。そのトリガーは私が判断する」
「わかった」
奏の返事は、いつも早い。異議を唱えるときはちゃんと唱えるが、決まったことには迷わず従う。
それが、フィールドで彼を信頼できる理由だった。
でも……と思う。
それだけじゃない気がしている、最近は。
リスボンは、雨の街だった。
石畳に雨粒が弾ける音。丘の上のトラムの軋み。海から吹き込む風。私は黒いコートのポケットに手を入れたまま、ターゲットがいるとされるカフェを遠目に確認した。
「店内に三名確認」と奏のインカム越しの声。
「うち一名がターゲット。右奥の席、グレーのジャケット」
「視認できた。入ります」
「了解。オレは外で待機する」少しの間があって、「無理はするな」
それはルーティンの言葉ではなかった。私にはわかった。奏がそういうことを言うとき、
報告書に書かれるような言葉ではなく、彼個人の言葉だ。
「します」と短く答えた。
「……ですよね」
インカムの向こうで、奏がかすかに笑った気がした。
接触は滞りなく終わった。しかし帰路が、またしても狂った。
雨の中、私は路面電車を二度乗り換え、最終的に旧市街の迷路のような路地へ誘導することで
尾行を撒いた。
奏は終始、少し後ろから私に合わせて動いた。私が立ち止まれば奏も止まる。私が走れば奏も走る。
安全地帯を確保したのは、夜の十時を過ぎたころだった。路地の奥、古い教会の軒下。
アーチ型の屋根を叩く雨音だけがして、ふたりはしばらく無言で息を整えた。
ずぶ濡れだった。コートも、髪も。奏が、ポケットからヨレたハンカチを取り出して私の頭にのせた。
「……使えるかわからんけど」
ハンカチは濡れたが、それでも少しだけ体温を感じた。奏の体温。
「奏」
「ん」
「あなたは……」ハンカチを頭にのせられたまま、少し言葉を探した。
「どうして補佐についているんですか。あなたの能力なら、リーダーになれるはずなのに」
奏は雨の路地を見たまま、少し考えるそぶりをした。
「リーダーに向いてる人間がいるなら、そいつの邪魔をする気はない」
「邪魔、ではないでしょう」
「そういう意味じゃなくて」奏が私を見つめた。
「オレは、誰かが前を走ってるとき、その後ろが好きなんだと思う。……特に、その誰かが凛のときは」
雨の音がしていた。言葉が見つからなかった。
奏の目は、マラケシュのときとも、東京の喫茶店のときとも少し違った。読めなくなかった。
むしろ、初めて、読めてしまいそうだった。
「……馬鹿なことを言っている場合じゃないです。撤退ルートを確認します」
私はそう言って、ハンカチをポケットにしまった。返さなかった。
♪♪その③♪♪
またやってしまった。
「凛語」
奏の温もりを返したくなかった。
ひとつ年上になった日に「奏」と呼び捨てにした。
お誕生日プレゼントね。
「もぉ」
ホテルに戻ってから、しばらくシャワーを浴びながら、鏡に映った私を見ていた。
頭で任務の整理をしようとすると、奏の声が邪魔をした。特に、と言ったときの声が。
私は優秀なリーダーだと自分自身を思っている。少なくとも、自分ではそう心がけている。
感情に流されない。判断を誤らない。チームを守る。それが自分の役割だ。
でも。
雨に濡れた路地で、ヨレたハンカチを頭にのせてくれる人がいつも隣りにいるとなると……
それがひどく難しくなる。
翌朝、チェックアウトの前に奏がドアをノックした。珈琲を二つ持って立っていた。
ブラックとカフェオレ。
「部屋に持ってきてもらった」
「……覚えてたんですか、私がブラックだって」
「当たり前だろ」
奏は特に何の感慨もなさそうに言って、カップを差し出した。私はそれを受け取りながら、
自分が笑ってしまっていることに気づいた。リーダーらしくない、間の抜けた笑い方だったと思う。
奏もつられて笑った。
小さく、静かに。でも確かに。
リスボンの朝は、雨が上がって、白い光が街に満ちていた。
[◇奏Photobook02◇]
ポルトガル。かつての雄。首都リスボン。外国からバカンスで訪れる場所。
日本にキリスト教と鉄砲を持ち込んで追い出された国。
しかし、向かう先はアルファマ地区。皮肉にもイスラム支配時の石畳の迷路。
雨に濡れ、ずぶ濡れになって。
路地の奥にある古い教会?の軒先で雨宿りだ。
不思議な感覚。
どおやら尾行はまけたようだ。
凛は隣で毅然としているが、髪までずぶ濡れだ。束になった先端から水滴が落ちる。
お互いコートを着ているので心配する必要はないのだが、
凛に何かをしてやりたい。ハンカチを髪にのせた。ほんの少しだけ拭ってそのまま。
オレのヨレたハンカチを頭にのせられたまま、凛が固まってオレを見つめた。
「奏」とオレの名を言った。
翌日は雨も止み、真っ青な青空で、雨に濡れた赤茶の屋根屋根が陽の光で輝いている。
任務も無事に終了した。
オレは、ルームサービスを頼み、凛に珈琲を渡した。
出発前に、凛が選んだ喫茶店でマンデリン深煎りを頼んでいた。
「濃いだろ。」って覚えていて自分でも少し驚いた。
凛が笑った。陽の光が差し込み輝いて……そばかす笑顔。可愛かった。
文化の日。
県民文化センターでの統計グラフコンクールの表彰式に招かれた。
オレは小学5年生で優勝した。
統計グラフがプロジェクターに映し出される。
タイトルは「ティッピング・ポイント」
「落ち着け。落ち着け。」喜びも笑顔も忘れた。
最前列で他の学校の子が拍手してくれて、不思議と落ち着いた。
昔、NYの地下鉄は治安が悪くて事件が多発していた。
新任の駅長が赴任してきて、はじめにおこなったことが「落書き」を全て消すことだった。
消しても消しても落書きは無くならない。駅員達は、あきらめかけていた。
永遠に落書きは無くならない。しかし、駅長は週末前のルーティンとして落書きを消す指示を続ける。
経過として、なぜか犯罪件数が少しづつ減ってきていた。
2か月が過ぎた頃、突如として落書きが無くなった。ゼロになった。
ゼロになった落書きは、もう増えることはなかった。その結果、犯罪件数は劇的に減った。
そして、夏休み中に拾い集めた公園の空き缶やペットボトルのゴミで検証した。
どのように減っていったのか、いつを境に減り始めたのか。
その ティッピング・ポイントに重点を置いた。
「結果として鈴虫は増えるだろうか?楽しみです。」
大きな拍手に包まれた。
[◇/◇]
了




