第10話 雨音
雨は夜になっても止まなかった。屋根を打つ音が途切れず続き、灯りを落とした店の中にも、その音だけが残っている。
一度は眠ったはずだった。
雨脚が強くなったところで、アウグストは目を覚ました。毛布の中から天井を見る。眠れないわけではない。もう一度眠るには、まだ時間がかかりそうだった。
枕元の机へ手を伸ばし、本を取る。
読みかけの頁を開くと、旅人は宿を出たところだった。朝靄の残る街道を歩き、雨宿りをした村をあとにして、次の町へ向かっている。
何も起きない。
旅人はただ歩いていた。
頁をめくるうち、屋根を叩く雨の音が遠くなっていく。
その頃、二階ではリオンも目を覚ましていた。
喉が渇いた。
水を飲もうと階段を下りる。灯りの消えた店内を進んでいると、倉庫の扉から細い光が漏れているのに気づいた。
まだ起きているらしい。
扉を二度叩く。
「起こしましたか」
声を落とす。
中で紙の擦れる音がした。
アウグストが顔を上げ、本を閉じる。
「いや」
首を振った。
「雨で目が覚めた」
「眠れませんか」
「そのうち眠る」
昼間と変わらない声だった。
リオンは本を見る。
「本、面白いですか」
「面白い」
「どの辺がですか」
アウグストは開いたページへ目を落とした。
「宿屋」
「宿屋ですか」
「泊まる」
「はい」
「飯を食う」
「そうですね」
「また歩く」
リオンは本のページを覗き込んだ。
「何も起きませんね」
「起きない」
「それがいいんですか」
アウグストは答えなかった。
指をページに挟んだまま、本を見ている。
屋根を叩く音が続いていた。
「……安心する」
リオンが顔を上げた。
「戦う話よりですか」
「ああ」
「どうしてでしょう」
「分からん」
アウグストはそこで黙った。
しばらくして、ページをめくる。
「でも、安心する」
リオンは倉庫の中へ視線を巡らせた。
棚には乾いた薬草が並んでいる。木箱の上には修理を待つ道具。壁際には剣が立て掛けられていた。
剣のそばで、アウグストは旅人の話を読んでいる。
「僕は逆でした」
アウグストが顔を上げる。
「子どもの頃は、冒険譚ばかり読んでいました」
「そうか」
「英雄が魔物を倒して、お姫様を助けて」
リオンはそこで言葉を切った。
「そういう話が好きだったんです」
雨音が二人の間を埋める。
「でも、大人になると旅日記ばかり読むようになりました」
「なぜだ」
「分かりません」
リオンは自分でもおかしそうに息を吐いた。
「ただ……橋を渡るとか、市場を歩くとか、宿へ泊まるとか。そういう話を読んでいる方が、落ち着くようになって」
アウグストは黙って聞いていた。
「不思議ですね」
「何がだ」
「何も起きない話なのに」
「起きている」
返事は早かった。
「旅をしている」
リオンは目を瞬いた。
「あ……」
本を見る。
「そうですね」
「歩いて」
「はい」
「橋を渡る」
「渡ります」
「宿へ泊まる」
「泊まります」
アウグストは本を閉じた。
「十分だ」
リオンは扉の縁に置いた手を見る。
「勇者らしくない考えですね」
アウグストは首を傾げた。
「僕は好きですよ」
アウグストは返事をしなかった。
机へ本を置き、毛布を引き寄せる。
「眠くなった」
「それなら良かったです」
リオンが扉を閉めかけたところで、顔を上げた。
「あ」
「なんだ」
「朝ご飯に苦手なものはありますか」
「ない」
アウグストは答えてから、考えた。
「犬以外」
リオンの手が止まった。
「犬は出しませんよ」
「そうか」
「安心してください」
「安心した」
リオンは吹き出した。
「分かりました。朝ご飯には出しません」
「頼む」
「それでは、おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が閉じる。
店の中には雨音だけが残った。
アウグストは毛布を肩まで引き上げ、枕元の本へ目を向ける。棚に置かれた薬草から、乾いた匂いが漂っていた。
ページを開くことはなかった。
目を閉じる。
雨は、まだ降っている。
その音を聞きながら、アウグストは眠りへ落ちていった。




