第22話 おかえり
カラン。
扉の鈴が、静かな音を響かせた。
「いらっしゃいませ」
工具を置き、リオンはいつものように顔を上げる。そのまま動きが止まった。
扉の前に立っていたのは、アウグストだった。
遠征へ出る前と変わらない無表情。けれど、肩から脇腹へ巻かれた包帯が、その間にあった時間を静かに伝えていた。
しばらく言葉が出なかった。
互いに見つめ合ったまま、小さな店に静かな時間が流れる。
先に口を開いたのはアウグストだった。
「戻った」
リオンの口元が自然と緩む。
「お帰りなさい」
考えるより先に言葉が出ていた。
言ってから自分でも少し驚いた。
アウグストは一瞬だけ目を瞬かせ、それから静かに頷いた。
「ただいま」
店の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
アウグストは抱えていた本を差し出す。
「返す」
「お預かりします」
リオンは本を受け取った。
角が少し擦れている。
何度も開いた跡があった。
ちゃんと最後まで読んだのだろう。
貸出帳を開き、小さな木箱を取り出す。
中から犬の形をした判を取り出し、本の返却欄へ軽く押した。
ぽん。
乾いた音が静かな店に響く。
帳簿の隅へ、小さな犬が一匹増えた。
アウグストはその印を見つめる。
「増えた」
「はい」
「元気そうだ」
リオンは思わず笑った。
「犬の判ですか。それとも窓の犬ですか」
「窓だ」
即答だった。
リオンは窓辺を見る。
木彫りの犬は、遠征へ出る前と変わらない妙な顔で座っている。
「元気ですよ」
「そうか」
それだけで納得したようだった。
リオンは本を棚へ戻しながら、小さく息をつく。
ちゃんと帰ってきた。
手紙に書かれていた『帰ったら行く』という約束は、本当だった。
作業台へ戻ろうとして、ふと足が止まる。
薬缶へ気づけば手が伸びていた。
火を入れる、薬草を量る、湯を注ぐ。
湯呑みを二つ並べたところで、小さく笑ってしまった。遠征の間は、一つしか使わなかった。
それなのに今日は、考えるより先に二つ並べていた。
「どうした」
アウグストが尋ねる。
「いえ」
リオンは首を振る。
「お茶が入りました」
窓際の席へ湯呑みを運ぶ。
アウグストは何も言わず席へ座った。
そこが自分の席だと思っているわけではない。
気づけば窓際へ向かっていた。
湯呑みを持ち、一口飲む。
目を閉じる。
薬草の香りが静かに広がる。
「うまい」
小さな声だった。
「ありがとうございます」
いつもの返事。いつものやり取り。
たった十日ほど離れていただけなのに、ずいぶん久しぶりに感じられた。
アウグストは店内を見回した。
本棚、作業台、窓辺、木彫りの犬。
何一つ変わっていない。
そのことが、なぜか嬉しかった。
「続きは」
本棚へ視線を向ける。
リオンは迷わず一冊抜き取った。
「こちらです」
受け取る。ページを開く。
旅人はまだ旅を続けていた。
そのまま静かに読み始める。
ページをめくる音が響く。
リオンは作業台へ戻り、工具を手に取る。
木を削る小さな音が重なる。
誰も何も話さない。
それでも店は不思議なくらい心地よかった。
しばらくして扉の鈴が鳴る。
「こんにちは」
常連の老婆だった。
薬草を受け取りながら、ふと窓際を見る。
「あら」
目を細める。
「帰ってきたんだねぇ」
「帰った」
アウグストが短く答える。
「そうかい」
老婆は嬉しそうに笑った。
「店が静かすぎると思ったんだよ」
リオンも思わず笑う。
老婆は薬草を受け取り、帰っていく。
英雄の帰還だからと騒ぐ人はいない。
ここではアウグストは、本を読む客だった。
それで十分だった。
午後の日差しが少しずつ傾いていく。
ページをめくる音。
工具を削る音。
風が窓を揺らす音。
その静けさが、遠征で途切れていた時間を何事もなかったようにつないでいた。
夕方が近づき、本を閉じる。
「今日はここまでだ」
「続き、気になりますか」
「気になる」
迷いのない返事だった。
「安心しました」
リオンは笑う。
「まだ何冊か続きがあります」
「そうか」
アウグストは静かに頷く。
その表情はほとんど変わらない。
けれど、どこか肩の力が抜けているように見えた。リオンはそんな姿を見ながら、工具を片付けていく。
遠征へ出る前と同じ午後。
違うのは、自分がその時間を待っていたことくらいだった。
やがて閉店の時刻が近づく。
アウグストは本を抱えて立ち上がる。
「借りる」
「もちろんです」
貸出帳へ記入する。
犬の判を押す。
ぽん、と小さな音が鳴る。
「また期限までに」
「今度は遅れない」
「はい」
扉の前まで歩く。
そこで足が止まった。
振り返る。
窓際の席、本棚、作業台、薬草棚、木彫りの犬。
工具を片付けているリオン。
見慣れた景色だった。
「どうしました」
リオンが顔を上げる。
アウグストは少し考える。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
結局、小さく息をついて口を開いた。
「また来る」
それだけだった。
リオンはふわり微笑む。
「お待ちしています」
その返事を聞いて、アウグストは頷いた。
カラン。鈴が鳴る。
夕暮れの風が店へ流れ込み、また静けさが戻る。
リオンは窓際の席を見る。さっきまで誰かが座っていた場所は、もう空いている。
けれど、その景色を寂しいとは思わなかった。
明日になれば、またあの席でページをめくる音が聞こえる。そんな気がした。
リオンは木彫りの犬の向きをほんの少し整える。
返事はない。その姿を見て、くすりと笑った。
窓から差し込む夕日だけが、窓際をやさしく照らしていた。




