23Sydney
彩の招待でオーストラリア・シドニーへ行けることとなった。
任務ではない。
今まで奏といろいろな場所に行ったが、メンタワイを除き、任務だった。
お互いにリフレッシュ休暇として楽しみたい。
「奏、何日間の休暇にする?」
「え?好きなだけ休めるのか?」
「その気になれば、オーストラリア1周するけど」
「それって何日だ?」
「10日欲しいな……何とかしたら奏もそれでいい?」
「もちろんだよ。嬉しいな」
「あまり先のこと考えずに休みたいね」
「ああ、凛なら何処でも勤まるよ」
「ううん。奏に食べさせてもらう。奏なら何処でも勤まるよ」
任務ではない。この感覚。まだ少し不思議だ。
日本に戻らずにメンタワイでサーフィンした時と似てる。
「凛、オレ大みかに帰って来たいかな」
「うん。私も。10日間の休暇ね」
凛がピッキング作業をしている。
「楽しそうだな」
無駄のない動きだが、力が抜けていてリラックスしている状態だ。
カットソーの首元すき間から大きな膨らみとピンク色をのぞかせていて、
前屈みの凛に見惚れているところだ。
「セントジェームスのカットってくたびれると首元ガバガバだよね」
「え?うん……」
奏が見ているのは、気配でわかっている。気にしない。気にしない。
「新品の買い置きを着ていこう。とっておいたモスグリーンストライプ」
なぜか、それだけで嬉しくなる。
「そのトリコロールは捨てちゃうのか?」
「奏決めて。どおする?」
「まだまだ着れるんじゃないか?」
「そうだねぇ……奏、見てていいよ。」
奏の501を入れようか迷った。パリも、LAも一緒に行ったクタクタ501だ。
迷いながら、聞いた。「奏、もう一本、501くれる?」
ノンウォッシュのカチカチ501から一緒にお風呂に入ったりして奏が育てた501。
この履きやすさは凄いと思う。
「お礼」と言って、奏は一本くれた。
入れた。さらに嬉しかった。
彩は健人さんと打ち合わせして、
ラグビー親善試合。オーストラリア対ニュージーランド戦に合わせて
「彩音」シドニー支店のオープニングイベントを企画している。
健人さんの「オレにできないことはない」は本気だった。
奏が電話で話した感じでは順調そうで、「ハカ」が見られるのか期待している。
♪♪その㉓♪♪
一緒にジョギングして、
一緒にツーリング行って、
一緒にシャワーして、
スパーリングして、お昼寝して、読書して、レコード聴いて、
一緒に食事して、
お風呂も一緒に入る。
なのに……なぜ覗くの?
「もぉ」
1788年、英国船が初めて上陸した場所。ロックス地区が今も残っている。
囚人を送り込んだ流刑地として始まった街が、世界文化遺産のオペラハウスと、
シングルアーチとしては世界第二位の長さを誇るハーバーブリッジを持つ街になった。
積み重ねが街を変える。石を置き続けることで世界が変わる……
奏の言葉を、シドニーの港で思い出した。サーキュラー・キーの埠頭に立った。フェリーが行き交っていた。オペラハウスが右手に、ハーバーブリッジが左手に見えた。港の青に浮かぶ特徴的な屋根と青い空、
オーストラリア国旗がはためくハーバーブリッジは、写真で見たままだった。
でも実際に立つと、スケールが違った。かつて流刑地だったシドニー。
だが、その囚人たちが持ち込んだ文化と労働力が、オーストラリアを独立に導いたのも歴史だろう。
むしろ先住民族の文化ではイギリス産業革命の波にも乗ることができなかったはずだ。
怠惰な文化とは言うつもりもないが、「大陸は大陸のままに」が先住民の文化だった。
奏が唐突に言い出した。
「凛、シェラトン着いたら短パン買おうよ」
「もしかして、同じこと考えてるかも」
「良かった。明日の朝、コートハンガーまで走ろう」
