第23話 風邪の日
朝から雨が続いていた。強い降りではないが、屋根を叩く音が途切れることなく店の中へ届いている。
リオンは開店前の支度を終えると、薬草棚の並びを整え、修理を待つ品々へ目を移した。手に取る順番も、確認する箇所も、もう身体が覚えている。考えるより先に、指先が慣れた動きを繰り返していた。
だが、気づけば窓際へ目が向いていた。空いた席。遠征から戻ってきて三日。アウグストは毎日のようにここへ来ていた。本を読み、薬草茶を飲み、時々そのまま静かに過ごしていく。それがいつの間にか、この店では当たり前の時間になっていた。今日は来ない。そう思ったまま時間が過ぎていく。
薬草を並べ終えても、昼食を済ませても変わらない。雨は弱まる気配もなく、窓の外は灰色のままだった。
窓際には木彫りの犬だけが置かれている。リオンは工具箱を開ける。細かい作業に集中しようとするが、しばらくすると視線が勝手に窓へ戻る。犬は相変わらず、外を向いているだけだった。
「……変ですね」
誰に向けたでもない独り言が落ちる。返事はもちろんない。雨は止まない。店の中の音だけが、一定のリズムで積み重なっていく。
店の扉が鳴ったのは、雨脚がわずかに弱まった頃だった。顔を上げたリオンは、一瞬動きを止める。アウグストだった。だが、いつもの姿ではない。足取りが重く、外套は雨を吸って色が変わっている。顔色も明らかに良くない。
「どうしました」
「来た」
意味はあるが、説明にはなっていない。声もわずかに掠れている。一歩進んだ瞬間、ふらついた。リオンは反射的に腕を取る。触れた肌が熱い。
「……熱ありますよね」
「ない」
即答だった。額に手を当てる。やはり熱い。
「あります」
「……そうか」
納得していない顔のまま、アウグストは窓際を見た。そこへ向かおうとして、また少し揺れる。リオンはため息をついた。このまま放っておける状態ではない。
気づけば、アウグストは倉庫に横になっていた。
毛布、枕、薬湯。完全に病人扱いである。
「読める」
「寝てください」
「暇だ」
「寝てください」
淡々としたやり取りが続く。アウグストは本棚の方へ目を向ける。
「本は」
「没収です」
「なぜだ」
「読むからです」
渋々といった様子で毛布に沈んだ。
「理不尽だ」
「病人ですから」
それ以上は何も言わなかった。
店の中だけが静かに沈んでいく。倉庫の中からは、規則正しい呼吸が聞こえていた。リオンは薬草を量りながら、修理途中の時計へ向き直る。時計を分解し、小さな歯車を一つずつ磨いていく。少しでも気を抜けば狂いが生まれる仕事だ。
作業の合間に、何度も倉庫へ目をやる。寝息は変わらない。作業へ戻る、またしばらくして倉庫を見る。その繰り返しのあと、リオンは小さく息を吐いた。
「……落ち着かないですね」
倉庫の中で小さな物音がした。リオンが顔を上げると、アウグストが上体を起こしていた。
「起きましたか」
「ああ」
声は安定している。それだけで、空気が少し変わる。しばらくして、アウグストがぽつりと口を開いた。
「昔は」
珍しく、自分から言葉を探していた。
「風邪をひいても寝なかった」
リオンは作業の手を止める。
「止める人はいなかったんですか」
「いなかった」
当然のような返答だった。
「怪我をしても?」
「ああ」
リオンは少し眉をひそめる。
「馬鹿ですね」
「そうかもしれない」
アウグストは考えるように頷いた。
やがて雨音が、わずかに遠くなる。
閉店の準備を始める頃には、アウグストはもう起き上がっていた。帰ろうと思えば帰れる状態だった。それでも彼は動かない。倉庫の毛布に包まれたまま、天井を見ている。
「帰らないんですか」
リオンの問いに、少し間があった。
「もう少し休む」
「どうぞ」
アウグストは目を閉じる。雨音と薬草の匂い、作業台から聞こえる工具の音。それらが重なり、静かに眠気を誘う。世界を救った勇者はその日、初めて「休んでいい」と言われたまま眠った。
リオンは一度だけ倉庫をのぞき、静かな寝息を確かめると作業台へ戻り、時計の歯車を手に取る。雨音だけが静かに響く店で、ようやく仕事へ意識を戻した。




