第6話 本棚
リオンが窓を開けると、夜の間にこもっていた薬草の香りが、外の風へゆっくり混ざっていった。
棚に吊るした葉が揺れる。
乾いた茎同士が触れ合い、小さな音を残す。本棚の端に並ぶ栞がかすかに揺れ、紙が小さく鳴る。
修理品を並べ終えると、本棚へ目を向けた。
十冊ほどの本が並んでいる。
どれも古く、何度も読まれた跡があった。角は丸くなり、背表紙は日に焼けている。新品は一冊もない。その中から一冊を抜き取る。
『旅人の手記』
最初にアウグストへ貸した本だった。表紙を布でそっとなでる。埃はほとんど付いていない。
それでも、そうしたくなった。
「ずいぶんページが柔らかくなりましたね」
本へ話しかけるようにつぶやき、棚へ戻す。
カラン。扉の鈴が鳴った。
「おはようございます」
入ってきたのは、近所で古書店を営む老人だった。両腕いっぱいに本を抱えている。
「また持ってきたよ」
机へ積まれたのは、旅日記、街道案内、宿屋巡り、古い地図帳。
どれも似たような本ばかりだった。
「増えましたね」
「売れ残りばかりだからな」
老人は苦笑する。
「普通は冒険譚や英雄譚を買う。旅日記なんぞ、そうそう手に取られん」
リオンは一冊開く。街道沿いの小さな宿を紹介する本だった。挿絵には木造の宿と湯気の立つ食堂が描かれている。
「僕は好きですよ」
「変わっとる」
「そうでしょうか」
老人は店の本棚へ目を向ける。
「ここには英雄譚が一冊もないな」
言われてみれば、その通りだった。魔王討伐、竜殺し、伝説の勇者。王都では誰もが知る物語ばかりなのに、この棚には一冊も並んでいない。
代わりにあるのは、橋、市場、港町、宿屋、旅人。そんな本ばかりだった。
「昔は置いていたんです」
リオンは本棚へ目を向ける。
「でも、ほとんど読まれなくて」
「道具屋だからな」
「それもあります」
英雄譚を読み終える頃には、不思議と肩へ力が入る。誰かが戦い、誰かが傷つき、世界を救う。読み応えはある。けれど、少し疲れてしまう。その点、旅日記は違った。今日は橋を渡った、市場で昼食を食べた、夕方には宿へ着いた。書かれているのは、それだけだ。何も起こらない。だからこそ気づけば最後まで読んでしまう。
「何も起きない本って、案外少ないんです」
老人は目を丸くする。
「そんな見方をしたことはないな」
「何も起きない日が続くことって、きっと悪いことじゃないと思うんです」
老人はしばらく本棚を眺め、それからゆっくり笑った。
「だからこんな棚になったのか」
リオンも笑って頷く。
「少しずつ増えて、気づいたらこうなっていました」
「もっと種類を増やしてもいいんじゃないか」
「少しずつですね」
「相変わらず商売気がない」
「そうかもしれません」
老人は笑いながら帰っていった。鈴が静かに鳴り、店は再び穏やかな空気に包まれる。
リオンは本棚の前へ立った。
『旅人の手記』
『旅人の手記Ⅱ』
その隣へ、新しく持ってきてもらった一冊を差し込む。
『暁霧の宿』
棚全体を見渡す。
それから窓際の席から手が届きやすい位置へ移した。もう一度眺める。今度は小さく頷いた。
店の奥から工具箱を運び、作業台へ向かう。
ふと、窓際へ目が向く。
昼前の日差しが椅子を照らしていた。
まだ誰も座っていない。それでも、今日も誰かが座るような気がした。
リオンは小さく笑い、自分でも理由は考えないことにした。工具を手に取る。
その時だった。
カラン。扉の鈴が鳴る。リオンは顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
いつも通りの声が、静かな店へやさしく溶け込んでいった。




