第5話 犬パン
「お前、最近おかしいぞ」
昼過ぎの王都広場。
レヴァインは向かいに座る親友を眺めた。
アウグストは本を読んでいる。
それだけで十分おかしかった。
「おかしくない」
「いや、おかしい」
「違う」
「違わない」
昔から、この男は妙なところだけ頑固だ。
レヴァインは小さく息をつく。
「最近ずっと本読んでるよな」
「読んでいる」
「昔は?」
「読んでいない」
「ほら、変じゃねぇか」
アウグストは納得していない顔をした。
「それに、気づくといなくなる」
「そうか」
「そうだ」
仕事も訓練もきちんとこなしている。
問題はない。問題はないが、ふと姿が見えなくなる。そして向かう場所は決まっていた。
「道具屋だろ」
アウグストは黙る。
レヴァインはそれで察した。
「今日も行くのか」
「行く」
迷いのない返事だった。
「何があるんだよ」
「本がある」
「図書館行け」
「違う」
間髪入れない返答に、レヴァインは肩を落とす。
「何が違う?」
アウグストは少し考えた。眉を寄せ、言葉を探す。だが、最後には首を横に振る。
「分からん」
「だろうな」
思わず笑みがこぼれた。本人が一番分かっていない。だから面白い。
「よし」
レヴァインは立ち上がる。
「今日は俺も行く」
結局、道具屋までついて来てしまった。
店は思っていたよりずっと小さい。
少し傾いた看板。窓辺には妙な木彫りが置かれている。たぶん犬だ。……たぶん。アウグストは迷いなく扉を開いた。カラン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
リオンが顔を上げる。
そして最初に口にしたのは、
「本、読み終わりましたか」
だった。
レヴァインは瞬きをする。挨拶が、それなのか。
だがアウグストは少しも驚かない。
「読んだ」
「どうでした」
「面白かった」
リオンは嬉しそうに目を細めた。
「それは良かったです」
レヴァインは思わず二人を見比べた。
あのアウグストが、本の感想を口にしている。
昔なら考えられない。アウグストは本を差し出す。リオンは貸出帳を開き、返却印を押した。
ぽん、と乾いた音が響く。
印は犬だった。
「……それ、何だ?」
「返却印です」
「犬じゃねぇか」
「犬です」
真顔で返される。アウグストは押された犬の印をじっと見ていた。
やがて顔を上げると、本棚へ目を向けた。
「おすすめは」
レヴァインは耳を疑った。今、おすすめと言ったのか。リオンは少し考え、一冊の本を抜き取る。
「これなら好きかもしれません」
アウグストは表紙を見るだけで受け取り、中も開かず窓際へ向かった。迷いのない足取りだった。
席も、もう決まっている。
レヴァインは改めて店内を見回した。
豪華な店ではない。珍しい道具が並んでいるわけでもない。薬草の香りが静かに漂い、工具がきちんと並び、本棚が一つあるだけだ。それなのに、不思議と肩の力が抜ける。理由は分からない。戦場とはまるで違う。それだけは分かった。
しばらくして、アウグストが鞄から紙袋を取り出した。視線が自然とそこへ集まる。
「何だ?」
レヴァインが尋ねると、アウグストは中からパンを取り出した。犬の形をしている。丸い耳、丸い鼻、短い足。少し潰れているが、犬だ。市場で見つけた時から気になっていた。アウグストは窓辺を見た。木彫りの犬。それから手元の犬パン。
満足そうに頷く。
「似ている」
「何にだ」
窓辺を指さす。レヴァインは木彫りを見る。犬パンを見る。もう一度木彫りを見る。そして犬パンを見る。
「……まあ、言いたいことは分かる」
似ているような、似ていないような。絶妙なところだった。リオンも二つを見比べる。
「そうですか?」
「似ている」
迷いのない返事だった。
リオンは少し考えてから、小さく笑う。
「……そうですね」
完全に納得したわけではなさそうだ。それでも否定はしない。アウグストは犬パンを木彫りの隣へ並べた。窓辺に犬が二匹。アウグストだけが満足そうに頷いた。
「食べないのか?」
「食べる」
「じゃあ何で並べた」
アウグストは考え込む。沈黙が流れる。レヴァインは、また答えが出ないのだろうと思った。
やがてアウグストが口を開く。
「見せたかった」
ぽつりと、それだけ言った。レヴァインは思わず黙る。リオンも少しだけ目を丸くした。そうか。
見せたかった。ただ、それだけだった。
「ありがとうございます」
リオンは素直に頷く。アウグストも頷く。それで話は終わった。レヴァインは肩をすくめる。言いたいことはいくらでもある。だが、この二人には今のやり取りだけで十分なのだろう。
アウグストは犬パンをしばらく眺めると、耳からかじった。
「そこからなんだな」
「耳だ」
「そうか」
意味は分からない。分からないのに、笑ってしまう。店内には静かな時間が流れていた。アウグストは本を読む。リオンは工具を手に取る。ページをめくる音。小さく響く工具の音。窓から吹き込む風が薬草の香りを揺らしていく。会話はほとんどない。それでも誰も気まずそうにはしなかった。
レヴァインは窓際へ目を向ける。そこにいるのは、世界を救った勇者だ。王国中が名を知る英雄。けれど、この店では違う。本を読み、犬パンを並べ、くだらないことで満足している、一人の男だった。誰も勇者であることを求めない。戦えとも、期待にも応えろとも言わない。ただ、そこにいることを受け入れている。その景色を眺めているうちに、不意に思う。ああ。こいつは、ここでは戦わなくていいのか。レヴァインは小さく笑った。
「お前、変わったな」
アウグストは顔を上げる。少し考えてから首を傾げた。
「そうか?」
本気で分かっていないらしい。レヴァインは笑う。変わったことにも。毎日ここへ通う理由にも。本人だけがまだ気づいていない。それでいいのだと思えた。帰る時間になる。
「また明日」
「はい。また明日」
自然に交わされる言葉だった。鈴が鳴り、二人を見送る。静けさの戻った店で、リオンは帳簿を閉じかけ、ふと窓辺を見る。木彫りの犬だけが残っている。ついさっきまで犬パンが並んでいた場所は、もう空いていた。犬を見つめ、小さくつぶやく。
「似ていましたかね」
返事はない。それでも思い出す。
嬉しそうに「似ている」と言い切った勇者の顔を。自然と笑みがこぼれた。
窓の外では、夕日が静かに王都を茜色へ染めていた。




