第19話 待つ場所
遠征十一日目。
野営地では、帰還の支度が始まっていた。
討伐はすでに終わり、負傷者の容体も落ち着いている。張りつめていた緊張も少しずつ解け、騎士たちは帰還の準備に追われていた。荷馬車へ木箱を積み込み、武具を手入れし、明日の出発に備える。予定より数日は遅れたものの、ようやく王都へ戻れる。
治療用天幕では、アウグストが寝台へ腰掛けていた。肩と脇腹にはまだ包帯が巻かれている。
痛みは残っていたが、腕は昨日よりよく上がる。歩くにもほとんど困らなくなっていた。
「順調ですね」
朝の診察を終えた治療師が包帯を巻き直しながら微笑む。
「無理をしなければ問題ありません。帰還にも支障はないでしょう」
「そうか」
それだけ分かれば十分だった。
治療師が天幕を出ていく。
外では木箱を運ぶ音がしていた。馬が一頭いななく。帰還準備は着々と進んでいるらしい。
ぼんやり耳を傾けていると、天幕の布が揺れた。
「起きてたか」
レヴァインだった。
紙袋を片手に入ってくる。
「差し入れだ」
補給隊から分けてもらった焼き菓子を机へ置く。
「甘いぞ」
「そうか」
一枚受け取り、小さくかじる。
香ばしい甘さが口へ広がる。
二人は焼き菓子をつまみながら、しばらく黙っていた。天幕の外では、荷を運ぶ足音が行ったり来たりしている。
やがてレヴァインが口を開く。
「暇か」
「暇だ」
間髪入れず返ってきた。
「だろうな」
思わず笑う。
「本も読み終わったしな」
「ああ」
その返事がおかしくて、また笑いが漏れた。
「数か月前なら考えられないな」
アウグストが視線を向ける。
「本なんて見向きもしなかった奴が、『読む本がない』なんて言うようになるとはな」
アウグストは少し考えた。
否定しようとして、やめる。
「……読むようになった」
「ああ。立派な読書家だよ」
レヴァインは肩を揺らして笑った。
「失礼します!」
天幕の入口から声が響く。
入ってきたのは三人の若い騎士だった。
先日の戦闘で救助した第二部隊の面々である。
三人とも姿勢を正し、どこか緊張した面持ちで立っていた。
「勇者様、お加減はいかがですか」
「悪くない」
三人はほっと息を吐いた。
やがて、一人が震える声で口を開く。
「先日は、本当にありがとうございました」
三人揃って深く頭を下げる。
「あの時、勇者様が来てくださらなければ……」
言葉が途中で止まる。
あの戦場を思い出したのだろう。
アウグストは三人の沈黙を受け止めるように、静かに視線を向けていた。
「全員、生きている」
それだけを告げる。
「はい」
「なら、それでいい」
アウグストにとっては、それだけで十分だった。
救われた者よりも、救うために手を伸ばした者のほうが、深い傷を抱えることがある。
それでも、自分の怪我には一切触れず、仲間が生きていることだけを口にする。
三人はもう一度深く頭を下げた。
しばらく沈黙が続いたあと、一番年若い騎士がおそるおそる口を開く。
「あの……一つ、お聞きしてもいいでしょうか」
「何だ」
「レヴァイン様から聞いたんですが……」
隣を見る。
レヴァインは嫌な予感がしたように苦笑した。
「勇者様って、王都へ帰ると毎日のように道具屋へ行ってるんですか」
「…言ったのか」
レヴァインが吹き出す。
若い騎士は慌てて頭を下げた。
「少し伺っただけです!」
アウグストは首を傾げる。
「毎日ではない」
「いや、毎日だったぞ」
レヴァインが即座に返す。
「仕事が終わるたび、そのまま向かってたじゃないか」
アウグストは黙った。
騎士団本部を出て、大通りを歩き、店の鈴を鳴らす。窓際へ座り、本を開く。薬草茶を飲み、ときどき店主と言葉を交わす。
閉店になると本を閉じて帰る。
一日一日を思い返していく。
「……そうか」
ぽつりと漏らす。
レヴァインは肩を震わせた。
「今気付いたのか」
天幕の中へ笑いが広がる。
若い騎士たちも思わず笑っていた。
「そんなに居心地がいい店なんですか」
今度は少し長く考えた。
薬草の香り、工具を磨く音、本棚、窓際の席、木彫りの犬。そして静かな午後。
一つずつ思い浮かべる。
「静かだ」
まず、それが浮かんだ。
「本がある」
続けて、少しだけ言葉を探しぽつりと。
「落ち着く」
ようやくそう付け加えた。
若い騎士たちは顔を見合わせる。
英雄らしくない答えだった。
だが、不思議と納得したようにも見えた。
「ありがとうございました」
最後にもう一度礼を言い、三人は天幕をあとにした。入れ替わるように布が開いた。
「失礼します」
セシルだった。
手には帰還命令書を持っている。
「帰還命令が出ました」
アウグストが顔を上げる。
「明日の朝、王都へ向けて出発します」
「そうか」
「予定より遅れましたが、ようやく帰れます」
書類を受け取り、頷く。
「帰る」
その一言だけだった。
「帰ったら、まず本部へ来てください」
「分かった」
「怪我の診察も忘れずに」
「ああ」
セシルは安心したように笑い、天幕を出ていく。布が下りると、外のざわめきが少し遠くなった。
レヴァインが腕を組んだまま尋ねた。
「で?」
「何だ」
「本部が終わったら?」
アウグストは少し考えた。
本部へ報告する。診察を受ける。邸宅へ戻る。
やるべきことはいくつもある。
それでも、最初に浮かんだ場所は一つだった。
「道具屋へ行く」
迷いのない返事だった。
レヴァインは声を立てて笑う。
「やっぱりな」
アウグストは首を傾げる。
何がおかしいのか分からなかった。
レヴァインはそれ以上何も言わなかった。
天幕の外では帰還準備が続いている。
木箱を運ぶ音、馬のいななき、忙しく行き交う騎士たち。遠征は終わる。明日になれば王都へ戻る。アウグストは天幕の隙間から外を眺めた。
吹き込んだ風に目を細める。もちろん野営地に薬草茶の香りなどあるはずがない。
それでも、不意に思い浮かんだ。
窓際の席、工具を磨く音、本棚に並ぶ旅の本、木彫りの犬。
そして、扉が開くたびに聞こえる柔らかな声。
「いらっしゃいませ」
明日になれば、またあの店へ行ける。
そう思うと、胸の奥にあったわずかな重さが、ゆっくりとほどけていく気がした。
アウグストは目を閉じる。
帰る場所がある。それだけで十分だった。




