第1話 道具屋リオン
王都の広場では、今日も子供たちが遊んでいた。
「俺が勇者アウグストだ!」
勇者役の少年が木の枝を高く掲げる。
「魔王を倒せー!」
「うおぉぉぉお!」
歓声とともに魔王役の子供が大げさに倒れ込み、それを見守る大人たちから笑い声が上がった。
「また勇者ごっこか」
「最近は毎日だねぇ」
「そりゃそうさ。本物の勇者様が王都にいるんだから」
子供たちは知らない。
自分たちが憧れるその勇者が、今この瞬間、王都の通りを一人で歩いていることを。
魔王討伐から一年。
世界は少しずつ平和を取り戻していた。
魔物がすべて消えたわけではない。それでも街道は整えられ、壊れた町には人が戻り、旅人たちは再び各地を行き交うようになった。
その平和を築いた英雄が、勇者アウグストだった。王城へ行けば歓迎される。騎士団へ顔を出せば頼られる。酒場へ立ち寄れば、祝い酒が運ばれてくる。誰もが勇者を必要としていた。だからきっと、居場所はある。少なくとも周囲はそう信じていた。アウグスト自身も、それを否定する理由はなかった。
気づけば王都を歩いている。目的もなく、理由も分からないまま。知らない路地へ入り、小さな店が並ぶ通りへ出た。そこで、ふと足が止まる。
古びた木の看板。そこには、道具屋リオンと書かれていた。今日で三度目だった。
一昨日も、昨日も。
王城を出ると、なぜかここまで来てしまう。
どうしてなのか、自分でも分からない。店先の窓辺には、一匹の木彫りが飾られていた。犬...だと思う。耳は少し大きく、足は短い。
全体的に丸く、どこか頼りない形をしている。
勇者として数え切れないほどの魔獣を見てきたが、こんな犬は見たことがなかった。不思議と目を引く。通りを眺める横顔は、どこかのんびりとしていた。
「犬か」
思わず呟く。
返事をする者はいない。もう少し見ていたくなった。何か買う予定はない。剣も鎧も足りている。
薬草も十分ある。それなのに、扉から目が離れなかった。
やがて手が伸びる。
扉を開くと、小さく鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
店の奥から青年が顔を上げた。
二十代前半くらいだろうか。作業の手を止め、こちらを見る。勇者を見つけた驚きも、英雄を迎える緊張もない。ただ客が来た。それだけの視線だった。アウグストも青年を見る。青年もアウグストを見る。しばらくして青年が口を開いた。
「何かお探しですか」
「分からない」
自然と答えていた。
それしか答えようがなかった。何を探してここへ来たのか、自分でも分からない。
青年は目を瞬かせる。だが困った様子も笑う様子もなく、小さく頷いた。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
変な客だと思われてもおかしくない返事だった。
それでも青年は受け入れた。不思議な店主だった。ふと窓辺へ目を向ける。さっきまで外から見ていた木彫りが、今度は店の中からこちらを見ていた。
「犬か」
もう一度尋ねる。店主も木彫りへ視線を向けた。
「犬です」
迷いのない返事だった。
「そうか」
「犬です」
もう一度言う。あまりに真面目なので、アウグストも木彫りを見直した。やはり犬……なのだろう。たぶん。
店内を見回す。薬草、旅用品、工具、古い地図。
そして窓際に一脚だけ置かれた椅子。午後の日差しが静かに差し込んでいる。特別な席には見えない。それなのになぜかそこへ座りたいと思った。アウグストは椅子へ腰を下ろす。窓の外では人が行き交い、遠くで子供たちの笑い声が聞こえていた。王都は今日も賑やかだった。けれど、この店だけは別の時間が流れているようだった。
店主は何も言わず作業へ戻る。
工具が木を削る音だけが静かに響く。
カリ。カリ。カリ。
急ぐことも、止まることもなく、一定の調子で音が続く。アウグストは、その音をぼんやりと聞いていた。
どれくらい時間が過ぎただろう。店主がふと顔を上げた。
「お茶でも飲みますか」
「茶か」
「余ったので」
断る理由はなかった。アウグストが頷くと、店主は小さく笑って奥へ引っ込む。やがて湯気の立つ湯呑みが運ばれてきた。薬草茶だった。湯気とともに、やわらかな香りが立ちのぼる。一口飲む。飲み慣れた薬草茶のはずなのに、どこか違った。苦味は少なく、あとからほのかな甘みが残る。戦場で口にした保存用の薬草茶とは別の飲み物のようだった。
「うまい」
思わず声が漏れた。店主は少しだけ目を丸くしたあと、小さく会釈する。
「ありがとうございます」
それだけだった。勧めた理由も聞かない。感想を求めることもしない。静かな時間が戻る。
工具の音。
窓の外を行き交う人々。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
どれも静かに耳へ届いていた。王城も、騎士団も、酒場でも、どこへ行っても誰かが声を掛けてくる。けれど、この店では誰も何も求めなかった。
勇者だからといって話しかけられることもない。
英雄だからと感謝されることもない。ただ一人の客として、そこにいることが許されていた。それが、心地よかった。
気づけば陽は西へ傾いていた。窓から差し込む光が赤みを帯び、店の中をやわらかく染めていく。
店主は作業を終えると、工具を丁寧に片付け始めた。
「閉店です」
穏やかな声だった。アウグストは立ち上がる。
店内をゆっくり見回した。薬草、旅用品、工具、窓辺の木彫りの犬、そして、一脚の椅子。何一つ特別ではない。それなのに、帰るのが少し惜しい気がした。
扉へ向かう。鈴が小さく鳴る。その背中へ、店主が声を掛けた。
「またどうぞ」
客への挨拶だった。きっと誰にでも言う言葉だ。特別な意味などない。アウグストもそう思った。
「……ああ」
短く返事をして店を出る。
外には夕暮れの王都が広がっていた。子供たちの声が風に乗って聞こえてくる。きっと今日もどこかで勇者ごっこをしているのだろう。アウグストは一度だけ振り返った。小さな道具屋、窓辺の席、犬……と言われれば犬に見える木彫り、静かに仕事を続ける店主。どれも、ほんの数刻前までは知らなかった景色だった。それなのに、なぜか懐かしい場所のように思えた。理由は分からない。けれど、明日も来よう。そんな考えが、ごく自然に浮かんでいた。自分でも少し不思議だった。
夕暮れの王都を歩き出す。王城へ戻れば、報告がある。書類に目を通し、形式的な会話を交わし、今日も一日が終わる。いつもと同じ夜だ。
自室へ戻り、剣を壁に掛け、鎧を外す。
広い部屋には誰もいない。静かだった。
静かなはずなのに、どこか落ち着かなかった。窓を開ける。王都の灯りが夜空の下に広がっている。人々が安心して眠れる景色。守りたかった世界。その光景を眺めながら、今日のことを思い返す。戦ったわけでもない。褒められたわけでもない。誰かを助けたわけでもない。小さな店で茶を飲み、静かな時間を過ごしただけだった。それでも今日一日を振り返ったとき思い出すのは、その時間だった。




