↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/24

11Omika

遠野凛 29歳・上級エージェント/リーダー  遠野奏 28歳・上級エージェント /フィールド補佐

「なあ、凛。統計グラフって覚えてるか?夏休みの宿題。」


私はグラスを持ったまま、少し動きを止めた。

「……覚えてます。コンクールがあって文化の日に表彰式。県民文化センター。」

「思い出があるの」


サティの音が部屋に溶けていた。

「え?統計グラフコンクールの話したっけ?オレ、ステージでプレゼンしたんだよ。」

「……えっ?」

「小学校5年生の時。」

「……えっ?偶然かな」

灯台の光が窓を横切った。

「6年生の時、私は入賞止まりで、優勝したのが5年生の男の子だったの」

「……えっ?」

「ティッピング・ポイント、という言葉を初めて聞いた日。もう鳥肌が立ったの」

グラスをテーブルに置いた。両腕を手で擦って鳥肌を拭い、奏の顔を、まっすぐ見た。

「え?凛が?え?……それっオレのことか?」

動揺した。人がよく言う、何が何だかわからないってコレか?と思った。

「これから凛に、ニューヨークの地下鉄の落書きの話を聞かせるとこなんだけど……」


私の手が、グラスに戻れなかった。固まった。(奏、私のことをそこまで読めるの?)

「……えっ?」

声が出なかった。奏の顔を見た。いつもの静かな顔だった。ニヤけてもいない。

自慢している顔でもない。

「ティッピング・ポイント……あのプレゼンをしたのが」

「奏だったとでもいうの?」ただ、事実を言っている顔だった。

奏をじーっと見た。確か、背が低くておとなしそうな男の子。喜ぶ素振りも笑顔も見せなかった。

淡々とニューヨークの地下鉄の話をしてから、公園のゴミの推移を語った。

鳥肌が立った。神秘的だと思った。

「帰り際に男の子に……声をかけました。覚えてますか?」


オレは、まず頭の中を整理しようとした。が、全くできなかった。

「凛?」

「うん。したよ。」

「ニューヨークの地下鉄の話をした。多くの人に声かけられたよ。」

頭ではない。心だ。心の奥底。


「多くの人に、声をかけられた……」

私は、目を細めて繰り返した。少し、間ができた。


「……」


今度は奏が固まった。(どおしたの?余裕がないの?奏なのに?)

「私は『おめでとう。凄いね』と言ったの。男の子は『ありがとう』とだけ答えた。」

「それだけでした。」

グラスを持った。一口飲んだ。飲んでから、また奏をじーっと見た。


「覚えていませんか?」静かに囁いた。


「わすれちゃった?」目で、答えを待った。



サティが一小節、流れた。オレは……心が揺れた。目に涙が溜まった。

「ああ、それは……『おめでとう。凄いね』 その言葉は……」


「……覚えているんじゃない。忘れられない。忘れたことなんてない」

奏は客観的な事実とは違う場所に置いてある「心の支えの風景」を思い出していた。


「背の高い女の子……そばかす」



「……凛?」



「はい。……わたし。その人が、わたしだよ。私は、神秘的な子と思ったの。奏なの?」

「鳥肌が立った。……可愛いなとも、思ったの。奏なんだね」

少し慌てて、視線を外した。(だって奏、涙溜めてる)


