第13話 空いた席
今日も道具屋は、穏やかな朝を迎えていた。リオンが窓を開けると、柔らかな風が店の中をゆっくりと通り抜ける。薬草棚からほのかな香りが漂い、天井から吊るした乾燥ハーブがかすかに揺れた。作業台を拭き、修理待ちの品を並べる。帳簿を開き、その日の依頼へ目を通す。
いつもと変わらない朝だった。ただ一つ、窓際の椅子だけが空いている。アウグストが遠征へ出て三日。店を出る間際、
「しばらく来ない」
そう言い残した姿を、ふと思い出す。理由も説明もなく、それでも十分伝わる一言だった。リオンはその時と同じように、息を吐いて工具を手に取る。
今日最初の依頼は古いランタンだった。
蝶番が歪み、蓋がきちんと閉まらなくなっている。金具を外し、少しずつ力を加える。焦れば金属は折れ、急げば形が崩れる。少し直しては確かめ、また手を加える。静かな作業だった。やがて蓋が吸い付くように閉じる。
「これで大丈夫ですね」
布で表面を磨く。磨かれた硝子へ窓の光が映り込んだ。何気なく顔を上げる。窓際には誰もいない。息をついて、ランタンを棚へ置いた。
続いて手に取ったのは、子ども用の木剣だった。
柄がぐらついている。広場で思い切り振り回したのだろう。接合部を外し、新しい木材を削っていく。さらさらと木屑が机へ積もる。そういえば最近、広場では勇者ごっこが流行っていると常連客が話していた。勇者役は取り合いになるらしい。
本人が知ったらどんな反応をするだろう。
「そうか」
きっと、それだけ言って首を傾げる。そんな姿が自然に思い浮かび、思わず笑みがこぼれた。削り終えた柄を差し込み、軽く振る。今度はぐらつかない。満足して棚へ戻そうとしたところで、扉の鈴が鳴った。
「こんにちは」
近所の主婦だった。
「いつもの薬草をお願いします」
「はい」
棚から乾燥薬草を取り出し、秤へ載せる。薬草が触れ合う乾いた音だけが店内へ響いた。袋へ詰めながら、主婦が何気なく店を見回す。
「最近、勇者様を見かけませんね」
「遠征へ行かれました」
「ああ、そうでしたか」
主婦は納得したように頷いた。
「毎日のようにここで見かけていたから、何だか変な感じがして」
その言葉に、リオンの手がほんの少し止まる。
「そうですね」
袋を渡し、代金を受け取る。
「お気を付けて」
「ありがとうございます」
鈴が鳴り、客が帰っていく。
再び店は静けさを取り戻した。耳に届くのは工具の音だけ。いつもなら、その合間に頁をめくる乾いた音が混ざっていた。その違いに気付いてしまい、リオンは苦笑する。気のせいだと思い、次の修理品へ手を伸ばす。古びた革袋だった。擦り切れた縫い目をほどき、新しい糸を通していく。一針ずつ縫い合わせるたび、革が少しずつ形を取り戻していく。
作業に集中していたはずなのに、不意に顔が上がった。窓際。もちろん誰もいない。
「……癖ですね」
誰に聞かせるでもなく呟き、針を持ち直す。
やがて腹が小さく鳴った。
時計を見ると、昼を少し回っている。店の奥で鍋を火に掛け、簡単な野菜のスープを温める。固いパンを切り分け、棚から湯呑みを取り出した。
一つ。もう一つ。そこで手が止まる。しばらく眺めた。
「……違いました」
二つ目を棚へ戻し、薬草茶は一杯だけ淹れる。
湯気が静かに立ち上る。そのまま窓際へ運びかけて足を止めた。少し迷ってから、いつものように作業台へ腰を下ろす。薬草茶を口に含み、本棚へ目を向ける。旅人の手記、市場の記録、古い街道案内。並びは三日前と何一つ変わらない。変わったのは、それを手に取る人が今はいないということだけだった。西日が少しずつ店の奥まで差し込んできた。客足が落ち着くと、リオンは本棚の整理を始める。一冊ずつ背表紙を揃え、表紙を軽く払って元の場所へ戻していく。旅人の手記、市場の記録、古い街道案内。見慣れた題名が静かに並んでいた。その途中、一冊だけ指先が止まる。
