第9話 勇者、泊まる
その日は朝から雨だった。
軒先を打つ雨音が絶え間なく続いている。窓ガラスには細かな雨粒が幾筋も走り、石畳は朝のうちから濡れた光を返していた。
リオンは窓辺へ目を向け、それから店内を見回した。
こういう日は客足が遠のく。
棚の薬草を整え、工具を磨き、帳簿を開く。仕事はいくらでもある。店の中には普段より広い空間があるように感じられた。
窓際では、アウグストが本を読んでいる。
ページをめくる音が、ときおり雨音に混じった。
勇者が毎日のように道具屋へ通う。
最初は不思議だった。
今だって、その理由をすべて理解しているわけではない。
ただ、いつの間にか、その姿がここにあることを不思議に思わなくなっていた。
昼が近づく頃、リオンは薬草茶を二つ淹れた。
湯気とともに、乾いた草を思わせるやさしい香りが店内へ広がっていく。
片方を窓際へ置く。
アウグストが本から顔を上げた。
「飲め」
「どうぞ、ですね」
リオンが言い直す。
アウグストは湯呑みを両手で包み、一口飲む。
「うまい」
「ありがとうございます」
それ以上は何も言わなかった。
外では雨が石畳を叩き続けている。
店の中には、茶の香りと紙をめくる音だけが残った。
午後になっても、空は晴れなかった。
雨脚は朝より強くなり、軒先から落ちる雫が途切れのない幕を作っている。
客は来ない。
リオンは修理を終えた道具を棚へ戻し、薬草を種類ごとに仕分けていく。その向かいでは、アウグストが本を読み進めている。
することが違うだけで、二人とも自分の時間を過ごしていた。
やがてアウグストが本を閉じた。
窓の外を見る。
「気になるんですか」
「雨だ」
見れば分かる答えに、リオンは思わず笑った。
「昔なら、進んでいた」
その言葉に、リオンは手を止めた。
「こんな雨でもですか」
「ああ」
迷いのない声だった。
リオンは窓の外へ目を向ける。
激しく石畳を叩く雨。その向こうを歩く人影も少ない。
「大変だったんですね」
何気なく口にすると、アウグストは答えなかった。
ただ、濡れた街を眺めている。
以前なら、この雨の中でも歩いていたのだろう。
急がなければならない場所があり、待っている誰かがいて、立ち止まるという選択肢そのものがなかった。
今日は、ここにいる。
リオンはそれ以上聞かなかった。
店の中には、雨から切り離されたような時間が流れていた。
やがて窓の外が少しずつ暗くなる。
雨は止まない。
リオンは帳簿を閉じ、工具を片付け始めた。
「そろそろ閉店ですよ」
アウグストが顔を上げる。
「そうか」
返事をしながらも、窓の外から視線を離さない。
「帰らないんですか」
「雨だ」
「そうですね」
リオンは苦笑した。
しばらくして、アウグストがぽつりと言った。
「濡れる」
「勇者でも、そこは気になるんですね」
「濡れるのは気になる」
あまりにも真面目な答えだった。
リオンはとうとう笑ってしまう。
「それなら、仕方ありませんね」
アウグストが振り向いた。
「ここにいる」
その言葉に、リオンは目を瞬かせた。
追い返す理由はない。
とはいえ、店を閉めたあとまで窓際の椅子を貸しておくわけにもいかなかった。
「倉庫でもよければ、泊まれますよ」
「泊まれるのか」
「簡易ベッドしかありませんけど」
「十分だ」
答えが早い。
リオンは思わず苦笑しながら、店の奥へ向かった。
倉庫には修理待ちの道具や木箱が並び、壁際には薬草を干す棚が続いている。
その隅に、小さな簡易ベッドが一つあった。
昼休みに横になるためのものだ。
リオンは毛布を一枚取り出し、ベッドへ置いた。
「使ってください」
「助かる」
アウグストは荷物を下ろし、腰を掛けた。
軋んだ音が倉庫に響く。
木箱や棚、修理を待つ道具に、壁際へ吊るされた乾いた薬草。客の目には触れない、店の裏側だった。
アウグストは辺りを見回した。
「ここも静かだな」
「倉庫ですから」
「そうか」
それだけ言って、壁に背を預けた。
嫌がっている様子はない。
むしろ、肩の力が抜けているように見えた。
リオンは店の明かりを落とし、最後の戸締まりを確認する。
外では、まだ雨が降っている。
壁越しに聞こえる雨音は、昼間よりも遠く感じられた。
アウグストは毛布を肩まで引き上げる。
戦場の夜なら、眠りは浅い。
物音一つで目を覚まし、剣へ手を伸ばす。
それが長いあいだ当たり前だった。
今夜は、剣を握る必要がない。
見張りの順番を気にする必要もない。
机の上には、読みかけの本が置かれている。
手を伸ばせば届く距離だった。
けれど、今夜は開かなかった。
そこにある。
それだけで十分だった。
やがて、扉が少し開く。
「問題ありませんか」
リオンが顔をのぞかせた。
「ない」
「雨、まだ強いですね」
アウグストは耳を澄ませるように目を閉じた。
「ああ」
リオンは扉へ手を掛けた。
そこで、ほんの少し足を止める。
「おやすみなさい」
今度は迷わず言えた。
「おやすみ」
扉が閉じる。
雨音だけが残った。
不思議とひとりになった気はしなかった。
アウグストは目を閉じる。
雨は降り続いている。
明日になれば、止むのかもしれない。
それまでは、この場所にいてもいい。
そんなことを考えたのは、初めてだった。
雨音を聞いているうちに、意識がゆっくりと沈んでいった。




