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勇者のいる窓際  作者: 月白ゆう


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17/21

第17話 犬は元気か

手紙を出した翌朝。

 野営地は久しぶりに穏やかな空気に包まれていた。討伐は終わり、負傷者の治療も順調に進んでいる。武具を手入れする音、焚き火で湯を沸かす音、騎士たちの笑い声。数日前まで張り詰めていた空気は消え、帰還を待つだけのゆるやかな時間が流れていた。


 怪我人用の天幕では、アウグストが寝台へ腰掛けている。傷は順調に塞がっていた。治療師からも、あと数日もすれば剣を振って問題ないと言われている。だから暇だった。驚くほど暇だった。

 持ってきた旅の本は読み終えてしまった。剣も振れない。見回りにも出られない。じっとしているしかない時間は、戦場より落ち着かなかった。

 そして今日は、もう一つ気になることがあった。昨日、自分で書いた手紙である。怪我をした。生きている。本は読み終わった。返却が遅れる。そこまではよかった。問題は最後だ。


『犬は元気か』


 アウグストは寝台に腰掛けたまま、額を押さえていた。


「……変だったか」


 昨日、自分で書いた一文である。書いている途中も、書き終えたあとも何も思わなかった。一晩眠って目が覚めると、その一文だけが頭に残っていた。

 木彫りの犬である。犬なのか少し怪しい犬。耳だけ妙に大きく、丸く座ったまま窓の外を見ている犬。毎日、本を読みながら何度も視界へ入っていた。だから気になった。理屈としては間違っていない。


 ……たぶん。


 考えれば考えるほど分からなくなる。そのとき、天幕の布が揺れた。


「朝から難しい顔してるな」


 レヴァインが果物の籠を抱えて入ってきた。


「見舞いだ」

「毎日来る」

「暇だからな」


 笑いながら籠を机へ置き、向かいへ腰掛ける。


「傷はどうだ」

「治っている」

「顔は治ってないぞ」

「顔」

「考え込みすぎって意味だ」


 アウグストは黙った。

 レヴァインも黙って待つ。

 やがてアウグストが、ひどく真面目な顔で口を開いた。


「相談がある」

「お前が?」

「相談する」


 魔王討伐の作戦ですら相談らしい相談をしなかった男である。レヴァインは思わず姿勢を正した。


「聞こうじゃないか」

「犬は元気か」

「……は?」

「変だったか」

「何の話だ?」

「手紙だ」

「ああ」


 レヴァインはようやく思い出した。

 昨日届けた便りの最後に、確かにそんな一文があった。


「犬は元気か、と書いた」

「書いてたな」

「変だったか」


 本気だった。レヴァインは吹き出しそうになるのを必死で堪える。


「そんなに気になるのか」

「少し」

「本当か?」

「かなり」


 即答だった。

 レヴァインの肩が震える。


「……お前、魔王には突っ込めるのに、手紙は怖いんだな」

「魔王は斬れば終わる」

「手紙は?」

「分からん」


 真顔だった。とうとうレヴァインが吹き出した。


「変じゃないよ」


 笑いながら言う。


「むしろ店主は笑うと思う」

「笑う」

「悪い意味じゃない」


 アウグストは黙って聞いている。


「自分の店にあるものを、ちゃんと覚えててくれたって分かるだろ」


 その一言で、視線が止まった。覚えていた。

 窓際、薬草茶、本棚、工具の音、木彫りの犬。

 毎日見ていた景色だった。


「……そうか」


 肩の力を抜いた。

 レヴァインは笑いを残したまま立ち上がる


「天幕に閉じこもってても退屈だろ」

「そうだな」

「少し歩こう」


 二人は野営地の外れまで歩いた。朝露の残る草原を風が渡る。遠くでは騎士たちが荷車を直し、武具を磨いている。帰還前の、穏やかな朝だった。

 森の入口では、小さな村の子どもが犬を散歩させていた。茶色い毛並みの犬が嬉しそうに走り回る。アウグストは足を止めた。犬は草むらを駆け、子どもの足元へ戻ってくる。その姿をしばらく眺めていた。


「……犬好きになったのか?」


 レヴァインが笑う。


「違う」

「違う?」

「あれとは似ていない」

「何が」

「道具屋の犬だ」


 レヴァインが一瞬黙った。


「比べてたのかよ!」

「耳が違う」

「そこか!」

「あっちはもっと丸い」

「木彫りだからな!」


 笑い声が草原へ響く。アウグストは首を傾げたままだ。何がおかしいのか、本当に分からないらしい。ひとしきり笑ったあと、レヴァインは空を見上げた。


「帰ったら確認すればいい」

「犬をか」

「違う」

「店主を、だ」


 アウグストは返事をしなかった。その代わり、静かな道具屋の景色が頭へ浮かぶ。薬草の香り、工具を削る音、窓際の席、本棚、薬草茶。そして、いつもの場所で妙な顔をして外を眺める木彫りの犬。自然と口が開く。


「……そうだな」


 その返事は、自分でも少し不思議だった。

 以前なら、任務が終われば次の任務のことだけを考えていた。帰る場所など考えたこともない。

 王城へ戻っても、休んだ記憶はほとんどない。けれど今は違う。帰ったら寄る場所がある。返す本がある。薬草茶を飲んで、読みかけの続きを開く。そして、会いたい相手がいることには、まだ気付いていなかった。

 レヴァインが横目で隣を見る。


「……変わったな、お前」


 風に紛れるほど小さな独り言だった。アウグストには届かない。野営地へ戻る足取りは、昨日より軽かった。その理由を、アウグスト自身もまだ知らない。

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