01Marrakech
「砂漠の星、偽りの名で」というタイトルは、響きが気に入ってるから。
偽りの名っていっても、やましい関係ではないんだ。
少しだけ、外国の文化に触れながら、人の心が成長していく。
そういう描写の積み重ねを紡ぎたい。
ヒーローになって、一度に美味しいところを持ってくのではなく、
じわじわと、人として成長を重ねていけたら……いいですね。
登場人物
佐伯凛 27歳・上級エージェント/リーダー
遠野奏 27歳・上級エージェント /フィールド補佐
モロッコの夜は、思ったよりも冷たかった。
上級エージェントとしての初任務から三年が経った今も、佐伯凛はこの感覚に慣れることができない。
日中の灼熱が嘘のように引いていく砂漠の空気。街角に漂うクミンとバラ水の混じった匂い。
砂漠の外れ、オアシスの端に、白い布の日除けが張られていて、風がいたずらに揺らす。
生き物のように白い布が揺れて、隙間から星が瞬いていた。
マラケシュという都市は、人を別の誰かに変えてしまう不思議な力を持っているという。
私は石畳の路地を歩きながら、右耳のインカムを人差し指で軽く押さえた。
「グリーン、現在地は?」
声が返ってくるまで、三秒かかった。
「スークの北端。予定より六分遅れている」
飄々としててハスキーな声。この人は、優秀さを隠す。私はかすかに唇を引き結んだ。
コードネーム「グリーン」。本名、遠野奏。内閣官房調査室の上級エージェントでフィールド補佐として、今回の任務では私のパートナーを務める男だ。二十七歳。外務省から出向という経歴を持つ。
経歴とは全く異なる優しい目と、徹底的に他人を寄せつけない厳しい目をもっている。
私はすでに、その目に少しだけ興味を感じていた。
佐伯凛 現在二十七歳。
小学校六年生の私。通知表より
穏やかだが負けん気が強く背も高いほうでクラスのリーダー的存在。
友人たちの前では穏やかだが、見えないところでは常に努力を続ける。
(生まれながらにしてストイックな性分)
任務の名称は「オペレーション・サファイア」。
欧州の軍事企業から流出した暗号化データを追い、その売買取引の現場を押さえる。要約すれば、
それだけのことだ。しかし実際には、ターゲットは国際的なブローカーネットワークと繋がっており、
マラケシュ市内の高級ホテルを拠点にしている。私と遠野は「富裕層の日本人夫婦」という偽の身分証を与えられ、ホテルの客として潜入することになっていた。
夫婦。私はその言葉を反芻するたびに、妙な居心地悪さを感じた。
ホテルのロビーで合流したとき、遠野は濃紺のスーツを着ていて、
私のことを「理沙」と偽名?不自然に呼んだ。
それが演技だとしても、「理沙」と、ぎこちなく呼ばれた瞬間、どこかがざわりとした。
偽名ではなく、本名で呼ぶのが二人の間のルールだったのに。
「食事の前に部屋を確認したい。荷物は?」
「先にフロントに預けてあります」
「……奏さん」と私は答えた。
遠野は片眉をわずかに持ち上げただけだった。
♪♪その①♪♪
「理沙」って何?
「凛」って呼べないの?
それとも……
意識してるの私だけですか?
