21Hong Kong4
デコイ始動 。彩がデコイを動かした。
「今凄く大切な仕事の途中なの。新商品開発よ。工程表確認したいんだけど、
パソコン借りていいかな?私のノートPC故障したみたい」
完璧だった。彩は女優だと思った。不安そうな顔が、本物だった。
10年間ブランドを育てた女性の「大切な仕事の途中」という言葉に、嘘がなかった。
その時、ラウンジでは健人さん、マックス、ナオミが珈琲ブレイク中だった。
彩の声が届いた。どおやらセキュリティの話をしているみたいだ。
健人さんが熱心に説明する傍らでナオミが言った。
「何の話だか全く見えません」
健人さんは信じ込んだ。健人さんの警戒心が緩んだ。
そしてブロックチェーンの追跡機能を丁寧に説明した。「メール添付でも開封したらアウト」
「じゃあ……どうやって破るんですか?」という問いにも、健人さんは答えてあげた。
私は、会話の成り行きを見ていない。でも、嘘だ。即座にわかった。
「全く見えません」という言葉は、完全に理解している人間が使う言葉だ。
わからない人間は「どういうことですか」と聞く。
見えない、という表現を選んだ時点で、見えている。
◇健人語り◇
ナオミが背後からオレの肩に顎を乗せてきた。
一瞬、ゾクッとした。臨戦態勢に入ってしまった。
ナオミは目に恐怖を浮かべながら、それでも精一杯の笑顔をオレに返し、
「何の話だか全く見えません」と言った。目が潤んでいた。
この怯えた表情、この目に噓はない。オレの強い視線を受けながら必死に笑顔を作る
ナオミを信じた。警戒心を解いた。
笑顔をお返ししてブロックチェーンの追跡機能を丁寧に説明してやった。
「どうやって破るんですか?」という問いにも、誠実に答えた。
あの必死に作った笑顔はエージェントのそれではない。
追跡ログですべてを一網打尽にすること。トップニュースで犯罪全てが公に晒されることだろう。
オレは、今回の作戦でホワイトハッカーとしてとても大きな実績を残すだろう。
これが、奏と凛さんへのオレからの礼だ。
◇/◇
22時12分。デコイのデータが動いた。
「健人さんの説明が敵に自信を与えてくれたのね。」
瞬間、健人さんのシステムが反応した。
発信元が特定された。仲介業者のサーバーが浮かび上がった。
奏が私を見た。深圳だった。ここから先は危険だ。心が決まった瞬間。
暗号通貨の資金洗浄経路も追跡が始まった。ダミー会社の先に、クライアントの輪郭が見えてきた。
健人さんが「まだだ」と言った。
私は「通報してください」と言った。健人さんが私を見た。
「おそらくクライアントまで炙り出せます。ダミー会社は剥がせる。でも今動かなければ、
蓄積された彩音の顧客情報、成分分析が完全に市場に出る前に潰せない。
「デコイはどおでもいいの。通報してください、今すぐ」
土方さんの流儀だ。強さとやさしさと結果。迷わない。迷わない。彩を守ることが、全部だ。
健人さんが、ハッとして端末を操作した。
「US CYBER COM へ通報」「健人頼んだよ」
奏は、親友の名誉を残してあげた。そして、席を離れた。
健人さんの通報を受けてUS CYBER COM は電波遮断を試みて仲介者サーバーを袋のネズミにした。
おそらくは、奏の依頼を受けたCIAがもっと大胆な手段に出た。自爆型ドローンが深圳郊外の倉庫に突っ込んだ。現地のエージェントによれば、一瞬で炎が上がり跡形もなく痕跡は消えた。
犯人は捕まってない。怪我人すら確認できなかった。おそらくは逃走。
これも奏の手引きだが、NSAによると中国政府は事故として処理したようだ。
「彩を守ることが、全部。」最後に私が言った。
ナオミは姿を消した。
◇奏語り◇
深圳。「回郷証」読み通りだった。中国本土への介入は危険が伴う。
凛のふた言。健人には十分だった。ただ、あの健人がナオミを信じた。
そして、内調経由でCIA。公安を通してNSAに通報した。所属は保険になる。
◇/◇
◇トミー語り◇
ナオミはやさしくて明るくて向上心があって大胆。
デスクに向かっていると後ろからオレの肩に顎を乗せる。
振り返ろうとすると愛くるしい笑顔が、すぐそこにある。
この半年間、夢のような経験をしていた。否、夢だった。
ナオミが教材と称して欲しがった「彩音」の情報。
どのくらいの価値があったのだろうか?