「結果として鈴虫は増えるだろうか?楽しみです。」



「!。」ガタッと椅子が弾む音がした。



「……凛。凛。」だんだんと感情が湧き上がってくる。

「オレが小学校5年生の時、凛は6年生で、背の高い女の子で、そばかすがあって」

「当時、オレの周りにはいないオーラを纏った素敵な女の子。その子が、凛ってことなんだよね。」

凛の視線が、戻ってきた。


外していた目を、ゆっくりと奏に戻した。

頬が、少し赤くなった。そばかすが、赤さの中にあった。

「……はい」

「背が高くて、そばかすがあって、悔しくて、でも拍手していた女の子」

グラスをテーブルに置いた。今度は静かに置いた。

「男の子が『ありがとう』と言った瞬間の顔を——今でも覚えています。喜ぶ素振りもなくて、

笑顔もなくて、ただ落ち着いていた。怖いというより、神秘的でした」

「そして……凄く可愛かった。」

「11月3日」奏が少し動いた。


サティが静かに流れていた。

凛が日付を言った。

「凛が、鳥肌が立った。オレのことを?」

「神秘的?オレのことを悔しがった?凛が?」

「鈴虫まで覚えている?ちょっとまだ信じられない。」


「背の高い女の子が凛ってことだよね?ごめん。何度も」


凛が、少し笑った。それを見て、オレの目から涙がこぼれた。

声ではなく。口の端が、かすかに上がり、「そばかす」が動いた。


グラスを両手で包んだ。(だって奏、いま涙がひとすじこぼれたよ)

