第12話 見送り
朝の王都は、雲ひとつない青空だった。
店先を掃く箒の音だけが、通りに響いている。リオンは掃除を終えると、戸口から空を見上げた。風は穏やかで、薬草の香りをゆっくりと店の中へ運んでくる。店を開ける準備を終える頃、倉庫の扉がそっと開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
アウグストは昨夜と変わらない姿で店へ出てくる。手には読みかけの旅の本だけ。そのまま窓際の席へ腰を下ろし、何事もなかったように続きを読み始めた。リオンも工具を並べ、薬草を棚へ戻す。工具を磨く音、薬草を束ねる音、ページをめくる音、店の中には、いつもと変わらない朝が流れていた。
「出発まで時間があるんですか」
作業の合間に尋ねる。
「ああ。少しだけ」
それ以上は話さない。リオンも無理に続けなかった。
やがて店の外から馬のいななきが聞こえる。鎧の触れ合う音も近づいてきた。しばらくすると、店の前で足音が止まる。カラン、と鈴が鳴った。入ってきたのは若い騎士だった。
「勇者殿、お迎えに参りました」
「ああ」
アウグストは本を閉じる。騎士は慣れた様子で大きな荷袋を差し出した。
「装備もこちらに」
荷袋はすでに用意されていたらしい。アウグストは荷袋を受け取り、腰へ剣を下げる。その一連の動作は手慣れていて、あっという間にいつもの勇者の姿へ戻っていた。
「遠征にも持っていくんですね」
アウグストは荷袋へ本をしまう。
「ああ」
「続きが気になる」
真面目な声だった。
「汚さないでくださいね」
「努力する」
リオンは思わず笑みをこぼす。
騎士も不思議そうに二人を見比べていた。勇者が遠征へ向かう直前まで、本の返却を気にしているとは思わなかったのだろう。アウグストは荷袋の口を閉じる。騎士が一歩後ろへ下がった。
「そろそろ、お時間です」
「ああ」
リオンも工具を置いた。
「気を付けてください」
アウグストは頷く。
「ああ」
扉へ向かう。鈴が小さく鳴る。あと一歩で外へ出るところで、不意に足が止まった。振り返る。何か言おうとしているらしい。けれど、なかなか言葉が見つからない。長い沈黙が流れる。リオンは急かさず待っていた。やがて、アウグストがぽつりと口を開く。
「……返すのが遅れる」
「え?」
「返すのが」
荷袋を軽く叩く。中には借りた旅の本が入っている。リオンは一瞬きょとんとした。
「急ぎません。帰ってきてから返してください」
「ああ」
その声はどこか安心したように聞こえた。今度こそ店を出る。外では騎士団が整列していた。人々が勇者へ向かって手を振る。
「勇者様!」
「お気を付けて!」
子どもたちの歓声が通りへ響く。その列の先頭を歩く姿は、誰もが知る英雄そのものだった。リオンは店先へ出て、その背中を見送る。やがて列は通りの角を曲がり、ゆっくり見えなくなった。
店へ戻る。窓際の席は空いていた。ついさっきまで誰かが座っていた気配だけが残っている。
貸出帳を開く。
『アウグスト』
その名前の横に、新しい貸出の日付が並んでいた。指先でそっとなぞる。
「急ぎませんから」
誰に聞かせるでもない、小さな独り言だった。それだけのはずなのに、自然と窓際へ目が向く。きっと遠征が終われば、またあの席に座る。本を返して、新しい一冊を借りる。そんな何気ない光景が、この店の日常になっていた。リオンは貸出帳を閉じ、いつものように工具を手に取る。店の一日は、静かに続いていく。




