第18話 返事
西日が店の奥まで差し込み、作業台を淡い橙色に染めていた。客がいなくなった店内に、道具を片付ける音だけが残る。
リオンは修理道具を一つずつ布で拭き、決まった場所へ戻していく。金槌、やすり、小刀、砥石。使い慣れた道具は手に馴染み、片付ける順番も体が覚えていた。
今日の仕事はひと区切りつく。ふと、引き出しへ手が伸びる。取り出したのは、一通の手紙だった。少しだけ折り目の付いた封筒を開き、丁寧に便箋を広げる。読むのは、もう何度目だろう。長い文章ではない。怪我をしたこと、生きていること、持っていった本を読み終えたこと、返却が遅れること。そして最後の一文。
『犬は元気か』
そこまで読むと、リオンは自然と窓辺へ目を向けた。木彫りの犬は今日も同じ場所に座っている。
相変わらず少し間の抜けた顔で、窓の外を眺めていた。
「元気ですよ」
小さく答えてみる。もちろん返事はない。それでも、その真面目な問い掛けを思い出すと、頬が緩んだ。便箋を畳みかけたところで、手が止まる。
「返事……」
自然と口をついて出た。やはり書いた方がいいのだろうか。普通なら返すものなのかもしれない。けれど、今までそんな相手はいなかった。修理の依頼は直接店へ来る。問屋とのやり取りは帳簿や注文票で済む。私的な手紙を書く機会など、ほとんどなかった。机へ紙を置く。インク瓶の蓋を開け、ペン先を浸す。深く息を吸い、紙へ向かった。
『アウグストさんへ』
そこまでは迷わず書けた。だが、その先が続かない。ペン先だけが紙の上で止まっている。しばらく考え、ようやく一文を書く。
『怪我、お大事にしてください。』
書き終えて読み返す。何か違う。これでは、いつも店で客へ掛ける言葉と変わらない。便箋を裏返すと、新しい紙を取り出す。今度は一文字も書けなかった。
「難しいですね」
苦笑しながらペンを置く。書きたいことがないわけではない。怪我は本当に大丈夫なのだろうか。無理をしていないだろうか。持っていった本は面白かったのだろうか。図書館で見つけた旅の本も、早く読んでもらいたい。遠征が終わったら、また窓際で続きを読んでいるのだろうか。そんなことはいくらでも思い浮かぶ。それなのに、紙へ向かうと一つも言葉にならなかった。
窓から夕方の風が吹き込む。本棚の栞が一枚だけ揺れ、小さく頁が鳴った。リオンは立ち上がる。気持ちを切り替えるように、本棚へ向かった。新しく並べた旅の本を、一冊ずつ眺める。
『橋の向こうの町』『旅するパン屋』
『七つの宿場』『雨宿りの日』
背表紙を揃え、少しだけ位置を直す。どれも大きな事件は起こらない。橋を渡り、市場を歩き、宿へ泊まり、知らない町で朝を迎える。そんな穏やかな旅の本ばかりだった。気付けば、いつの間にか同じような本ばかり集めている。
「気に入ってくれるでしょうか」
ぽつりと呟く。誰へ向けた言葉なのか、考えなかった。一冊だけ、本を窓際から手の届きやすい棚へ移す。あの席に座れば、きっと最初に目に入る場所だった。置いてから、小さく笑う。
「……考えすぎですね」
誰に薦められたわけでもない。読んでもらえる保証もない。それでも、その場所が一番しっくりきた。机へ戻る。途中まで書いた便箋が、そのまま残っていた。
『アウグストさんへ』
その五文字だけが静かに残っている。しばらく眺めたあと、紙を丁寧に折り畳んだ。書きかけの便箋も、届いた手紙も、一緒に引き出しへしまう。返事は最後まで書けなかった。けれど、不思議と後悔はなかった。アウグストは多くを話す人ではない。
自分も同じだ。だから手紙を書くより、窓際で本を読みながら、短い言葉を交わす方が、きっと自然なのだろう。
「帰ってきたら、その時に話しましょう」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。返事はない。窓辺へ歩く。木彫りの犬を手に取り、少し向きを整えた。ほんの少しだけ、窓際の椅子の方を向くように。
「もう少しだけ、待っていてくださいね」
そう言って元の場所へ戻す。もちろん置物は何も答えない。それでも、不思議と店の中は賑やかになった気がした。
灯りを落とし、最後にもう一度だけ店内を見回す。薬草棚、作業台、本棚、そして窓際の席。空席のままだった。けれど、その空いた椅子はもう寂しいだけの場所ではない。またあの人が座る日を、自然と待てるようになっていた。
西日の色がゆっくりと薄れていく。リオンは静かに戸を閉める。返事は書かなかった。それでも、伝えたいことは残っていない気がした。帰ってきたら話せばいい。そう思えた。