「……そうです」

「忘れられなかったの。奏と同じように」

「信じられないのは、私も同じ」

「五年生の男の子が、隣にいるなんて、今まで思いもしなかった」

奏の目を見た。まっすぐに。

「そう、背の高い女の子が凛」

「そばかすも、悔しかったのも、鳥肌が立ったのも、全部、私」

一度、息をついた。「ふーっ」と深呼吸した。私も溜まっていた涙がこぼれた。

「奏はニューヨークの地下鉄の話をしたかったと言いました」

「私はあの日にその話を聞かされていて……自分より一つ年下の、自分より背が低い男の子に、

完全に負けたと思いました」

「でも……負けてよかったと今は思う。そのくらい影響を受けたの」

「あの話を聞かされていなかったら、ここにいなかったかもしれないとも思える」


灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

凛が、動かなかった。

いつも可愛い「そばかす」が目の前でフラッシュバックした。


「憧れていたんだ。ずっとずっと。本当にずっと。」


ニットの大きな胸の膨らみを眺めて……囁いた。

「ステージで緊張した。ドキドキだった。」

「最前列で素敵な女の子がオレに拍手してくれていたんだ。」

「おかげで何とか心落ち着かせることができた。」

「おかげで拍手喝采だった。」

「凛だったんだな。」

「声をかけてくれた。『おめでとう。凄いね。』って」

「そばかす笑顔で可愛くて。凛だったんだな。」


グラスを置いた。両手をテーブルの上に置いた。

奏の声が、いつもと違った。観察の声ではなかった。記録の声でもなかった。

奏を見た。感情が湧き上がっている奏の顔を、真正面から見た。

こんな顔を見たのは、初めてかもしれなかった。


「そのそばかすの女の子が……」

「ここにいるよ」


「憧れたあの娘が……凛……」

「ここにいる凛が……あの娘……」


サティが終わった。次の曲が始まる前の、一瞬の静寂があった。

「奏が『凛。凛。』と呼んでくれた声……」

視線を外さなかった。

「マラケシュで初めて名前を呼ばれた時より……」

そこで止まった。凛語だった。

「やさしいんだから、困ります。」


一瞬の静寂。真実。


「ふぅー」と大きく息を吐いた。もう分かった。分かったんだ。

「……えっと、先ずこの前の日記を訂正させてほしいんだ」

「はじまりだったんだな」凛だったんだ。

奏の言葉が、静かに部屋に落ちた。

凛が、息を飲んだ。


私は繰り返した。声にならないくらい、小さく。

「はじまり、だったんだな」

テーブルの上の両手が、かすかに動いた。奏の手に、届くかどうかの距離で、止まった。

「11月3日が、はじまりだった」

「奏」

「日記の訂正って?聞かせて?」


そっか。凛だったんだ。

「三人目じゃなくて……最初なんだよ」


「陸上部の娘に好意を抱く前に、ケーキ屋の娘に好意を抱く前に……」

「オレは凛と会っていて、ずっと恋を抱いていたんだ。心打ちぬかれてたってことなんだ」

初めて言葉にした。初恋。

「さっきまで自分でも「恋心」だと気付いてなかった。本当に憧れていたんだ」


「『そばかす』が素敵に思えたきっかけが、凛そのもの……なんだ」



奏の手に触れた。

「……奏」

声が、少し震えた。震えたことに、自分で気づいた。隠さなかった。

「三人目じゃなくて、最初」

繰り返した。ゆっくり、確かめるように。

「そばかすが好きになったきっかけが……私だったの?」

奏の手の上に、自分の手を重ねたまま、奏を見た。

今までマラケシュから数えていた。でも違った。

奏の観察日記の最初のページに、名前も知らない自分がいた。

そばかすのある、背の高い、悔しがりながら拍手していた女の子が。

「私は……」

一度、目を閉じた。開けた。

「ずっと三人目だと思っていました。気にはしていなかった」

「でも最初だったなら……」

凛語が、今夜は出てこなかった。訂正する必要が、なかった。

「うれしい。」

「奏が小学五年生の時から、私は、奏の風景の中にいたんですね」


灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

「いた。」

「あの時の最高のご褒美だった。その後もずっといたんだ」



「オレはこのレールの上を走っていけば、またこんな素敵な人に褒めてもらえる」

「そう思って生きてきたからね。本当にずっと」


目から、涙が流れ出た。

拭かなかった。

「……奏」

声にならなかった。もう一度、声にした。

「奏」

奏の手を、両手で包んだ。

「褒めてもらえると思って、生きてきた」

繰り返した。繰り返しながら、男の子を思った。喜ぶ素振りも笑顔も見せなかった、

背の低いおとなしそうな男の子。あの子が、そのレールの上を走り続けた。

陸上部の少女も、ケーキ屋の女性も、数学の天才も、内調への引き抜きも、マラケシュも、リスボンも、ウィーンも、プラハも、ブダペストも……全部……あの日のレールの続きだったというのか。

