第16話 手紙
遠征七日目。
本来なら帰還の支度を始める頃だった。
討伐目標はすでに達成し、周辺の調査も順調に進んでいる。森に張りつめていた気配も薄れ、野営地では外套を脱いで寛ぐ騎士の姿が目につくようになっていた。
「王都へ戻ったら、まず何を食べようかな」
「気が早いな」
「だって、もう終わったようなものだろ」
そんな声が聞こえる。
数日前まで魔物の気配を探っていた騎士たちが、ようやく帰還後の話をするようになっていた。
その空気を、荒い息遣いが断ち切った。
「救援要請です!」
伝令が野営地へ駆け込んでくる。
「第二部隊が上位種と遭遇! 北東の渓谷で退路を断たれています!」
椅子を引く音が重なった。
セシルはすぐに周辺地図を広げる。
「場所は」
「この先です。北東へ進んだ渓谷の奥になります北東の渓谷です」
セシルが地図へ指を走らせる。
「距離は」
「急げば、間に合います」
「分かった。出る」
その言葉とほぼ同時に、隣で鞘が鳴った。
アウグストが剣を手にしている。
セシルは一度だけ彼を見る。
「行きましょう」
返事を待つ必要はなかった。危険な場所がある。助けを求める声がある。
それだけで十分だった。
森を駆け抜ける。枝を払い、斜面を下り、渓谷へ飛び込む。金属がぶつかる音、魔物の咆哮、若い騎士たちの叫び。戦場はすでに危機的状況となっていた。
倒木が道を塞ぎ、砕けた盾が地面へ転がっている。まだ若い騎士たちは互いを庇いながら必死に耐えていた。
その中の一人は震える手で盾を握る。今回が初めての遠征だった。王都を出る朝、幼い弟へ胸を張って言った。
「勇者アウグストと一緒に任務へ行くんだ」
帰ったら全部話してやる。そう約束した。だから、生きて帰らなければならない。怖かった。
足は震え、腕は痺れている。それでも盾だけは下ろせなかった。自分の後ろには仲間がいる。守らなければならない。
魔物が牙を剥く。
振り下ろされた爪が、視界いっぱいに迫る。
――死ぬ。
若い騎士は目を閉じかけた。
「下がれ」
低く澄んだ声が戦場へ響く。
一筋の銀光が割って入る。
上位種の腕が宙を舞う。
一拍遅れて巨体が崩れ落ち、大地を揺らした。
頬を濡らしたのは、自分の血ではない。
恐る恐る顔を上げる。
目の前には、一人の男が立っていた。
剣を片手に、歩みを進める。
その背中は、不思議なほど大きく見えた。
咆哮を上げた上位種たちが、一斉に襲いかかる。
アウグストは歩みを止めない。
剣が閃く。一体が崩れる。
間を置かず、次の一体。
さらにもう一体。
最小限の動きで、急所だけを断っていく。
誰一人、その刃へ届くことはなかった。
絶望に染まっていた戦場が、ゆっくりと押し返されていく。騎士たちは言葉を失った。
これが勇者。幾度も世界を救ってきた英雄だった。噂でも、伝説でもない。
目の前で剣を振るう、本物だった。
最後の上位種が膝をつく。
「助かった……」
誰かの呟きが、静かな風に溶けた。
そのときだった。
「セシル隊長!」
鋭い叫びが渓谷へ響く。
倒れ伏していた上位種が、最後の執念だけで身を起こす。血に染まった巨腕がセシルに向かって振り上げられていた。完全な死角だった。
「隊長!」
駆け出そうとした騎士の足が止まる。
間に合わない。誰もがそう悟った。
その前へ、一つの背中が踏み出す。
鈍い衝撃音が渓谷へ響いた。
鎧が砕け散り鮮血が宙へ舞う。
誰もが息を止めた。
斬られた。そう思った。
「……隊長!」
悲鳴が響く。
だが、倒れたのはセシルではなかった。
その身を盾にしたアウグストだった。
肩口を深く裂かれながらも、一歩も退かない。
セシルを背に守ったまま、静かに剣を構える。
魔物が咆哮を上げる。
アウグストは剣を振るった。
その動きを目で追えた者はいない。
気づけば、上位種の首がゆっくりと傾き、巨体が音を立てて崩れ落ちる。
戦いは終わった。
渓谷を吹き抜ける風が、木々を揺らしている。
誰も口を開かなかった。
誰もが、肩から血を流しながら、それでも立ち続ける勇者を見つめる。
やがて一人の騎士が静かに剣を胸へ当てた。
それをきっかけに、次々と剣が胸へ掲げられていく。
誰一人、言葉を発しない。必要がなかった。
自分たちの命を救った勇者へ捧げる、心からの敬意だった。
治療用の天幕では、治療師たちが慌ただしく動いている。傷の手当てを終えたアウグストは静かに腰を下ろしていた。命に別状はない。それでも決して浅い傷ではなかった。
寝台の横で、セシルはゆっくりと頭を下げた。
「……申し訳ありません」
握り締めた拳が震えている。
隊長である自分が守られた。