これからハイドパーク前のホテルにチェックインして、
彩と健人さんに会う。
「オペラバー、シェラトンバーどっちだ?」
凛が着替えるかどうかでわかることだ。
「オペラバー。このままで大丈夫よ」
「なあ、ノルマンディーのセントジェームスと、このセントジェームス駅はどういう関係?」
「奏って、本当に関連付け好きだよね。無関係よ」
凛は、新しいセントジェームスにオレが少し履きなれた501(まだブルーが濃いめ。お礼だし)。
「こっちはノルマンディー」
そばかすをクシュっとさせて、後ろ手に組んで胸をそらした。
右の山から左の山にグリーンストライプ・ロープウェイ。「にっ似合ってるよ」
凛との会話が家の中の延長で、楽しい。
「明日の朝のジョギング。凛も同じこと考えていて笑ったよ」
「ね。どのくらいの距離走る?」
「たぶん往復して10キロぐらいだろう」
「ようこそシドニーへ、世界文化遺産のバーにLevisなのね。凛」
「彩、「彩音」シドニー支店の開業おめでとう。こちらは気軽な服で大丈夫でしょ?」
「オペラ観る予定無いから大丈夫だよ。私も制服だからね。健人くんにも制服着て貰ってるんだよ」
「奏、凛さん、時間つくれて良かったね。普通は依頼先の制服とか断るんだよ」
「心変わり?」
「うん。今回は、逆でさ。スタッフの一員として周りから接して貰いたくて」
「自分から着てるんですね。オープニングイベント楽しみにしています」
「健人どおなの?謙虚に……なったのか?チームが恋しくなってるのか?」
「うん。いい経験したよ。「チーム凛」最高だった」
「健人さん、ありがとう」
「ただ、残念なお知らせだ。オールブラックスのハカはスタジアム以外では出来なかったよ」
「そっかー。まあ、そうだろうな」
「代わりにハカの実技の真後ろに「彩音」の看板広告ぶち込んだ。で、最前列で観られるからな。
明日の夕方な」
「それはそれで凄いな」
「まあな。でも、もっとすごい事が起こったんだ」
「私に言わせて。 ブラックファーンズがハカでおもてなししたいって言ってくれた」
「え?女子ニュージーランド代表のブラックファーンズ?」
「そうなの。「彩音」にとっても女性のほうが似合ってるし、なにより女性がハカやるんだよ」
「彩、凄い!」
「凄いでしょう。ハカだよ。女性のハカだよ。ヤバ、また涙でてきちゃった」と彩泣く。
「彩、泣くな。もらい泣きした。よかったね。凄いね。健人さんも本当に凄い」
「オレ、マオリの族長に頼み込んだら、同行してるからハイドパークで「彩音」をハカでおもてなしするって言ってくれたんだ」
「健人の交渉力は本当に凄いよ。正にディールメーカーだな」
「まあね。オレさ、自分の実績より「彩音」が大事なんだわ。あ、彩さんに告ってるんじゃなくて」
「香港の前、凛さんから「私にとっての武器はなんだろうか?」って相談されて、その時から考えてて、
凛さんには流儀があるんでしょ?って言って、オレには?って自分のことも考えるようになった」
「健人さん、あの時は率直に聞いてみたかった。奏から人選がいいって言われたの」
「オレから彩さん、そして健人。で出た答えが「土方さん」。オレも土方歳三、好きだし、
尊敬してるし、全く嫉妬とか妬みとか無かったよ」
「でた。凛中毒発言。奏くん、CIAの件もそうだけど、あのね、凛はね」
「彩、やめてください。本当にはっきり言われると逃げ出すしかなくなります」
「まあ、いいわ。奏くん、明日の私のオープニングスピーチ。しっかり聞いててね」
♪♪その㉔♪♪
彩のスピーチの少し前、奏と喧嘩した。
ホテルの洗面台の前だ。
奏は、シャワーを浴びてサッパリとしていて、
スーツに着替える前で洗面台で髪を乾かしている。
私は、シャワーを浴びようとバスローブを脱いで、
親指を下着にかけて下ろしたところだった。