「私が褒めたから……」

息を飲んだ。

「奏は、ここまで来てくれたの?」

答えはいらない。

「あ・り・が・と・う」涙がどんどん溢れた。止まらない。

「おめでとう」と言った小学六年の私に、今夜初めて、意味が生まれた気がした。

奏の手を包んだまま、灯台の光を数えた。一回。二回。三回。


「泣きながら笑うの初めてです。」



凛が、泣きながら笑った。そばかすが、涙の中にあった。

オレも涙が溢れた。こぼれた涙を拭った。

「そうだよ。あの時、凛が褒めてくれたから数学では誰にも負けなかったし、

ティッピングポイントを忘れずに物差しにしてきた。ホークアイもここから生まれている。

オレがオレの地図が描けるのは凛のおかげだ。」

凛が、声を上げて泣いた。



こらえきれなかった。エージェントの凛ではなく、

文化の日に鳥肌を立てた小学六年生の凛が声を上げて泣かせた。

「奏……」

もう手を離さなかった。

「私は……あの日、ただ声をかけただけだったのに」

嗚咽をこらえながら言った。

「悔しくて、でも凄いと思って、それだけで……ただ声をかけた。それだけだったのに」

涙が頬を伝った。そばかすの上を、涙が通った。でも、私の目は奏を見つめたまま動けなかった。

「数学で誰にも負けなかったのも、ティッピング・ポイントを物差しにしてきたのも、

ホークアイも、地図も。全部、あの一言から、だったの?」

奏が頷くのを待たずに、続けた。

「私は……奏に褒めてもらったことなど、一度もないのに」

笑おうとした。笑えなかった。

「奏が描いた地図の、最初の一点が……私だったなんて」

「奏。私も……」

止まった。凛語が来た。いまは訂正しない。

「私も、あの日から、ずっと奏を探していたのかもしれない」

手で拳銃をつくり、奏の胸に向ける。


「結果として鈴虫は増えるだろうか?楽しみです。Ban!」


灯台の光が来た。

凛の手の拳銃を握り返した。

もう一方の手で胸を抑えながら。

「そう?」

また撃ち抜かれた。オレの心臓は、いったい何発くらったんだろう。

自分が愛されていることが恥ずかしくて、照れながら茶化した。

「オレが可愛かったから探してたのかぁ」

凛が、笑った。声に出して、笑った。涙が残ったまま、笑った。

そばかすが、涙と笑顔の中に全部あった。


凛は笑いながら、言った。

「……そうです」

「可愛かったから、探してたの」

握り返された手の拳銃をそのままに。

「神秘的で、可愛くて、背が低くて、おとなしそうで、笑顔も見せなくて……

それなのに鳥肌が立った。あんな経験は、後にも先にもあの日だけ」

奏の照れた顔を、まっすぐ見た。

「茶化さないでください」

「茶化したら、怒ります」

怒っていなかった。全然、怒っていなかった。

もう片方の手を添えて、少し力を込めた。

「凄く可愛いのは……今も、変わらないの」


灯台の光が来た。

自分が愛されていることが恥ずかしい。でも、凄くうれしい。

「可愛いと言われて嬉しいのは初めてだよ」

「なんか報われた気がするな。改めてありがとう。凛」

「それにいつも褒めてるよ」

「いや、褒めてるというより憧れと尊敬を抱いている」

「そばかす笑顔が素敵過ぎて愛しくてしょうがないんだよ」

「凛、大好きです」


奏の言葉が、部屋に静かに落ちた。一つひとつが、落ちた。

「大好きです」

「報われた気がする」

「憧れと尊敬」

「そばかす笑顔が素敵過ぎて愛しくてしょうがない」

私は何も言わなかった。言葉を探さなかった。凛語も出てこなかった。訂正する必要もなかった。

ただ、奏の手を握ったまま、奏を見つめていた。奏を見つめることしかできなかった。

涙が、また来た。今度は静かな涙だった。


長い沈黙があった。

灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

サティが、また流れ始めていた。

「奏」

「あの時の小学六年の私に教えてあげたい」

一度、息を吐いた。深く吸った。

「何年後かに、完全に負けた五年生に。その男の子に大好きって言ってもらえるよ」

奏の手を、両手で包み直した。

「報われたのは、私も同じです」


「大好きです、奏」


沁みた。ただただ沁みた。

沈黙してても凛は「ん?ん?」ってオレを見つめて……この愛しさをあらわしようがない。

「ありがとう。言葉がみつからないね。」

「あの頃のチビのオレに言うとしたら、お前はそのまま成長しろよ。あと何年かしたら……」


私は、無理に顔をつくって奏に微笑みかけた。

そして、涙が残ったままだったけど、そばかすをクシュっとさせた。

「ん?あと何年かしたら?」

静かに、続きを待った。

奏の言葉の先を、聞きたいけど、続きがなくても十分だった。

灯台の光が来た。

サティが流れていた。

握った手を、離さなかった。



「毎日がご褒美だぞ。」

