第11話 勇者は帰らない
昨日の雨が嘘のような青空が広がっていた。雨に洗われた石畳は朝日がさし、窓を開けると澄んだ風が薬草の香りを運んでくる。リオンは身支度を整え、一階へ降りた。店内はいつもと変わらない。ただ一つ、いつもと違うことがあった。
倉庫から、ページをめくる音が聞こえる。思わず笑みがこぼれる。扉を軽く叩いた。
「起きていますか」
「起きている」
すぐに返事が返る。
「よく眠れましたか」
「寝た」
しばらくしてアウグストが倉庫から出てくる。
手には読みかけの旅の本。昨日と同じ無表情だったが、もう、そこにいるのが当たり前のようだった。
二人は簡単な朝食を囲む。
焼きたてのパンをちぎり、スープを口に運ぶ。ほとんど会話はない。
それでも気まずさはなかった。
食べ終える頃には開店の時間だった。扉を開けると朝の風が吹き抜ける。一日が始まった。
昼頃、常連の老夫婦が店を訪れた。
薬草を選びながら、おばあさんが窓際へ目を向ける。
「あら、今日もいるねぇ」
本を読んでいるアウグストを見て笑った。
「いますね」
リオンもつられて笑う。
「今日も来たのかい」
「昨日からいます」
老夫婦は顔を見合わせた。
「昨日から?」
「泊まりました」
「勇者様が?」
「勇者様が」
二人はもう一度顔を見合わせる。どうやら、まだ話が飲み込めないらしい。一方のアウグストは、本から顔も上げない。聞こえているはずなのに、まるで気にしていなかった。
「変わった勇者様だねぇ」
「そうですね」
否定はできなかった。老夫婦が帰ると、店の中にはまた紙をめくる音と、薬草を扱う音が戻ってきた。
薬草を棚へ並べながら、ふと違和感を覚えた。窓際からページをめくる音が聞こえない。見ると、アウグストは本を閉じ、窓の外を眺めていた。昨日までの雨が嘘のような青空。白い雲がゆっくり流れていく。
「どうかしましたか」
「考えていた」
珍しく、すぐ返事が返った。
「何をですか」
「帰ることを」
リオンの手が止まる。
「ご自宅ですか」
「家はある」
「……そうですよね」
「帰ろうと思えば帰れる」
そこでも言葉が途切れる。アウグストは窓から視線を外し、店の中を見渡した。本棚、窓際の席、木彫りの犬。見慣れた景色をゆっくり見渡す。
「急ぐ理由が思いつかなかった」
リオンは思わず笑う。
「それは困りましたね」
「困っている」
本人はいたって真面目だった。
「でも、ずっとここにいるわけにもいきませんよ」
「ああ」
アウグストはそれ以上、何も言わなかった。
西日が窓から差し込み、店の中を柔らかな橙色に染めていく。工具を片付ける音だけが響く。
「明日から遠征だ」
アウグストがぽつりと言った。リオンは顔を上げる。
「そうなんですか」
「ああ」
「どれくらいです」
「十日ほど」
少し考えてから付け加える。
「延びるかもしれん」
リオンはそこでようやく気づいた。
帰ることを考えていた理由。昨日から店にいる理由。全部、明日からしばらく来られなくなるからだった。リオンは返事をせず、手にしていた布を作業台へ置いた。
「気を付けてください」
「ああ」
アウグストはリオンを見る。
「戻る」
「お待ちしています」
言ってから、自分でも驚いた。
アウグストは何も言わない。ただ、本を手元の本を閉じた。
閉店の時間になる。帳簿を閉じる音、本を閉じる音。店の明かりが一つずつ落ちていく。
「今日は倉庫ですね」
「ああ」
「明日は朝が早いんですよね」
「早い」
「それでも、ここなんですね」
少しだけ考えてから、アウグストは答えた。
「ここも落ち着く」
飾らない一言だった。リオンは笑って、棚から毛布を取り出した。
「仕方のない人ですね」
そう言いながら毛布を倉庫へ運ぶ。
店の明かりが落ちる。倉庫ではアウグストが毛布に入り、本を机へ置いた。王城の部屋より狭い。
邸宅より不便だ。それでも薬草の香りが残るこの場所は、不思議なくらい心が落ち着いた。明日からしばらく来られない。アウグストは目を閉じた。窓の外では星が瞬き始めている。眠りは、すぐに訪れた。




