第3話 旅の続き
アウグストは本を抱えて道具屋へ向かっていた。
昨日借りた本は、昨夜のうちに読み終えていた。
橋を渡り、市場を歩き、宿屋で一夜を過ごした旅人は、最後まで特別なことをしなかった。それなのに面白かった。だから今日も来た。理由はそれで十分な気がした。
扉を開く。
カラン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
リオンが顔を上げる。
昨日と変わらない声だった。
アウグストは抱えていた本を差し出す。
「読んだ」
「早いですね」
驚いたようにリオンが言う。
「面白かった」
「それは良かったです」
本を受け取り、棚へ戻す。
それで終わりかと思ったが、リオンは貸出帳を開いた。昨日書かれた名前を確認する。
それから引き出しから小さな木箱を取り出した。
中には木製の印が並んでいた。一本を選び、帳簿へ押す。ぽん、と乾いた音が響く。
「何だ」
「返却印です」
貸出帳を向けられる。小さな犬の絵が押されていた。尻尾を振っている犬だった。
「本が戻ってきた印です」
アウグストは犬の印と帳簿を見比べた。
「必要なのか」
「なくても困りません。
でも、あった方が少し楽しいので」
なるほど。必要ではないらしい。アウグストは頷いた。
「そうか」
リオンは帳簿を閉じる。それで用事は終わったはずだった。アウグストは窓際を見る。
昨日と同じように、窓際は空いていた。
一瞬考える。本は返した。帰ってもいい。だが、気づけば窓際へ向かっていた。椅子へ腰を下ろす。
リオンは何も言わなかった。帰れとも、なぜ座るか理由を聞かない。
ただ作業へ戻る。静かな工具の音が店内へ響いた。
しばらくして、リオンが棚から一冊の本を抜き取る。
「これも読みますか」
差し出された表紙を見る。
『旅人の手記Ⅱ』
昨日と同じ作者だった。
「続きです」
アウグストは本を受け取る。表紙を開きかけてから、まだ借りると決めたわけではなかったことに気づく。手が止まった。リオンは何も言わない。ただどこか面白そうな顔をしていた。アウグストは結局、本を開いた。旅人はまだ旅を続けていた。橋の向こう、次の町、市場、宿屋。相変わらず何も起きない。それでも自然とページをめくっていた。ふと、工具の音が止まる。顔を上げると、リオンが木箱を磨いていた。古い小物入れらしい。角に細かな傷がある。
「それは何だ」
「小物入れです」
「壊れているようには見えない」
「傷があるんですよ」
そう言って木目をなぞる。確かに傷はあった。
だが言われなければ気づかない程度だった。
「直す必要があるのか」
「使うだけなら問題ありません」
リオンは丁寧に布を動かす。
「でも持ち主は気になったみたいです」
アウグストは小箱を見る。戦場なら誰も気にしない傷だった。剣にも鎧にも、もっと大きな傷がつく。そんなものはいくらでも見てきた。だがリオンは見過ごさない。小さな傷を消そうとしている。
「そういうものか」
「そういうものです」
リオンは頷く。そしてまた手を動かした。
少しずつ。本当に少しずつ。傷は目立たなくなっていく。アウグストはしばらくその様子を見ていた。
「大変だな」
思わず口から出る。リオンは顔を上げた。
「そうですか?」
「もっと適当でもいい」
するとリオンは少し考えた。
それから穏やかに笑う。
「それだと気になるんです」
その返事は妙に納得できた。だからこの店は落ち着くのかもしれない。窓から風が入る。
本のページが揺れる。リオンは作業を続け、
アウグストは本を読む。会話は終わった。
けれど沈黙は重くなかった。むしろ心地良かった。
窓から差し込む光が赤く染まりはじめる。
「閉店です」
アウグストは本を閉じる。旅人はまだ旅の途中だった。続きが残っている。
「また途中だ」
「旅は長いですから」
リオンが言う。アウグストは小さく頷いた。
貸出帳へ名前を書く。慣れない手つきだった。
本を抱えて立ち上がる。扉へ向かう。その途中で、ふと振り返った。夕日に染まる窓際、木彫りの犬、工具の触れ合う音だけが残る店。
なぜか、その光景をもう一度見ておきたくなった。
「また明日」
気づけば口にしていた。リオンは一瞬だけ目を丸くする。それから小さく笑った。
「はい。また明日」
鈴が鳴る。扉が閉まる。
店を出ると、夕暮れの空気はひんやりしていた。
アウグストは本を抱えたまま、ゆっくりと王都の通りを歩く。人の流れは昼よりも少ない。帰る者、店を閉める者、それぞれの音だけが残っている。ふと、足元の石畳に視線が落ちる。石畳を踏む音が、昨日より少し軽く聞こえた。
帰り道。
アウグストは本を抱え直した。
明日も続きを読もう。
そう思いながら、石畳を歩いた。