凛が、声を上げて泣いた。



今夜二度目だった。さっきとは違う泣き方だった。

「……か・だ・でぇ」

しばらく、何も言えなかった。

奏の手を握ったまま、俯いた。肩が震えた。そばかすの頬に、涙が落ちた。

やっと、顔を上げた。

「チビの奏に私からも言いたいの」

息を整えた。声がかすれた。

「背が低くても、笑顔を見せなくても、ただ落ち着いていなさい。あと何年かしたら」

一度、止めて、咳払いを一度した。


「毎日褒めてあげる女の子が、隣にいるから」


奏を見た。真っ直ぐに。

「私も毎日が……」

灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

二人の手が、テーブルの上で重なったまま、動かなかった。

凛語がきたけど、訂正はなし。


「毎日が、ご褒美です。奏の隣が」



凛が珈琲をいれた。ソファーに移り、ひと息ついた。

「凛、もうひとつ聞いていいか?」

オレのホークアイが反応している。ティッピングポイントは他にもある。

「凛、水泳で県大会止まりって言ってたよな。国体には出場していない。」

「オレ、高校二年の時、背の高いそばかすの女の子を見たんだよ。プールで。」

凛のカップを持つ手が、急に止まった。

「凛とそばかすの女の子を重ねていくと違和感があるんだ」

「たぶん、その女の子は国体に出たはずなんだよ」

凛の表情が、変わった。笑顔でもなく、驚きでもなく。


「もしかして……辞退したのか?」


「なぜ? 奏、本当に本当にあなたって人は……」


奏を見た。ホークアイが反応している顔だった。データを照合している顔だった。

「……プールで」繰り返した。静かに。

「高校二年の時、背の高いそばかすの女の子」

カップをゆっくりテーブルに置いた。

「総合運動公園ですか」

声が、少し変わってしまった。

奏のホークアイは、正確だった。カップを両手で包んだ。

「……よく気づきましたね。いや、本当に奏は……」

「辞退しました」声が曇った。

「県予選。女子二百メートル自由形。」


奏の目を見ながら、深呼吸した。

説明が必要だとわかっていた。でも少し勇気が必要だった。

「県予選を一位で通過しました。タイムも全国水準。国体の推薦が来ました」

一度、息をついた。「ふーっ」とまた深呼吸した。

灯台の光が来た。


「でもその頃、身体のことで、悩んでいた時期だったの」静かに言った。


「水着が、嫌だったの。競泳用の水着は、身体の輪郭を隠してくれない。

県予選までは、結果で黙らせられると思っていた。でも国体は別の舞台。

もっと大きな視線がある。もっと多くのカメラがある」

「速く泳ぐことと、見られることが……あの時の私には、一緒に抱えられなかったの」

少し、俯いた。

「水の中だけが自由だったのに、水から上がった瞬間が……怖かったの」

「松葉杖をついた男子が、プールサイドに来たのを……覚えていて」

「まさか」呟いた。

「奏なの?」


「うん。オレだわ。」


「やっぱり凛だったのか……黒のSpeed水着だよな。忘れられない。」

「凄いオーラがあった。プールから上がってきて荒い息づかいが聞こえて……」

「一瞬で、背の高いそばかすの女の子を思い出したんだから」

「でも、それが原因で……そっか辞退したのか……」

「会場に身を乗り出して応援していた松葉杖の男。それがオレだったんだ。」

「だけど、身体の輪郭か……そこは覚えてないわ。」

「水しぶきをあまり立てないフォームに見とれてたよ。」


「えっ」私は、顔を上げた。

「身体の輪郭は、覚えていない」奏の言葉を、ゆっくり繰り返した。

「水しぶきをあまり立てないフォームに、見とれてた」もう一度、繰り返した。

カップを置いた。奏を見つめた。また目が少し潤んできた。

「……知りたくなかったかもしれない」声が曇った。また深呼吸した。


「それは、あの頃の私が、一番聞きたかった言葉。」


息をついた。

「国体を辞退した夜……泳ぐことをやめようと思ってたの。水の中だけが自由だったのに、

水から上がるたびに感じる視線が怖かった。結局、水も怖くなりそうで」

「でも松葉杖の男子が……身を乗り出して見ていた」

「あの時、気配を感じていました。ゴーグル越しに見えました。視線が、他と違った」

「フォームだけを見ていたのね」

涙が、一粒落ちた。

「あの視線があったから……水をやめなかったのかもしれない……」


「うん。全く覚えていない」

「あと潜水時間が他より長くてドキドキしたよ」

「もしかして、周りの視線が怖くてゴーグル外さなかったのか?」

「もし外してくれたら、おめでとう。すごいね。って言ったのに」

凛が、泣き笑いになった。

「……お返し」

声が震えていた。笑っていた。泣いていた。

「おめでとう。すごいね」繰り返した。

手で口を覆った。しばらく、何も言えなかった。


