第20話 帰還の日
帰還の日の朝は、雲ひとつない青空だった。
夜明けとともに野営地が動き始める。畳まれていく天幕。荷馬車へ積み込まれる木箱。馬のいななきと騎士たちの掛け声が森へ響く。
長かった遠征も、ようやく終わる。
アウグストも荷物をまとめ、天幕の外へ出た。肩にはまだ包帯が巻かれている。脇腹にも鈍い痛みが残っていた。歩くことに支障はない。だが、治療師からは鎧を着込んで先頭へ立つことを固く止められていた。
「今日は患者です」
真顔でそう言われ、最後まで押し切られた。
仕方なく軽装のまま、荷物だけを肩に掛ける。その姿を見つけたレヴァインが笑った。
「勇者様も、今日は大人しく患者をやる気になったか」
「歩ける」
「歩けることと、無理していいことは別なんだよ」
アウグストは黙った。
歩けるなら歩く。それがいつもの判断だった。だが、治療師は苦笑しながらも首を振る。
「帰るまでが治療ですからね」
「……分かった」
納得したのか、諦めたのか分からない返事だった。
やがて出発の合図が響く。
部隊は森を抜ける一本道へ歩き始めた。討伐は終わり、周辺の安全確認も済んでいる。昨日まで張り詰めていた隊列からも、力が抜けていた。
「帰ったら、まず風呂だ」
「俺は三日くらい寝る」
「母さんの飯が食いたいな」
「ああ、それは分かる」
あちこちで笑い声が上がる。
若い騎士たちの足取りは軽い。誰もが帰還を待ち望んでいた。
アウグストは隊列の少し後ろを歩いていた。普段なら先頭で周囲を警戒している。今日は剣を抜く必要もない。森の音を聞きながら歩くことが、妙に新鮮だった。
しばらくして、一人の若い騎士が隣へ並んだ。
「あの、勇者様」
「何だ」
あの戦いで救出した第二部隊の青年だった。盾を握る手が震えていた騎士である。
「ありがとうございました」
青年は照れくさそうに笑った。
「昨日、弟へ手紙を書いたんです」
「そうか」
「無事だったって報告できました」
少し間を置き、青年は頭を下げた。
「勇者様のおかげです」
アウグストは前を向いたまま答えた。
「違う」
青年が首を傾げる。
「お前が立っていた」
「え?」
「盾を捨てなかった」
「あれが崩れていたら、間に合わなかった」
青年は言葉を失った。
あの時、自分は恐怖で震えていた。逃げ出したいと思っていた。それでも盾だけは離さなかった。
そのことを、この人はちゃんと見ていた。
「……ありがとうございます」
今度は先ほどより深く頭を下げ、青年は仲間の元へ戻っていく。
その背中を見送りながら、レヴァインが笑った。
「お前、相変わらず言葉が足りないな」
「そうか」
「普通なら『よく頑張った』って言うところだぞ」
アウグストは少し考えた。
「頑張っていた」
「だったら、そう言えばいい」
「難しい」
真顔だった。
レヴァインは肩を震わせる。
「魔物相手なら迷わないのに、人相手だと急に不器用になる」
アウグストは首を傾げた。何がおかしいのか分からない。
その様子がおかしくて、レヴァインはまた笑った。つられるように、近くの騎士たちからも笑い声が上がる。
森を抜ける風が頬を撫でた。
木漏れ日が街道にまだら模様を落としている。
もう剣を振るう必要はない。あとは王都へ帰るだけだった。
森を抜けると、視界が一気に開けた。
遠くに王都の外壁が見える。白い石で築かれた巨大な壁が、陽光を受けて淡く輝いていた。
「見えたな」
「やっと帰れる」
「今日は寝るだけだ」
あちこちから安堵の声が漏れる。
緊張の解けた騎士たちは、どこか子どものような顔をしていた。
アウグストも視線を上げる。
王都。
何度も戻ってきた場所だった。魔王討伐以前から、数え切れないほど出入りしている。
帰還はいつも「次の任務の始まり」でしかなかった。
報告を済ませ、剣を整える。身体を休めれば、また次の任務へ向かう。
それだけの場所だった。
なのに今回は、少し違う。
「珍しいな」
隣を歩くレヴァインが横目で見る。
「何がだ」
「帰り道でそんな顔するの」
「顔は変わらない」
「そういうとこだよ」
レヴァインは肩をすくめた。
「前は帰還なんて気にしたこともなかっただろ」
「そうか」
「そうか、じゃない」
軽い笑いがこぼれる。
アウグストはしばらく考えた。
確かに、以前は帰還に意味を持たなかった。
だが今は、王都の外壁を見ているだけで、なぜか一つの場所が浮かぶ。そして、何気なく聞こえる声。
「いらっしゃいませ」その声まで、妙にはっきりと思い出せた。気づけば、歩幅が少し大きくなっている。
「おい」
レヴァインが横から声をかけた。
「何だ」
「いや、急いでるだろ」
「急いでいない」
「嘘つけ」
アウグストは少し歩幅を戻した。
確かに、速くなっていたかもしれない。
やがて街道は広くなり、整備された石畳へ変わっていく。王都が近い証拠だった。
門へ近づくにつれ、衛兵の姿が見えてくる。その向こうで、城壁の門がゆっくりと開いていた。
「帰ってきたな」
「風呂だ、風呂」
「今日は何も考えない」
笑い声が重なる。
アウグストはその輪の少し後ろにいた。
いつもなら先頭で門をくぐる位置だ。
だが今日は、それでいいと思った。
急ぐ必要はない。
門をくぐったあと、まず騎士団へ向かう。報告を終えるまでの間だけ、少し我慢すればいい。
その先に向かう場所は、もう決まっていた。
門をくぐる。
騎士団の報告へ向かうため、部隊は左右へ分かれていった。