「凛、動くな」
鏡越しに奏は私を見て言った。
「凛、1ミリも動くな」
私はどうしていいか分からずに固まっていた。
奏がそっと私の足元にひざまずく。
「えっ?」
パチン。「痛っ」
奏にいきなり太ももの裏を叩かれた。
「よかった。大丈夫だ」
奏はしゃがんだまま自分の手のひらを見つめている。
私のお尻の隣りで奏は微笑んだ。好きな顔だった。でも……
「奏、なにするの?いきなり。痛いよ」
私は怒った。本当に痛かった。
奏は立ち上がって、手のひらを私に見せた。
奏は自分の手を洗ってから、ティッシュで私の太ももの裏を拭った。
「このあたりの奴はヤバいらしいから本当によかった」
「血は吸われてないから大丈夫だよ」
奏に呆れた。
「叩く前に言えばいいでしょう」
「もぉ」
「蚊だった」
◇健人語り◇
「彩音」の制服は着心地が抜群だ。
サマーウール素材でサラッとしてて通気性が高い。
黒の上下で、男性用はツーボタンシングルで、ショルダーはパット無し。
胸ポケット位置に「彩音Ayane」ブロンズのブランドロゴ。
ボタンは全てコバルトブルー。彩音ブランドカラーだ。
動きやすく、且つ上品に仕上げている。さすが彩さんだ。
シェラトン・グランド・シドニーハイドパーク内、
シンプルで上品な内装で、質感重視の「彩音」店舗として、上位ランクの店らしい。
お迎えする招待客以外の人達も足を止めて中の様子をうかがっている。
「どうぞどうぞ。皆さん中へどうぞ」と笑顔の彩さん。
「おしゃれ番長」と言われ続けた人柄は明るくて感じが良い。
オレは見かねて声を掛けた。
「社長、開始挨拶の5分前ですよー」
「健人くん、社長はやめて」
◇/◇
◇彩・スピーチ ― 「彩音Ayane」シドニー支店 オープニングイベントにて◇
「今日は皆さんに、私の親友達を紹介させてください」
スポットライトが切り替わる。
「まず凛、アーミーグリーンが似合うでしょう。美人でしょ。おっぱい大きいでしょ。
それだけじゃないの。たぶん、この会場中で一番賢い人よ。キャリアよ」
「奏くん、凛のパートナー。内緒だけど、いま、世界中から注目されているエージェント」
「最後に健人くん。このオープニングイベントのプロデューサーでLAではかなりの有名人」
「この三人に比べると、見劣りしちゃうけど、私が「彩音Ayane」の彩です。
皆さん宜しくお願いします」
「さて、今日の私の獲物は奏くんです」
「奏くんは、凛を甘やかす。ふたりを見てきて、凛といろいろな話を重ねてきた、私の結論です」
「凛はずっと自分のコンプレックスと戦ってきた。そのコンプレックスを興味を惹く梃にするのでも、
隠し続けるのでもなく、ただ置いておくことにした。と話してくれました。その話を聞いた時、
私はファンデーションを塗る手が止まったの」
「肌の質感を追求してきた私が、一番大切なことを凛から学んだ瞬間だったの」
「でも凛がその話を私にしてくれたのも、私がこうしてエピソードのひとつとして話せるのも、
奏くんが、凛のコンプレックスを宝物として見続けてきてくれたおかげだと、私は思っています」
「本当に本心からね。彼は本物なの。近くにいる私からするとアイアンドームのような包容力。」
「凛、ごめんね。はっきり言うわ。そばかすを宝石として見る目。革パンのハングオンを風景として見る目。ヘルメットで潰れた髪をくしゃくしゃにする仕草を、愛しいと思う目。凛がそばかすをクシュっと
させた時の奏くんのやわらかな目線。もっともっとたくさん。その全てに包まれて、凛は荷物を少しずつ軽くしていき、その荷物を贈り物に変えて、奏くんに届けることで乗り越えてきたんです」
「凛が言ったの。まんざらでもないって」
「それを甘やかすと言わずに、なんと言うのでしょう」