擦り切れた『旅人の手記』。アウグストへ最初に貸した本だった。本はほとんど読まない。そう言っていた人が、翌日には続きを借りに来た。それからは返却に来るたび、新しい一冊を抱えて帰っていく。窓際で本を読んでいる姿も、今ではすっかり店の景色になっていた。本を棚へ戻す。そのまま自然と窓際へ目が向く。空いた椅子は朝から変わらずそこにあった。
鈴が鳴る。
「こんにちは」
入ってきたのは常連の老人だった。
薬草を選びながら、畑の様子や今年の天気について話し始める。いつもの世間話だった。袋を受け取ると、老人は何気なく店内を見回す。
「あれ」
視線が窓際で止まる。
「あの兄ちゃんは今日は来てないのかい」
「遠征です」
「ああ、そうだったな」
老人は納得したように頷いた。
「毎日あそこに座ってたから、何だか店が広く見える」
そう言って笑う。リオンもつられて笑った。
「そうかもしれません」
老人が帰る。鈴の音が静かに遠ざかり、店は再び落ち着きを取り戻した。店が広く見える。
その何気ない一言だけが、不思議と耳に残る。
窓際の椅子は一脚しかない。それなのに、そこだけ余白ができたように感じられた。気のせいだと思い直し、修理品を棚へ戻す。閉店前に倉庫を見ておこう。そう思い、奥の扉を開けた。乾燥薬草の香りがふわりと漂う。木箱と麻袋が並ぶ、いつもの倉庫だった。その奥で足が止まる。簡易ベッドの上には、毛布がきれいに畳まれたまま置かれていた。遠征へ向かう朝、片付けようとしたとき、
「戻ったらまた使う」
アウグストはそう言った。だから、そのまま残してある。リオンは毛布の端を軽く整える。少しだけ折り目が崩れていただけだった。立ち上がろうとしたところで、木箱の上の一冊へ目が留まる。
薬草図鑑だった。遠征の前夜、この倉庫で珍しく旅の本ではないものを開いていた。
薬草の香りに包まれながら、何度も同じ頁を読み返していた姿を思い出す。遠征に役立てるつもりだったのだろうか。そう思っていた。けれど翌朝、荷袋へしまったのは読み慣れた旅の本だった。結局そこへ戻るあたりが、何とも彼らしい。
リオンは図鑑へ手を伸ばしかけて止めた。
そのまま、静かに手を引く。
倉庫は静かだった。薬草の香り、積み重ねられた木箱、畳まれた毛布、開かれたままの薬草図鑑。
誰もいないはずなのに、少し前まで人がいた気配だけが、まだそこに残っている。
「……何してるんでしょう」
思わず漏れた声に、自分で苦笑した。扉を閉め、店へ戻る。窓辺では木彫りの犬が夕日に照らされていた。売り物にならず、ずっとそこへ置かれたままの犬。向きを少しだけ整えてやる。その隣には今日も空席がある。リオンは椅子の背へそっと手を置いた。
「……まだ三日ですか」
独り言は店の静けさへ溶けていく。帳簿を閉じ、灯りを落とし、最後に店内を見回す。薬草棚、作業台、本棚、そして窓際。何一つ変わっていない。それでも窓際だけは、静かだった。鍵を掛け、二階へ続く階段を上る。途中で足を止め、もう一度だけ振り返る。夕暮れに染まる窓辺には、木彫りの犬だけが静かに外を向いていた。リオンは小さく笑う。
「帰ってきたら、続きを読みましょう」
返事はない。その約束だけを静かな店へ残して、ゆっくりと階段を上がっていった。




