第4話 馴染む午後
昼前の道具屋には、工具の音だけが小さく響いていた。
カラン。
扉の鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
リオンが顔を上げる。
アウグストは軽く頷くだけで、窓際の席へ向かった。本を開く。その動作にも、もう迷いはない。三日前ならどこか落ち着かなかったはずなのに、今では自然と体がそう動いていた。
旅人は今日も旅をしている。
川を渡り、町へ入り、市場を歩く。特別な出来事は何も起こらない。それでもページは少しずつ進み、アウグストもまた、その何気ない旅路を受け入れ始めていた。
再び鈴が鳴る。
入ってきたのは白髪の老婆だった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
老婆は古いランタンを差し出す。
「また壊れちゃってねぇ」
「見てみますね」
リオンは受け取り、金具の歪みを確かめる。内部をのぞき込み、油の残りを確認しながら工具を選んだ。手際は決して速くない。けれど、ためらいもない。ひとつひとつの工程を確かめるように進めていく。
待っている間、老婆は店内を見回した。
窓際の席、本、薬草の香り、湯気の立つ薬草茶。
そして、アウグストと目が合う。
「おや」
「こんにちは」
短いやり取りのあと、互いに目をそらさない。
「知り合いかい?」
「知らない」
アウグストが答える。
「知らないですね」
リオンも穏やかに続けた。
老婆は二人を見比べ、楽しそうに笑う。
「そうかい」
それ以上は聞かなかった。
リオンは歪んだ金具を少しずつ戻していく。
壊れたものを力任せに直すのではない。元の形を思い出させるような、静かな作業だった。
「こういうのは急ぐと壊れますから」
誰に向けるでもなく漏れた言葉に、老婆は「そういうもんかねぇ」と笑う。
アウグストは本から顔を上げないまま、そのやり取りだけを聞いていた。
壊れたものは使い潰すものだと思っていた。
直して、また使う。
そんな当たり前が、ここにはある。
やがてランタンに火が灯る。
揺れの少ない柔らかな明かりに、老婆は満足そうに頷いた。
「いいねぇ、これでしばらくは安心だ」
「ええ。当分は大丈夫ですよ」
控えめな返事だった。
老婆を見送ると、店内は再び静けさを取り戻す。
それでも火を扱ったあとの、かすかな油の匂いだけは残っていた。
リオンは窓を少し開ける。吹き込んだ風が匂いをさらい、代わりに外の空気を運んでくる。
アウグストはページを押さえたまま、その様子を眺めていた。王都の真ん中にある店なのに、不思議と外の喧騒は遠い。聞こえないわけではない。
届く頃には角が取れ、柔らかな音になっている。
外より少し、この店の時間はゆっくり流れているようだ。急がなくても、誰も困らない。
そのことに、ようやく身体が慣れ始めていた。
リオンは工具を元の場所へ戻し、机を布で拭く。
いつもと同じ動き。無駄はない。それでいて急いでいるようにも見えなかった。時間に追われているのではなく、自分の時間を静かに積み重ねているようだった。
アウグストは再び本へ視線を落とした。
旅人はまだ町を出ていない。市場を歩き、店主と言葉を交わし、何気ない一日が静かに過ぎていく。それだけなのに、不思議と続きを読んでしまう。ページをめくる。今度は雨だった。傘を持たない旅人は濡れながら歩いている。誰も慌てず、雨を避けようともしない。不便ではあっても、敵ではない。そんなふうに書かれていた。
アウグストは窓の外へ目を向ける。
雲はゆっくりと流れている。雨の気配はない。それでも、本の中の空とどこかつながっているような気がした。
「本、面白いですか」
いつの間にか作業を終えたリオンが声をかける。
アウグストは少し考えた。
「分からない」
正直な答えだった。
「でも、気になる」
「それは面白いってことですね」
リオンは笑う。アウグストは否定も肯定もせず、もう一度ページをめくる。
しばらくは紙をめくる音だけが店に響いた。
やがてその音も止み、また店は落ち着きを取り戻した。
「よく来ますね」
リオンがぽつりと言う。アウグストは考える。
確かに、毎日のようにここへ来ている。
「そうか」
「そうです」
短いやり取りに、どちらも小さく笑った。
理由を探そうとして、本へ目を落とす。
「本があるからな」
「ありますね」
その返事が妙にしっくりきて、それ以上言葉は続かなかった。リオンは湯呑みを一つ運んでくる。
「余ったので」
薬草茶だった。湯気と一緒に、店いっぱいに広がる薬草の香りが立ち上る。アウグストは湯呑みを包むように持った。戦場では、湯気を眺める時間などなかった。冷める前に飲み干し、すぐに動く。それが当たり前だった。ここでは違う。少し冷めるのを待っても、誰も急かさない。その時間さえ、この店の一部だった。一口飲む。
「うまい」
「ありがとうございます」
窓から差し込む光は、いつの間にか柔らかな橙色へ変わっていた。本の続きを読み終えたわけではない。それでも今日はここまででいいと思えた。
「閉店です」
リオンが声をかける。
アウグストは立ち上がり、窓辺へ目を向けた。
木彫りの犬が置かれている。犬なのかどうか、今でもよく分からない形だ。それでも、少し見慣れてきた。何となく手を伸ばし、こちらを向くようにそっと向きを変える。
「また明日」
「はい。また明日」
リオンは穏やかに頷く。
鈴が鳴り、扉が閉まる。
外へ出ると、石畳は夕日に照らされていた。
本を抱え直し、ゆっくり歩き出す。歩幅は変わらない。けれど、足元の石畳や頬をなでる風が、昨日より近く感じられた。
店では、リオンが帳簿を閉じかけて窓辺を見る。
木彫りの犬はこちらを向いていた。昼とは違う向きだ。少し考え、そのままにしておく。
こちらを向いているほうが、この店らしい気がした。
帳簿を閉じる。
窓の外では、夕日が王都をやさしく染めていた。




