第2話 窓際の席
朝の光が部屋に差し込んでいた。柔らかい風がゆっくりカーテンを揺らす。目を覚ましたアウグストは、考えるより先に城門を出ていた。任務はなく、呼び出しもない。足は自然と昨日と同じ道を選んでいた。理由は分からなかった。
王都はまだ人の気配もまばらだった。
石畳には夜の冷たさが残り、店を開ける準備をする人々の姿が見える。歩いているうちに、小さな看板が目に入った。道具屋リオン。
昨日と同じ場所。見慣れた木彫りの犬。
朝日を浴びても、やはり犬には見えにくい。
アウグストはしばらく眺めてから扉を開けた。
鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主は工具を置いて顔を上げる。驚きも歓迎もない。昨日の続きのような自然さだけがあった。アウグストは何も言わず窓際へ向かう。昨日座った椅子は今日も空いていた。腰を下ろす。不思議と落ち着いた。工具が木を削る音が静かに響く。
カリ。カリ。カリ。昨日と同じ音だった。
それを聞いているだけで時間がゆっくり流れていく。
しばらくして、視線が棚へ向いた。古い本が何冊か並んでいる。旅、市場、宿、橋。題名だけみてもよくわからないものが多かった。
「本、好きなんですか」
作業を続けたままリオンが聞く。
「読まない」
「読まない、ですか」
「あまり」
戦術書、魔物図鑑。必要だから読んだ。
それ以外は知らない。
「暇な時間は?」
「訓練」
「その前は」
「訓練」
「子供の頃は」
「訓練」
リオンは少しだけ黙った。
「ずっとですね」
「そうだ」
アウグストにとって、それは当たり前だった。
剣を覚え、魔物を倒し、生き残る。それだけで毎日が終わっていた。本を読む理由などなかった。
リオンは本棚へ歩いていく。しばらく背表紙を眺め、一冊だけ抜き取った。擦り切れた革表紙だった。
「これはどうですか」
表紙には小さく題名が書かれている。
『旅人の手記』
「英雄譚じゃありません」
「そうか」
「旅をした人の日記です」
アウグストは本を受け取った。
軽い。剣よりずっと軽い。それだけなのに、なぜか落とさないよう慎重に持っていた。
最初のページを開く。旅人は橋を渡っていた。
それだけだった。魔物も、盗賊も出ない。橋を渡り、宿へ泊まり、市場を歩き、景色を眺める。ただそれだけの日記だった。
それでも、ページをめくる手が止まらない。橋の向こうにはどんな町があるのだろう。宿屋の主人はどんな人なのだろう。気づけば、そんなことを考えながら読んでいた。
途中でリオンがお茶を置いた。
「どうぞ」
薬草茶だった。昨日と同じ香りがする。
一口飲む。それからまた本へ戻る。気づけば昼を過ぎていた。さらにページをめくる。旅人は市場で道に迷っていた。知らない老人と話をして、橋を渡り、宿で眠っている。何も起きない。なのに続きが気になった。
ふと顔を上げる。
リオンは工具を磨いている。
カリ。カリ。カリ。
一定の音が心地よかった。王城では誰かが急ぎ足で廊下を歩く。騎士団では命令が飛び交う。
戦場では剣が鳴る。ここでは、剣の音は聞こえない。ただ静かな時間だけが流れていた。いつの間にか窓の外は赤く染まり始めていた。
「閉店です」
その声で本から顔を上げる。本は半分ほどしか読めていなかった。アウグストは名残惜しそうに表紙を見る。
「続きがある」
「ありますよ」
当然のような返事だった。アウグストは少し迷う。
「借りられるか」
「もちろんです」
リオンは一冊の帳面を持ってきた。貸出帳だった。
「名前だけお願いします」
ペンを受け取る。剣は毎日握ってきた。だがペンは慣れない。わずかに文字が歪になる。
『アウグスト』
それだけ書いて返した。リオンは帳面を閉じる。
「返しに来てください」
「返す」
短い約束だった。
店を出る。本は脇に抱えた。
広場では子供たちが遊んでいる。
「俺が勇者アウグストだ!」
木の枝を掲げる声が聞こえた。いつもなら、その声に足が止まっていたかもしれない。だが今日は違った。腕の中の本が気になっていた。橋の先がどうなるのか。旅人は次にどこへ行くのか。その続きを知りたかった。
夕暮れの王都を歩きながら、アウグストは初めて思う。早く続きを読みたい。
窓の外はすっかり暗くなっていた。店を閉めたリオンは貸出帳を棚へ戻した。今日の欄には一行だけ名前が増えている。『アウグスト』窓際の席を見る。誰もいない。それでも、不思議とまた座る気がした。本を返しに来るだけなら、それでいい。そう思いながら、窓際の席を見つめていた。
リオンは灯りを消した。
静かな店に、木彫りの犬だけが残っていた。