「彩音Ayaneは、質感の高さを追求するブランドです」
「でも今日、シドニーで新しい言葉を加えたいと思います」
「甘やかされた女の、本物の質感を」
「凛、奏くん、ありがとう。健人くん、ありがとう。シドニー支店のオープニングを、
あなたたちと一緒に迎えられて、本当に幸せです」
凛は泣いた。涙がポロポロと落ちて止まらなくなってた。
私は、凄くうれしかった。
◇/◇
泣いた。
彩のスピーチを聞きながら、
涙がポロポロと落ちて、止まらなくなった。私は人前で泣くタイプではない。
K2の吹雪の夜も、香港の22時12分も、泣くことはなかった。
でも今日、シドニーのオープニングイベント会場で、泣いた。
隣りに奏がいた。感極まる瞬間に。そう、あの晩と同じだ。「大好きで愛しい。そして大好物」
奏に「奏は私を甘やかす」とは言ったことがある。
視線がやわらかいからと奏に伝えた。
奏は、マラケシュで私の「そばかす」をみつけてから、いや、統計グラフコンクールでみつけてから、
ずっとずっと変わらずに見つめ続けている。
奏に見つめられるのがまんざらでもない。いや、見てほしいんだ。
確かに最近、「そばかす」を隠さないし、奏にそばかすをクシャって返すのが癖になっている。
奏が喜ぶのが分かっている。だから私からその仕草を送っている。
コンプレックスのはずだったのに……
「甘やかす」彩に見抜かれた。
私は、「まんざらでもない」と彩に言ったとき、 どんな顔をしてたのだろう?
「荷物を少しずつ軽くし、奏くんへの贈り物に変えてきた」か……贈り物ほどではないが。
でも、荷物は確かに軽くなった。鎧もいらない。
思考のさなか、涙はポロポロ、ポロポロ止まらない。
身体のこともそうだ。少し前、奏は私の革ツナギの胸の所の革を丁寧に伸ばして伸ばして柔らかくしてくれた。圧迫感が解消した。逆に腰からお尻にかけてはパンパンだ。
「奏が好きな姿」に私はされたわけだ。でも、私はまんざらでもない。いや、その姿がいい。
コンプレックスのはずだったのに……
彩は全部を知っているわけではない。でも彩の目は、今の私をそう見ている。
「甘やかされた女」彩がそう言った瞬間、会場が静かになった。
私のことだ。やっぱり、はっきり言ったか。
少し恥ずかしかった。彩に大勢の人前で言葉にされて、甘やかされていると私も認めた。
奏を見た。奏は前を向いたまま、彩のスピーチを聞いていた。耳が赤かった。
「そばかすを宝石として見る目」と彩が言った瞬間、奏の横顔が動いた。前髪が目にかかっていた。
でも気づいた。奏は、自分の観察日記の言葉を、彩の口から聞かされてしまい、少し微笑んだ。
はにかんだ笑顔というやつだ。可愛かった。
「アイアンドームのような包容力」という言葉で招待客から笑いがおこった。
でも私は笑えなかった。本当に彩の表現が私の思いとピッタリ重なったから。
ヒーローはピンチに現れて救ってくれるが、奏は、ピンチを作らせない。
スピーチが終わって、彩が私を見た。彩が微笑んだ。えくぼだ。
私は何も言えず反応も返せず、ポロポロ泣き続けた。
奏が、ハンカチを渡してくれた。リスボンの雨の夜を思い出した。
あの夜も「使えるかわからんけど」と言いながら頭に乗せてくれた。
今日も同じだった。ちょうど良いところにいてくれる。
甘やかされている。彩、ありがとう。
◇奏語り◇
「甘やかされた女の、本物の質感を」か。
凛を甘やかしたつもりは全くないが、前にも言われた「やわらかな視線」「危機を作らせない思考」
のおかげだとしたら、
「凛は小学6年生の、あの統計グラフコンクールの時からオレを導いていたんだよ」
そう言うつもりだった。
ただ、凛があまりに涙を流すものだから、何も言えなかった。愛しかった。
彩さんが「本物」と言ってくれたことが嬉しかった。
