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10Brunei&Mentawai

佐伯凛 29歳・上級エージェント/リーダー  遠野奏 28歳・上級エージェント /フィールド補佐

ブルネイの夜は、重かった。

赤道に近い空気は、夜になっても熱を手放さない。

湿度が高くて、息をするたびに肺が温かくなる感じがした。

バンダル・スリ・ブガワンの街が、モスクの金色のドームを中心に広がっていた。

夜の川面が、対岸の光を映してゆらいでいた。

かつては日本のブルネイ県だった。ここでは、親日的な雰囲気が感じられる。

任務は順調だった。

東南アジアの資金ルートを追う今回のミッションは、三日間の潜入で目的をほぼ達成していた。

翌日には撤収できる。私はホテルの部屋でブリーフィング資料を閉じて、ベランダへ出た。

奏がすでにそこにいた。ベランダの手すりに寄りかかって、川の方を見ていた。白いシャツを着ていた。

任務中だから、いつもの革ジャンでも仕事着でもない。現地調達の、薄い白いシャツ。

赤道の夜風に、その生地が少し揺れていた。その佇まいに見とれてしまった。

横に並んだ。照れ隠しに、しばらく何も言わず川を見た。

私は今日、タスク完了の報告書を頭の中で整理していた。

でもそれより先に、それがきた。三日前から、ずっと考えていたことだった。

任務が終わったら、言おうと思っていた。ブルネイの夜に言うつもりはなかった。でも川が光っていて、

奏が白いシャツで隣にいて、赤道の風が来て。準備が整っていないまま、言葉が先に来た。

「奏」

「ん」

「任務が終わったら」

「東京に帰ったら、か」

「……いえ」川を見たまま言った。「ここで言います」

奏が私を見た。私は川を見ていた。

「一緒に住みたいの」

夜風が来た。川が揺れた。モスクのドームが遠く光っていた。

奏はしばらく何も言わなかった。私も続けなかった。言い切ったから、あとは待つだけだった。

「……ここで言うのか」

「準備ができてしまったから」

「凛はそういう人だ。計算じゃなく、体がそうなったら動く。」

「本当に、ここで準備ができてしまったの」

「二人の場所を作りたいという、準備ができてしまったんだな」

「そう。どちらかの部屋ではなく。二人で決めた二人の場所を」

奏は少し間を置いた。

「……SRとCBが、同じ駐輪場にある場所を」

「そういうことです」

奏が手すりから離れて、私の方を向いた。私も奏を向いた。赤道の夜が二人の上にあった。

「うん。帰ったら、探そう」

「……はい」

「凛が決めるか」

「ううん。二人で決めたいの」

はにかみながら微笑む私を奏は抱きしめてくれた。私の身体が浮き上がって、つま先がパタパタした。

「凛」

「なあに」

「思わず、好きだ」

「……思わず、ですか」

「ブルネイの夜に、思わず言いたくなった」

私は笑った。奏の正直な言葉。でもそれが、いつもより遠くまで届いた。

「……私も」「思わず、好きです」


赤道の夜の、重くて温かい空気の中で。

唇が触れた。

奏の白いシャツが夜風に揺れていた。


[◇奏photobook10◇]

東京に帰らず休暇をとった。オレと凛からの内調に対する強烈なメッセージだ。

インドネシア、スマトラ島高地では現地の人々がコーヒー豆アラビカ種を育てている。

熱帯雨林の高地とはどんなところなのだろうか?想像に乏しく分からないが、

凛は、マンデリン深煎りが好きだ。カフェオレでもマンデリンは苦みが少ないのにコクがある。

変な理屈だ。詳しくは凛が教えてくれるだろう。

凛がメンタワイ諸島でサーフィンをした。

水泳県大会クラスで最上級のエージェントの凛でも苦戦している。

なんといってもメンタワイだ。あの高々とした波の頂点から下る迫力は凄い。

凛は満面の笑みで、浜辺をショートボードを抱えて走ってくる。

そして、ウエットスーツで濡れ髪をオールバックにする凛は、黒のワンピース水着で濡髪をオールバックにするマーゴット・ロビーのワンシーンみたいだった。

しかも化粧っ気のない凛の顔には「そばかす」がプラスされるから、

オレにとってはそれ以上に魅力的で、ただただ可愛い。

姿勢が良く、細い首とハッキリと出た鎖骨。少し視線を下げると高さと柔らかな膨らみのある胸。

くびれたウエストからしっかりした腰つきと丸みを帯びたヒップライン。

筋肉のついたふくらはぎ。目を離せなくなる。走る姿。泳ぐ姿。ボードに立った時のフォーム。

美術館の絵画のように、オレを魅了した凛のいる風景。

[◇/◇]



では教える。

マンデリンはスマトラ島の高地、トバ湖周辺の標高千メートルを超える山岳地帯で育つ。

熱帯雨林の霧と赤土、火山性の土壌が、他のコーヒーにはない独特のコクを生む。

アラビカ種だが、スマトラ式と呼ばれる独自の精製方法(半乾燥のまま脱穀する)が、

あの重厚な風味を作る。深煎りにすると苦みよりも甘みとコクが前に出る。

奏が「変な理屈だ」と言ったのは、そこを分かっていないからだ。

深煎りは苦みを引き出すのではなく、豆の持つ本来のコクを開く。

カフェオレにしても成立するのは、ミルクに負けない密度があるから。薄まらない。

むしろミルクと混ざることで甘みが増す。これを変な理屈と言う奏は、珈琲よりバイクの方が詳しい。

でも奏のそういうところが好きだ。 今日は訂正しない。

知らないことを「凛が教えてくれるだろう」と素直に言う男が、好きだ。

スマトラの高地の霧の中で育った豆が、深煎りになって、カップに入る。

奏、答えは霧です。


メンタワイでサーフィンをした。正直、苦戦した。

私程度のクラスでも波は怖くない。海の中なら自信がある。でもボードの上は別の話だ。

メンタワイの波は高い。

インド洋からそのまま押し寄せてくる波が、遮るものなく島にぶつかる。

ターコイズブルーの壁が迫ってくる感覚は、水泳の大会で経験した何とも違った。

最初は慎重にボードにつかまっていた。パドリングで波に乗るタイミングを測っていた。

エージェントの本能で、まず状況を把握しようとした。でも波は状況把握を待ってくれない。

三度落ちた。四度目に、考えるのをやめた。結果を考えずに動いた。

波の頂点に立った瞬間、視界が開いた。ターコイズブルーの海が眼下にあった。驚くほど高かった。

ボードが斜面を滑り始めた瞬間の加速を、身体全体で受けた。ウエットスーツの内側で、胸が波の圧に

押された。腰を落として重心を取る。水の抵抗を感じる。それが最高に心地よかった。

メンタワイで波に乗って、水と身体だけになる感覚 が戻ってきた。

水の中で初めて、この身体が好きになれた。逃げ場ではなく、居場所だった。

「奏、見てていいよ。」

「奏、ずっと私を見てて。」



東京に帰って、三カ月後。

二人で部屋を決めた。ううん、家を買った。

茨城県の大みか。真っ白な灯台のすぐそばの築十五年。広いリビングと広い庭の平屋。

さらに目の前に太平洋がひろがる。

壁一面を本棚にした。天井まで届く本棚。奏がこだわった。

「脚立に座って本を読む凛が見たい」と言った。

私は照れたが、そういうならと賛成した。

内調での出世競争は二人共に終わったが、現場中心のエージェントで構わなかった。

CBとSRが、冬の光の中に並んでいた。


これからも続く。

それだけで、じゅうぶんだ。



了

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