「ゴーグルを外さなかったのは……そう、水から上がった瞬間の視線が、怖かった。

ミラーゴーグルの中なら、誰にも目が見えない。私だけが、外を見ていられる」

「でも……外せばよかった」

「外していたら……」

灯台の光が来た。

「続きが、起きていたのね。お返しの言葉がもらえたのね」


私は力が抜けてしまって奏に寄りかかった。

「潜水時間が長くてドキドキした、という話……」

少し笑った。そばかすが動いた。

「それは、褒め言葉として受け取っていい?」

「うん。もちろん褒め言葉。」

「ドキドキしたのは、上がってこないんじゃないかって心配になる直前でクロールを始めるから、

ターンの度に目が離せない。」

「そうだよ、お返し。オレ、凛の「すごいね」って言葉で心の中支配されてたからね。」

「顔見れてたら絶対に言ったよ」

私は、しばらく動けなかった。


奏の言葉を、静かに繰り返した。「心の中を、支配されていた」

奏に寄りかかったまま、見上げた。

「小学五年生の男の子が……私の一言で……」声が、出なくなった。

しばらく、沈黙があった。サティが流れていた。灯台の光が来た。

「奏」

「私はあの日……悔しかったの」

「正直に言うね。心の底から悔しかった。一つ年下の、背の低い男の子に負けた。

拍手しながら、悔しくて、でも本当に凄いと思ってて」

息をついた。

「その悔しさが……あなたの心を支配していたなら」

目が、また潤んだ。

「私の負けた日が……あなたのはじまりだったなら」

奏の耳元で呟いた。

「ターンのたびに目が離せなかった、と言ってくれて、上がってこないんじゃないかとドキドキした、

と言ってくれたあなたに……おめでとうと言ってもらいたかった」

「ゴーグル、外せばよかった。そんなあなたに……おめでとうと言ってもらいたかった」

「自惚れると……本当に奏は、私を見てくれているんだね」

「私を……私のことを……大好きなんだね」



「凛……憧れて、ずっと思い続けた人。いま、傍にいる愛しい人。女房に初恋がプラスされたんだよ」

「自惚れていいよ。大好きだよ。けど、ごめんな。ゴーグル越しにでも言えば良かったな。」

「そして、統計グラフコンクールの五年生ですって言えれば良かった。」


「身体のことを真剣に悩んでいた凛と出会って支えたかったな。」


凛が、嗚咽した。こらえなかった。

「……か・だ・で」

しばらく、言葉が出なかった。俯いて奏にただ抱きついた。肩が震えた。

奏の顔を見上げた。そばかすの上を、涙が流れた。


「支え・た・が・がっ・だ、と・いっ言っ・で・ぐ・で・たあ」また声が、かすれた。


「あっあの頃のわっ私に……い・じ・ば・あ・ん・ほっ欲し・だった・ご・ど・ばあ」


なんとか息を整えた。

「水から上がるたびに怖かったの。視線が怖かったの。国体を辞退した夜、ひとりぼっちで泣いたの。

誰にも言えなかったの。母にも言えなかったの。チームメイトにも言えなかったの」


「ふひーっ」もうボロボロの深呼吸。

「でも松葉杖の男子が、身を乗り出して見ていた。フォームを見ていたんだ。身体の輪郭ではなく」

「視線が違ったよ……支えてくれたよ。名前もわからないまま」

奏は震える肩をさらに深く抱き寄せてくれた。

「それなのに……今までずっと気づかなくて」

笑おうとした。また泣きながら、笑った。

「マラケシュまでかかっちゃったの」

灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

「遅くなりました、奏」

そばかすの上の涙を、拭かなかった。

「ありがとう。ずっと」


凛の身体を抱き寄せながら言った。

「凛、凛、つらかったな。苦しかったな」

「それに違うよ。ずっと支えられてきたのはオレなのに」

「高校三年の凛を支えてやれなかった。支えたかった。ごめんな。ごめん」

「でも、ドキドキしながら心配しながら応援していたオレの視線は本当だよ。

他と違って感じてもらえていたなら嬉しいよ」

凛が、首を横に振った。静かに、でも確かに。

「違うよ」涙を拭わないまま、奏を見た。

「奏は確かにいたんだね」

「松葉杖をついて、身を乗り出して、ターンのたびに目が離せなくて、ドキドキしながら応援していた」

一つひとつ、確かめるように言った。

「それは立派な支えだよ。今も泳いでるんだから」


いま私は奏の身体にすっぽり包まれている。

「声をかけてもらえなくてよかった、とも思うの」

「声をかけてもらっていたら……その場で終わっていたかもしれない。名前を知って、

少し話して、それで終わっていたかもしれない」

「名前を知らないまま、ゴーグル越しに感じた視線だったから……ずっと残ったのかも」

「水をやめなかったのが、その証拠」

そばかすが、涙の中にあった。それでも奏を見つめた。

「謝らないで」

