第8話 英雄ではない勇者
窓際の椅子が、朝から空いていた。
窓から差し込む光が、棚に並んだ薬草を淡く照らして、店いっぱいに薬草の香りがゆっくりと広がっていく。
リオンは棚へ薬草を並べ終えると、作業台へ向かった。昨日の新聞が隅に置いたままになっている。
『魔王討伐の英雄、王都へ帰還』
『勇者アウグスト、騎士団本部にて――』
紙面いっぱいに並ぶ大きな見出しを横目に見ながら、小さなナイフを砥石へ滑らせる。
シャッ、シャッ、と規則正しい音が静かな店内へ響いた。新聞の中の勇者は、剣を掲げて堂々と立っている。その姿と窓際で本を読んでいるアウグストは、どうしても結びつかなかった。
何かを考えかけて、リオンは小さく首を振った。
今は仕事だ。
カラン。扉の鈴が鳴る。リオンは顔を上げた。
一瞬だけ窓際へ視線が向く。誰もいない。リオンは入口へ向き直った。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、近所に住む女性だった。薬草をいくつか選び、会計を済ませる。帰ろうとしたところで、ふと店内を見回した。
「あら」
窓際へ目が止まる。
「今日は勇者様はいないの?」
「騎士団のお仕事みたいです」
「そうなのね」
残念そうに笑う。
「最近よく見かけたから」
代金を受け取りながら続けた。
「最初はびっくりしたわ。勇者様がこんな小さなお店にいるなんて」
「僕も驚きました」
素直にそう答える。女性は楽しそうに頷いた。
「でも、話しかけても普通なのね」
「普通、ですか」
「もっと近寄りがたい人だと思ってたの」
リオンは考える。怖い。その言葉は、今のアウグストにはあまり似合わない。
「本ばかり読んでますし」
「そうそう」
女性は笑う。
「お茶も飲んでるでしょう?」
「飲んでますね」
「この前なんて犬の形のパンを持ってたじゃない」
その光景を思い出し、リオンも思わず笑った。
「あれは驚きました」
「英雄っていうより、近所のお兄さんみたい」
その一言を残し、女性は店をあとにする。
鈴が鳴り、静けさが戻った。リオンは工具を持ち直す。それでも手は動かず、しばらく窓際を眺めていた。近所のお兄さん。そう言われると、その姿の方が先に思い浮かぶ。本を読み、薬草茶を飲み、窓辺でうたた寝をして、犬パンを見せに来る。新聞の中で剣を掲げる英雄より、その景色の方がずっと身近だった。
ふと、本棚へ目を向ける。昨日返ってきた『旅人の手記Ⅱ』が、いつもの場所に収まっている。
思わず手に取りかけて、途中でやめた。
今日読む人はいない。そう思って、手が止まる。
リオンは静かに本を棚へ戻した。
昼を少し過ぎた頃、修理を終えたランタンを受け取りに老人がやって来た。
「お、もう直ったか」
「お待たせしました」
リオンが磨き上げたランタンを渡すと、老人は火を灯して満足そうに頷く。
「相変わらず丁寧だな」
「ありがとうございます」
代金を受け取り、帳簿へ書き込もうとしたその時だった。老人が何気なく店内を見回す。
「あれ?」
窓際へ目を向ける。
「今日は勇者様は来とらんのか」
「騎士団のお仕事みたいです」
「そうかそうか」
老人は笑う。
「静かだと思った」
リオンは思わず窓際を見る。空いた椅子。いつもなら誰かが本を読んでいる場所だった。
「毎日いたからなあ」
老人は特に意味もなく続ける。
「もうすっかり店の景色だった」
その言葉だけが、妙に耳に残った。店の景色、薬草棚、作業台、窓辺の木彫りの犬。そして、本を読むアウグスト。いつの間にか、それが当たり前になっていた。老人を見送ると、店は再び静かになった。リオンは工具を手に取る。砥石へ刃を当てる。シャッ。シャッ。規則正しい音が響く。いつもと同じ作業。窓際へ視線が向く。誰もいない。すぐに工具へ視線を戻す。また少しして、もう一度だけ窓際を見る。自分でもおかしくなって、笑った。
西日が店の奥まで差し込み、本棚の背表紙を黄金色に染めていた。リオンは朝から気になっていた新聞を再び手に取る。紙面には勇者アウグスト。
剣を掲げ、まっすぐ前を見据えている。堂々とした姿だった。しばらく眺めてから、視線を窓際へ移す。そこには誰もいない。けれど自然と、その椅子で本を開く姿が浮かぶ。返した本を棚へ戻し、
「おすすめは」
と尋ねる声。薬草茶を一口飲み、
「うまい」
と短く答える声。閉店になると本を閉じ、
「また明日」
そう言って帰っていく姿。新聞の中の英雄も、本を読む客も、同じ人物のはずだった。それでも今のリオンにとって近く感じるのは、後者だった。
新聞を丁寧に畳み、引き出しへしまう。ふと本棚へ目を向ける。
「明日は何を借りるんでしょうね」
誰もいない店で、そんなことを口にしてから、リオンはそんな自分がおかしくて笑った。
窓辺の木彫りの犬だけが、妙な顔で店内を見つめていた。外では西日が少しずつ薄れ、静かな一日が終わろうとしていた。