「もぉ」
スイートルームの窓からは、アトラス山脈の稜線が見えた。
私がスーツケースの中の盗聴器探知機を取り出して部屋を一巡りしている間、遠野はベランダに出て煙草を吸っていた。ルールに背いた行為だったが、あえて注意しなかった。
あの人には、何かを言いたくなくなる雰囲気がある。
部屋のチェックを終えて、私もベランダへ出た。並んで夜の街を見下ろす格好になる。
「明日のパーティーまで、約十八時間あります」
「知っている」
「……眠れますか?」
聞くつもりのなかった言葉が口をついた。遠野は煙草を指先でくるりと回して、灰皿に押しつけた。
「おまえは?」
聞き返されるとは思っていなかった。正直に答えた。
「あまり得意ではないです、こういう前日は」
遠野がかすかに笑った。たぶん。少なくとも、私にはそう見えた。
夜の光の加減か?目尻がやわらかくなった気がした。
「オレも同じ。最初の任務のときからずっと」
それは意外な告白だった。私は何も言えずに、ただ夜風の中に立っていた。
マラケシュの空は、東京では見たことのない数の星がちりばめられていた。
翌夜のパーティーは、完璧に機能した。
ターゲットの接触、データの受け渡しの瞬間の撮影、エスケープルートの確認。
遠野は夫として完璧に振る舞い、私も妻として完璧に応じた。ダンスさえ踊った。
遠野の手が腰に触れたとき、私の心拍数が上がったことに気づいた。
それを気づかれたかどうかは、わからない。
しかし、帰路に問題が起きた。
ターゲットの部下に尾行されていることを察知し、二人は予定のルートを外れた。路地から路地へ、
ふたりだけで暗い迷路を走った。角を曲がったとき、行き止まりだった。
遠野が背後から追いついてきて、私の肩を壁に押しつけるように二人で身を潜めた。
足音が近づき、通り過ぎた。
しばらく動けなかった。遠野の肩がすぐそこにある。吐く息が白くなるほど冷えた夜気の中で、
彼の体温だけが妙に近かった。
「……行けます」と言った。声が、かすかに震えた。
「わかった」
でも遠野は、すぐには動かなかった。一瞬だけ、目が合った。彼の目を読めなくて……
それでも私は、何かが変わったと感じた。
[◇奏Photobook01◇]
モロッコ。北大西洋端にありポルトガル、スペインと目と鼻の先。
ヨーロッパに近いアフリカ。
歴史的には侵略と内戦を繰り返しても王政を貫くイスラム国家。
アラブの冒険家イブン・バラトゥータVS黒人奴隷を連れ帰ったエンリケ王子が
オレの相対的な歴史観だ。
世界文化遺産、迷宮都市フェズやマラケシュ等があり日本との共通項がいくつかある。
鎖国をしている。ポルトガル(スペイン)、イギリス(アメリカ)、フランス、ドイツ。
そして、奇しくも同じ時期に開国している。
文化は全く違うが、日本列島がすぐそばに存在したならば同じ運命を辿っていたかもしれない。
日沈む国と日出る国。遠くにあって思いを近くする国。
ベルベル語で「神の国」マラケシュ。さらに「凛と夫婦」
任務前日の夜、スィートルームのベランダでオレは煙草を吸いながらこんな思いを巡らせていたんだ。
「……眠れますか?」
ふっと我に返った。「おまえは?」
ロビーで「凛。」と呼べなかった自分が忌々しくて荒い言い方になってしまった。
ふたり並んで夜のマラケシュ市街地と夜空を埋め尽くす星々を眺めた。
アトラス山脈の稜線とサハラ砂漠。
日本列島の本州の長さだ。
「あまり得意じゃないです。こういう前日は。」
横顔がすぐそばにあった。キャンディス・バーゲンのような知性的な横顔。
特別な大切なものを見つけた。
そばかす……
うれしかった。宝物を見つけたかのようで、本当にうれしかった。
「凛。」
任務撤収中にトラブルが発生した。尾行に気づいた。
オレたちは、赤いレンガの城壁迷路を各々歩き続けた。
先程、凛とダンスを踊った。イングリッド・バーグマンのように情熱的だった。
ダンスで触れた腰と手の感触を思い出していた。
思っていたより体温が高かった。
途中の路地で凛の背中が見えて、オレは全力で走った。
肩を寄せて城壁に押し付けるように身を潜めた。
冷えた夜気の中で凛の体温が伝わった。白い吐息がかかった。
「凛。」
◇/◇
任務完了の報告書を提出してから三日後、私は東京の事務所の廊下で遠野と行き合った。
互いに少し立ち止まった。
「お疲れさまでした」
「お、おつかれ」
それだけのやりとり。でも遠野は通り過ぎながら、ひとこと付け加えた。
「こ、珈琲、奢る。時間あるか」
私は一瞬だけ、マラケシュの星空を思い出した。
「……あります」
と、答えた。
それが、始まりだった。
了