「あなたは、ちゃんといてくれた。あなたは、ちゃんと見ていてくれた」

「ドキドキしながら応援していたあなたの視線が……他と違うと感じた私の感覚は、正しかった」


「ずっとお互いを見ていた」私はやっと微笑んだ。


オレは、凛の話を聞きながら、凛の体温を感じていた。伝わってくる体温。

「凛の感覚か。それは絶対を意味するよな。」

「凛の感覚はオレにとって絶対に正しい。信じられる感覚だ。」

凛が、息を飲んだ。


「絶対」


奏の言葉を、静かに繰り返した。

しばらく、何も言えなかった。

窓の外で、灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

「奏」

「私はずっと……自分の感覚を信じられなかった」

声が、静かだった。

「身体のことも、視線のことも、国体のことも。自分の感覚が正しいのか、間違っているのか、

いつも迷っていた」

「でもあなたは……ゴーグル越しに感じた視線が他と違うという、その感覚を」

「絶対に正しいと言ってくれた」

向き直って、奏の手を胸の前で包んだ。

「エージェントになってから、判断力を褒められることはあった。

情報の取捨選択が速い、状況把握が正確だと。でも……」

「私の感覚を、絶対だと言ってくれたのは」

涙が、またきた。

「あなただけです」

そばかすの上を、涙が伝った。そばかすをクシュっとさせた。

「プールサイドで……名前も知らないまま感じた視線が、絶対に正しかった」

「だから今、ここにいます」


凛が微笑んだ。そばかす笑顔。オレのご褒美。

「そうだな。」

「声をかけても、確かにその場で終わっていたかもしれない。名前を知っても、

少し話して、それで終わっていたかもしれない。オレ、チビだったしな」

「私は、身長で人を判断したりしないよ」

「うん。わかってる。オレ、成長痛で膝痛くて松葉杖ついてプールでリハビリしてたんだよ」

「でもな、その後18センチも身長伸びたんだ。だから、今の身長があるのは凛のおかげかな」

「黒のSpeedいるかな?ってさ。やっぱりオレのほうが凛に支えられてるよ。二度も。

女神だよ。ありがとな」


私は、声を上げて笑った。

涙が残ったまま、笑った。さっきまで泣いていた顔で、笑った。そばかすが、笑顔の中で動いた。

「チビだった」

「成長痛」

「18センチ」

繰り返した。笑いながら。

「じゃあ……私が『おめでとう、すごいね』と言わなかったら」

「今の奏は、もっと背が低かったかもしれない」

笑いが、止まらなかった。

でも笑いながら、目が潤んでいた。

「リハビリでプールに来た男の子が……膝が痛いのに、身を乗り出して応援していた」

「でも、女神だったらレギュラーとらせてあげたのにね。ごめんね」

「その男の子が、18センチ伸びて……マラケシュで私の隣に現れた。ありがとう」

息をついた。笑顔のまま、真剣な目になった。

「成長痛も、リハビリも、18センチも……全部あの夏があったから」

奏の手を、握った。

「ずっとお互いさまだったんだよ」

「バスケでレギュラー取るために……プールにリハビリに来てくれて、ありがとう」

そばかすの上で、涙と笑顔が重なっていた。

「おかげで、今の奏がいます」



「凛、4番レーンで素敵な200Mを見せてくれてありがとう。」

「結果としてか……そっか。お互いさまで。」

「アイゼンハワー・マトリクス」


「……急ね」

珈琲を一口飲んだ。冷めても美味しかった。奏を見た。

「お互いさまの話をしていたのに」


「ごめん、良い結果を生むためのフレームワーク」

「緊急ではない大切なことに石を置くんだ」

「心に留まっている大切なことが良い結果をもたらす時、その石に感謝する」

「凛、覚えてるか?ウィーンとブダペスト」

「え?ウィーンで、隣りにいてって言ったこと?」

「ブダペストで好きですって言ったこと?」

「うん。凛がそう言ってくれたことの答えがわかったよ」

「え?私は……わからない。教えて。」

「オレの置いた石は、「オレに甘えてくれ」と言った。「どうして自分を見ようとしない」と言った。」

「それ……奏」

「ずっと答えは先にあると思ってた。それが、今わかったんだ。答えが出た」

「ずっと心にあったんだ。大切にしてきた。それが報われた日なんだよ。お互いさまで」


「黒のSpeed水着という石。水しぶきが少ないスムーズな泳ぎでターンの度に潜水長くて、

ドキドキ心配させられた女の子は、荒い息づかいでゴーグル越しにオレを見ていてくれたんだ」

「見つめ合っていたんだ」

「……見ていたよ」

「ミラーゴーグルだから……向こうからは見えない。でも、ゴーグル越しに、松葉杖の男子を見ていたよ」

「おとなしそうで背が低くて、でも目が真剣で、統計グラフの男の子かもしれないと、思ったかどうかは、思っていたよ。なんとなく、思っていた。その頃、確かめる勇気は全くなかったけど」