凛の涙を止めてあげないとな。
今からいよいよ「ハカ」が始まる。
◇/◇
◇健人語り◇
彩さんの挨拶を聞いた。
奏の話をしている。いや、奏を通しての凛さんの話か。
「草薙素子」いや凛さんの裏の部分を聞いた。
今日の凛さんはアーミーグリーンのワンピースで髪をアップにして
ブロンズのヘアクリップで留めている。後れ毛を垂らしてキッチリ留めないところが
本当にお洒落だなと感心する。
アーミーグリーンの服に髪アップスタイル。
ニコール・キッドマン主演の火山噴火の映画あったよな。
オーストラリアだし、まさか? いや、そういう演出はしない人だ。
周りにそう思わせてしまう。本当に凄い人だ。
彩さんの挨拶内容にも凄く感動して、何度も奏を目で確認した。
奏は、彩さんを見ながら隣りの凛さんを気遣っている。
凛さんはポロポロポロポロ涙を流しながら聞いていた。
オレは、さらに感動が高まってしまった。
後で「土方さん」話を凛さんから直接聞きたいと思った。
流儀というヒントを与えたのはオレなんだから権利がある。
◇/◇
ハイドパークに移動して「ブラックファーンズのハカ」が始まる。
「彩音」スタッフ全員が手をつないで正面に立って迎え討つ
「ウィングのレジェンド、ポーシャ・ウッドマンに注目ね」
「大丈夫。あのオーラ。みんな無言で注目しちゃってるよ」
「目の威圧感が凄いね」
「声も男と女では違うから、より民族的に感じるな」
「女性は舌、出さないんだな。あとマイク要らなかったかな」
ポーシャが、目をめいいっぱい見開いて彩に迫ってくる。
スタッフが後退し、ふたりの真剣勝負を見守る。
彩は微動だにせず見つめあっている。10センチもない。
彼女が最後の雄叫びを上げると全員が制止した。
無音のオーラに空気が圧縮されていくようだ。
3秒後、彩の頬をツーっと涙が流れた。
美しかった。
ポーシャが彩を抱きしめて健闘を讃えた。
拍手喝采。
「凛」と彩に呼ばれて近づいた。
「私の親友で日本のエージェントなのよ」と紹介された。
彼女は驚いていた。
「美人ね。彩の友達は特別な人が多いね。私も今日から友達よ。よろしく」
その夜、イベントが無事終わって、奏と二人でサーキュラー・キーを歩いた。
オペラハウスが夜の光の中にあった。ハーバーブリッジが港の向こうで輝いていた。
シドニーは美しかった。
奏がそばにいた。任務中ではない奏だった。インカムもない。変装もない。くしゃくしゃのハンカチを持った奏と港の夜景の中を歩いた。
「オールブラックス勝ったな」
「ね。ラグビーおもしろいな」
「実際に見るハカの迫力、凄かったな」
「うん。感動したよ。目の力って凄いんだなって思った」
「凛、泣いたな」
「涙が止まらなくなったの」
「でも、移動中に奏、歩きながら「おなら」するから笑っちゃった」
「……」(うまくいって、よかった)
「あと、私たち喧嘩中よね。思い出した」
奏はわかっていたと思う。ずっと私を見ていてくれた男だ。彩のスピーチの言葉が、どこに刺さったか、
全部見えていたんだと思う。港を歩きながら、明日の朝のジョギングを考えた。ハーバーブリッジまで、往復10キロくらいだろうか。コートハンガーと呼ばれるあの橋を目指して走る。
奏と並んで。任務ではなく。
マラケシュから始まった二人の道が、ううん、小学6年からのふたりの歩みが、シドニーの夜まで来た。
今日流した涙は、エージェントの凛ではなく、甘やかされた凛の涙だった。
奏の501を穿いていた。奏が育てた501が、シドニーの夜に馴染んでいた。
幸せだった。もう、訂正する必要はない。「凛語」は、いらない。
彩のおかげで、それと……もちろん奏のおかげで、私が私の人生に涙を流した。
そのことが、いちばんの幸せだった。
了




