第7話 英雄の記事
王都騎士団本部の執務室には書類の山が積まれていた。討伐報告、予算申請、物資管理、遠征計画。魔王がいなくなっても仕事は減らない。むしろ増えている気さえした。その中心で、セシルは黙々と書類を処理していた。
「勇者様は?」
若い騎士が恐る恐る尋ねる。セシルはペンを止めない。
「知りません」
「え」
「昨日の昼から見ていません」
騎士の顔色が変わった。勇者行方不明。言葉だけ聞けば大事件だった。だがセシルは平然としている。
「探しますか?」
「放っておきなさい」
即答だった。
「仕事は終わっています」
「そうなんですか」
「終わっているなら問題ありません」
そう言いながらも、セシルは小さく息を吐く。最近のアウグストは変だ。本を読むようになった。別に本を読むことは悪いことではないが、仕事が終わると姿を消すようになった。そして、王都の道具屋へ通っているらしい。意味が分からない。
昼過ぎ、セシルは書類を抱えて王都を歩いていた。アウグストへ届け物がある。部下に任せてもいい仕事だった。だが今日は自分で来た。王都の古い通りにある小さな道具屋。セシルは看板を見上げた。ここだ。レヴァインから聞いた、最近アウグストが入り浸っている場所。何度聞いても意味が分からない。扉を開く。鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店の奥から青年が顔を上げる。リオンだった。
特別な人物には見えない。ごく普通の青年だった。そして、セシルは窓際を見る。本当にアウグストがいた。本を読んでいた。当然のように。最初からそこが定位置だと言わんばかりの顔で座っていた。セシルは数秒固まった。
「何をしているんですか」
アウグストが顔を上げる。
「読書だ」
見れば分かる。
「そうではなく」
思わず額を押さえる。アウグストは本気で不思議そうだった。
「騎士団本部には?」
「行った」
「仕事は?」
「終わった」
「その後は」
「来た」
会話が終了した。本人の中では説明になっているらしい。セシルは諦めた。店内を見回す。広くはない。立派でもない。だが妙に落ち着いた。工具の音が響き、薬草の匂いがする。窓から柔らかな光が差し込んでいる。それだけだった。リオンがお茶を置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
セシルは受け取る。
その横で、アウグストも当然のように湯呑みを持ち上げた。まるで毎日のことみたいに。その様子を見て、セシルは目を細める。以前のアウグストなら考えられなかった。休むことが苦手だった。戦うか、働くか、鍛えるか。そのどれかだった。なのに今は違う。本を読み、お茶を飲み、窓の外を眺めている。店の景色に溶け込んでいた
「最近よく来るんですか」
セシルが尋ねる。リオンは少し考えた。
「そうですね」
そして自然に答える。
「毎日です」
セシルは黙った。毎日。勇者が道具屋へ。言葉にすると余計に意味が分からない。だが、窓際を見る。アウグストは静かだった。戦場でも、王城でも、騎士団でも見たことがない顔だった。その時、扉の鈴が鳴った。
「こんにちは」
白髪の老婆だった。いつもの常連客らしい。
「いらっしゃいませ」
リオンが応じる。老婆は店に入るなり窓際を見る。
「今日もいるねぇ」
「いる」
アウグストが答える。
「そうかい」
会話が終わった。老婆は満足そうだった。セシルは少しだけ眉を上げる。勇者に対する態度とは思えない。だが当人たちは自然だった。老婆は机に新聞を置く。
「もう読んだからねぇ」
「ありがとうございます」
リオンが受け取る。それからしばらくして、手が空いたリオンは新聞を開いた。ある記事に目が止まる。勇者アウグスト特集。大きな見出しだった。魔王討伐、最終決戦、王国の英雄。記事は詳しく続いている。魔王城への進軍、絶望的な戦況、仲間たちとの戦い、幾度もの死地。リオンは静かに読み進めた。知らない話ばかりだった。いや、知っているつもりだった。世界を救った勇者。そう聞いていた。けれど、記事の中の英雄と、窓際で本を読んでいる男が結びつかない。リオンは顔を上げる。窓際にアウグストがいる。本を読んでいる。とんでもなく真剣な顔だった。旅人が橋を渡っているらしい。
「……」
リオンは新聞を見る。アウグストを見る。
もう一度新聞を見る。やはり同じ人物だった。不思議だった。世界を救った男は、橋の続きで悩んでいる。
「どうした」
アウグストが聞いた。リオンは少し迷う。それから新聞を持ち上げた。
「載ってますよ」
アウグストは記事に目を通す。そして。
「そうか」
それだけだった。
「それだけですか」
「載っているな」
「載ってますね」
会話が終わる。リオンは新聞を見る。アウグストは本を見る。どちらも真面目だった。だが、
今のアウグストが気にしたのは、本の続きだった。しばらくして、アウグストが顔を上げる。
「橋は渡ったのか」
「え?」
「旅人だ」
リオンは思わず笑った。
「ああ」
新聞よりそちらなのか。
「渡りましたよ」
アウグストは安心したように頷く。それから再び本へ戻った。本当に変な人だ。
リオンは思う。そして、少しだけ面白い人だとも思った。
セシルは帰るために立ち上がる。扉の前で振り返った。窓際の読みかけの本に差し込む夕日。
工具の音と薬草の匂い。そして勇者。ここへ来るようになってアウグストは少し変わった。
強くなったわけではない。有名になったわけでもない。むしろ逆だった。英雄らしくなくなった。人間らしくなった。その変化を、セシルは悪くないと思った。
「遠征の日程、忘れないでください」
最後に言う。アウグストは本を閉じる。
「忘れていない」
セシルはなぜか少し安心した。
「また明日」
「はい。また明日」
リオンが答える。扉が閉まると、工具の音だけが戻ってくる。リオンは新聞を畳んだ。そこには英雄の姿が載っている。世界を救った勇者。魔王を倒した男。けれど、リオンの頭に浮かぶのは、記事の中の英雄ではなかった。窓際で本を抱えながら、橋の続きを気にしていた男だった。どちらも同じ人物らしい。まだ少し信じられない。ふと窓辺を見る。木彫りの犬がいつもの場所に座っていた。相変わらず妙な顔をしている。その犬は、今日も何も言わずに、すべてを見ていた。