しかも、部下たちの目の前で。
その事実が胸に重くのしかかっていた。
「私の判断が遅れました」
アウグストは首を横へ振る。
「違う」
「ですが……」
「お前が生きている」
セシルは言葉を失う。
「全員、生きている」
アウグストは、それだけ言った。
仲間を誰一人失わなかった。
アウグストにとって、それがすべてだった。
セシルは何も言えなくなる。
深く息を吐き、頷いた。
胸を締めつけていた重さが、軽くなった気がした。
傷の回復は順調だった。
治療師からは「あと二、三日は安静に」と言われている。
「戦える」
そう答えたものの、全員に止められた。
仕方なく寝台へ腰を下ろす。
暇だった。
驚くほど暇だった。
持ってきた旅の本は、昨日読み終えてしまった。
最後の一ページを閉じてからというもの、手持ち無沙汰で落ち着かない。
窓の外を眺める。
風が木々を揺らしている。
「暇そうだな」
天幕の布がめくられ、レヴァインが果物籠を抱えて入ってくる。
「暇だ」
「顔に書いてある」
椅子へ腰を下ろし、籠を机へ置いた。
「傷はどうだ」
「痛い」
「それも顔に書いてある」
レヴァインは苦笑する。
机の上には、読み終えた旅の本が置かれていた。
「続きが読みたいのか」
「ああ」
「すっかり読書家だな」
アウグストは否定しなかった。
気づけば思い浮かぶのは、
窓際の席、薬草茶の香り、棚いっぱいの旅の本、
工具を打つ乾いた音。あの静かな店だった。
「あの店なら、まだ読んでいない本がありそうだ」
「帰るまで我慢だな」
「長い」
「二、三日だぞ」
「長い」
本気で言っている。
レヴァインは思わず吹き出した。
「そんなに気に入るとは思わなかった」
アウグストは答えない。
続きを読みたい。
それだけではない。
あの店を思い浮かべると、不思議と肩の力が抜ける。
静かな時間が恋しかった。
ふと、レヴァインが机の上の紙とペンに気づく。
治療師が記録を書くために置いていったものだった。
「そうだ」
思いついたように笑う。
「返却が遅れるなら、手紙を書けばいい」
アウグストは紙へ視線を落とす。
手紙を書く。
そんな発想はなかった。
「書くことがあるだろ」
「……ある」
返却が遅れること、怪我をしたこと、本は読み終えたこと、帰ったら店へ行くこと。
伝えたいことは、ちゃんとある。
紙を引き寄せ、ペンを持つ。
だが、その先が進まない。
レヴァインは何も言わず見守っていた。
しばらくして、ようやくペンが動く。
『リオンへ』
そこで止まった。
「難しいな」
「手紙だからな」
十分ほど考え、一行だけ書く。
『怪我をした』
読み返し、小さく付け足す。
『でも大丈夫だ』
さらに少し考え、
『生きている』
と書いた。
『持ってきた本は読み終わった』
『返却が遅れる』
そこまでは迷わなかった。
けれど余白が残っている。
何か書きたい。
何を書けばいい。思い浮かぶ景色を追ううち、ペンが自然と動いていた。
『犬は元気か』
書き終えて首をかしげる。
変だろうか。消そうとして、やめた。
あの妙な犬が今日も窓辺で店番をしている。
そんな光景が、なぜか気になっていた。
最後に、もう一行。
『帰ったら行く』
書き終えた途端、胸の奥が軽くなった。
レヴァインが紙をのぞき込む。
「短いな」
「ああ」
「でも、お前らしい」
アウグストは静かに封を閉じた。
数日後、一通の手紙が道具屋へ届いた。
差出人の名前を見たリオンは、思わず目を丸くする。
「アウグストさん……?」
封を開く。
『怪我をした。でも大丈夫だ。生きている』
その一文を読んだ瞬間、小さく息を吐いた。
ゆっくりと続きを目で追う。
本を読み終えたこと、返却が遅れること。
そして。
『犬は元気か』
思わず笑みがこぼれた。
窓際を見る。
木彫りの犬は今日も妙な顔で店番をしている。
「元気ですよ」
誰もいない店で、小さく答える。
最後の一行へ目を落とした。
『帰ったら行く』
たったそれだけの言葉。
それなのに、その一行だけが胸へ温かく残る。
リオンは引き出しから便箋を取り出した。
『怪我が大丈夫で安心しました』
そこまで書いて、手が止まる。
薬草茶のこと、新しく仕入れた旅の本のこと。
窓辺の犬が今日も妙な顔をしていること。
どれも違う気がした。
しばらく考え、ふっと笑う。
「……帰ってきてからでいいですね」
便箋をそっと引き出しへ戻す。
窓際の席は今日も空いていた。
それでも、不思議と寂しくない。
あの人は帰ってくる。
そう書いてあったから。
木彫りの犬は、今日も変わらず店番を続けていた。




