第17話 犬は元気か
手紙を出した翌朝。
野営地は久しぶりに穏やかな空気に包まれていた。討伐は終わり、負傷者の治療も順調に進んでいる。武具を手入れする音、焚き火で湯を沸かす音、騎士たちの笑い声。数日前まで張り詰めていた空気は消え、帰還を待つだけのゆるやかな時間が流れていた。
怪我人用の天幕では、アウグストが寝台へ腰掛けている。傷は順調に塞がっていた。治療師からも、あと数日もすれば剣を振って問題ないと言われている。だから暇だった。驚くほど暇だった。
持ってきた旅の本は読み終えてしまった。剣も振れない。見回りにも出られない。じっとしているしかない時間は、戦場より落ち着かなかった。
そして今日は、もう一つ気になることがあった。昨日、自分で書いた手紙である。怪我をした。生きている。本は読み終わった。返却が遅れる。そこまではよかった。問題は最後だ。
『犬は元気か』
アウグストは寝台に腰掛けたまま、額を押さえていた。
「……変だったか」
昨日、自分で書いた一文である。書いている途中も、書き終えたあとも何も思わなかった。一晩眠って目が覚めると、その一文だけが頭に残っていた。
木彫りの犬である。犬なのか少し怪しい犬。耳だけ妙に大きく、丸く座ったまま窓の外を見ている犬。毎日、本を読みながら何度も視界へ入っていた。だから気になった。理屈としては間違っていない。
……たぶん。
考えれば考えるほど分からなくなる。そのとき、天幕の布が揺れた。
「朝から難しい顔してるな」
レヴァインが果物の籠を抱えて入ってきた。
「見舞いだ」
「毎日来る」
「暇だからな」
笑いながら籠を机へ置き、向かいへ腰掛ける。
「傷はどうだ」
「治っている」
「顔は治ってないぞ」
「顔」
「考え込みすぎって意味だ」
アウグストは黙った。
レヴァインも黙って待つ。
やがてアウグストが、ひどく真面目な顔で口を開いた。
「相談がある」
「お前が?」
「相談する」
魔王討伐の作戦ですら相談らしい相談をしなかった男である。レヴァインは思わず姿勢を正した。
「聞こうじゃないか」
「犬は元気か」
「……は?」
「変だったか」
「何の話だ?」
「手紙だ」
「ああ」
レヴァインはようやく思い出した。
昨日届けた便りの最後に、確かにそんな一文があった。
「犬は元気か、と書いた」
「書いてたな」
「変だったか」
本気だった。レヴァインは吹き出しそうになるのを必死で堪える。
「そんなに気になるのか」
「少し」
「本当か?」
「かなり」
即答だった。
レヴァインの肩が震える。
「……お前、魔王には突っ込めるのに、手紙は怖いんだな」
「魔王は斬れば終わる」
「手紙は?」
「分からん」
真顔だった。とうとうレヴァインが吹き出した。
「変じゃないよ」
笑いながら言う。
「むしろ店主は笑うと思う」
「笑う」
「悪い意味じゃない」
アウグストは黙って聞いている。
「自分の店にあるものを、ちゃんと覚えててくれたって分かるだろ」
その一言で、視線が止まった。覚えていた。
窓際、薬草茶、本棚、工具の音、木彫りの犬。
毎日見ていた景色だった。
「……そうか」
肩の力を抜いた。
レヴァインは笑いを残したまま立ち上がる
「天幕に閉じこもってても退屈だろ」
「そうだな」
「少し歩こう」
二人は野営地の外れまで歩いた。朝露の残る草原を風が渡る。遠くでは騎士たちが荷車を直し、武具を磨いている。帰還前の、穏やかな朝だった。
森の入口では、小さな村の子どもが犬を散歩させていた。茶色い毛並みの犬が嬉しそうに走り回る。アウグストは足を止めた。犬は草むらを駆け、子どもの足元へ戻ってくる。その姿をしばらく眺めていた。
「……犬好きになったのか?」
レヴァインが笑う。
「違う」
「違う?」
「あれとは似ていない」
「何が」
「道具屋の犬だ」
レヴァインが一瞬黙った。
「比べてたのかよ!」
「耳が違う」
「そこか!」
「あっちはもっと丸い」
「木彫りだからな!」
笑い声が草原へ響く。アウグストは首を傾げたままだ。何がおかしいのか、本当に分からないらしい。ひとしきり笑ったあと、レヴァインは空を見上げた。
「帰ったら確認すればいい」
「犬をか」
「違う」
「店主を、だ」
アウグストは返事をしなかった。その代わり、静かな道具屋の景色が頭へ浮かぶ。薬草の香り、工具を削る音、窓際の席、本棚、薬草茶。そして、いつもの場所で妙な顔をして外を眺める木彫りの犬。自然と口が開く。
「……そうだな」
その返事は、自分でも少し不思議だった。
以前なら、任務が終われば次の任務のことだけを考えていた。帰る場所など考えたこともない。
王城へ戻っても、休んだ記憶はほとんどない。けれど今は違う。帰ったら寄る場所がある。返す本がある。薬草茶を飲んで、読みかけの続きを開く。そして、会いたい相手がいることには、まだ気付いていなかった。
レヴァインが横目で隣を見る。
「……変わったな、お前」
風に紛れるほど小さな独り言だった。アウグストには届かない。野営地へ戻る足取りは、昨日より軽かった。その理由を、アウグスト自身もまだ知らない。