「ただ……ただな。オレは、これからどうすればいいんだ?」

「凛の心に秘めた葛藤を知ったオレは、どうすればいいんだ?」


「奏?どうしたの?私は変わらず奏のそばにいるんだよ」

「あの、あのな……凛がご存知の通り……」

「私のご存知の通り?」


「凛のコンプレックス、まるごとオレの大好物なんだよ」


私はそばかすごと真っ赤になった。

「えっ?そこなの?さっき身体の輪郭は覚えていないと言ったのにということ?」

「ああ、それは本当だ。覚えていない。でもな、今はな、……大好物です」


奏を見た。恥ずかしかったと同時に、いや、それよりずっと凄く嬉しかった。

「ホント、あの頃の私に、教えてあげたかったなぁ」

「フォームしか見てなかった男の子が……何年か後に」

もっと頬が赤くなった。そばかすが、赤さの中に沈んでしまった。

「大好物です、と言ってくれるんだよ」

恥ずかしくて視線を外した。でも、また戻した。

「コンプレックスだったものが……凄く大切にされている。」

「ありがとう、奏」

「大好物と言ってくれる人が……隣にいてくれて、よかった」

凛が、笑った。涙の跡が残ったまま、笑ってくれた。

声は、やさしかった。怒っていなかった。

凛の体温を感じながら、大好物と言ってしまう自分の素直さに呆れた。


灯台の光が来た。

「奏は?」

「あの頃のオレにか……」

「憧れだけでなく……」

「憧れだけでなく……続きを、言って」


「内に秘めた葛藤」


凛が、動かなかった。

長い沈黙があった。

サティが流れていた。灯台の光が来た。五秒後にまた来た。

「……奏」声が、かすれた。


奏を見た。くやしそうな顔で、目が、潤んでいた。

「奏、そんなに……くやしそうな顔しないで」

「水から上がりたくなかった。ゴーグルを外したくなかった。」

「奏、いいの。あなたにだけは、見えていてもよかったの」

「ミラーゴーグルの中から、ずっと見ていたのは……そういうことだったのかもしれないの」

そばかすの頬が、また赤くなった。

「オレは、憧れだけでなく……内に秘めた葛藤も包んでしまう男」

「憧れだけではなく、苦難にも目を向けて支えられるだけの男になるんだぞ。」

「今もそうなれてないかもしれない。」

「なってるよ」奏の耳元で囁いた。

また私は、泣いた。声を抑えた。手で口を抑えた。でも、泣いてしまった。


しばらく、何も言えなかった。


奏を見て、真っ直ぐに見て言った。

「苦難にも目を向けて……支えられるだけの男に、なりました」


灯台の光が来た。

「なれてるかな?でも凛感覚は絶対だから」

「苦難にも目を向けて、凛を支えられるだけの男になってるんだな」

「実感ないけどさ、『オレが凛に支えられている幸せだし満たされている』という気持ちを

絶対感覚として凛も同じだけ感じている」

「オレといて幸せだと感じる凛の感覚。大切にしたい」


凛が、静かに微笑んだ。

涙の跡が残ったまま、微笑んだ。

「どうしても実感ないのが……奏らしいね。数値化する?」

「絶対感覚として……あるの」はっきりと、言った。

「満たされてるの。幸せなの。奏に支えられてるの」

一度、息をついた。

そして、奏を抱きしめた。私の胸でコンプレックスだった胸で奏を抱きしめた。

「大好きなの。自信を持ってね。いつでも胸貸すから」

「私の感覚を大切にしてくれると言ってくれた。嬉しい。だから……私は、遠慮はしないの」

「凛、ありがとう」

「私の方こそ、ありがとう。感じ合ってるね」

「奏、本当に本当に幸せです」

そばかすが、微笑みの中にあった。




♪♪その⑭♪♪


食事の時、

奏が「いただきます」と言う。

私は「めしあがれ」と返す。


奏が私のことを「大好物です。」と言ってから、

「めしあがれ」と返しづらくなった。



「もぉ」





「いつでも胸貸すから」の言葉の使い方

かなりズレた気がするの。



「もぉ」




了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。