ため息しか出てこない。
◇/◇
◇ナオミ語り◇
国安に戻り、更なる教育訓練を言い渡された。
私の心の中は変わろうとしているのに、国家はそれを許さない。
トミーと過ごした半年間は夢のような時間だった。否、夢だった。
こんなにキスが嬉しかったことはない。
こんなにも自分の身体を愛されたことはない。
年下だが、賢くて純粋で愛しかった。可愛かった。
任務を忘れることはできなかったが、後悔はある。凄くある。
彩さんを取り巻くビジネス環境が羨ましかった。この企画に本当に参画したかった。
でも、トミーに教材として提供させた情報の内容が妬ましかった。
私のエクボは偽物で、彩さんのえくぼは本物だった。
◇/◇
香港 翌朝。世界のマスコミが騒いでいた。
深圳郊外の倉庫爆発。中国政府は事故として処理した。マスコミは「不審な爆発」と報じた。
実態を知る者は、ごくわずかだった。
CIAが裏で動いていた。奏のマップ。でも翌朝の報告を聞いて、少し呆れた。CIAの現地担当者が、成果を誇示したがっていた。ヒーロー気取りで、関係機関に「我々が解決した」というメッセージを流していた。自爆型ドローンの映像まで、内部で回覧されていた。勝利を誇示する。
それが、私の流儀とは違う。奏の流儀と違う。
奏は、いや日本は調整役に留まった。内調経由で情報を提供し、公安を通じてNSAに繋いだ。表には出なかった。それでいい。石を置いたのは奏だ。ティッピングポイントを見極めたのも奏だ。
奏は「ヒーローにならない」と最初から決めていた。
中国政府は、自国内での出来事を「事故」として処理するしかなかった。悔しかったはずだ。
主権の問題だから。でも動けなかった。
深圳のサーバーが何を保存していたか、公式に認めることはできない。
ナオミ・Kは姿を消した。トミー・Eは、何も知らなかった可能性が高い。マックスは白だった。
三人の中で、本当に動いていたのはナオミだけだった。仲介業者メンバーの一人で間違いない。
健人さんが、静かに反省していた。
「ナオミに技術の核心を話してしまった」という事実は、変わらないが、
あの健人さんの目を、ナオミはどうやって欺いたのだろうか?
でも……それこそがデコイの正体だったとしたら……奏は何も言わなかった。
ただ、静かに珈琲を飲んでいた。奏を見た。そばかすをクシュっとさせた「そうだよね、奏。」
作戦変更だった。奏のマップには、健人さんが「教えてしまう」理由が含まれている。
健人さんでも見抜けない。ナオミの瞳に何が映っていたのか……
健人さんにヒーローを諦めさせ、且つそれこそが罠。
そして、ナオミが自信を得て動いたから、深圳が炙り出せた。
香港 最終日 、ビクトリアハーバーを眺めながら健人さんが彩に謝った。
「ナオミに技術を話してしまった。申し訳なかった」と。
「見抜けなかったのは、健人の目が甘かったからじゃない。
ナオミの怯えは、演技じゃなかったんだ。本物の感情だったんだよ。
読めなかったんじゃない。ナオミの本心だったんじゃないか?」
奏は、真剣な顔をして、はっきりと健人さんの目を見て言った。
「私も、そう思う。エージェントスキルじゃない。絶対、ナオミの本心よ」
私も、はっきりと健人さんの目を見て言った。
彩が笑った。「健人くんがいなかったら、何も解決しなかったのよ。ありがとう」
「そもそも、その技術は彩音に関係ないよ。健人くんの技術でしょ」
彩らしかった。「質感が高すぎて基準値を超えている」と私のことを言っていたが、
その言葉、お返しします。
感謝の伝え方が、清々しかった。気が付くとやさしくされている……逆にそれが彩の流儀だ。
奏が健人さんに何かを渡した。小さな封筒だった。
後で健人さんが見せてくれた。
封筒の中には、一枚の紙が入っていた。
「お前の通報が、全部を動かした。名誉はお前のものだ。」と書いてあった。
奏らしかった。ヒーローにならない男が、親友の名誉を守る紙一枚を、静かに渡した。
続く




