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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第一章 光なき研究室で芽生える希望

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第二話 缶ピラミッド

「ちょっと、待ってください」


 掠れた声が、悠一の叩くキーボードの音に混ざる。悠一は露骨に不快そうな眉間をさらに深く刻み、タイピングの速度を落とさずに言った。


「まだいたのか。お前の退室にこれ以上の時間を割くつもりはない。さっさと消えろ」

「先輩、これ……何をやっているんですか……!?」


 里村の声のトーンが、落胆から別のものへと完全に変質していた。それは、驚愕と、ある種の戦慄に満ちた、純粋なエンジニアの響きだった。

 里村は悠一の冷徹な拒絶を完全に無視し、モニターのコードの一箇所を、白くなるほど細い指先で激しく指し示した。


「もしかして、この細胞の環境適応プログラム……心筋から神経、表皮に至るまでの結合アルゴリズムを、一つ一つの細胞単位で、全部手作業でパターンを書いて、力ずくでシミュレーションを回しているんですか!?」


 悠一は、激しい苛立ちと共にキーボードから手を離した。椅子を乱暴に回転させ、里村の顔を獰猛な目で見据える。


「そうだと言ったらどうする。改二のあの飛躍しすぎたファンタジー……ナノグラフェンをDNAに組み込むという構造を現実のロジックにするには、これしか方法がない。あらゆる外的干渉、熱変化、分子の衝突によるバグを想定し、数億に及ぶ細胞の挙動を俺がこの手で一つずつ定義して網羅する。それ以外に、あの不完全な肉体を上書きする最強の器を現実化するルートがあるなら、今すぐコードで証明してみせろ」


 悠一は、自身の膨大な努力の正当性を証明するように、冷酷に言い放った。

 そう、悠一のアプローチは狂っていた。弟が放った天才的な直感を現実にするために、彼は人間の手で神の模倣を行おうとしていたのだ。あらゆる細胞の運命を、自らのタイピングによって一からすべて規定する。それは、富士山を砂粒から素手で組み上げるような、気の遠くなるほどの泥臭い執念の塊だった。


 里村は、その悠一の言葉を受け、言葉を失ってその場に硬直した。

 目の前にいる男の狂気に、圧倒されていた。世界中の誰もが柿枝改二の『華やかな発想』に群がり、それを神格化する。しかし、その発想の裏側で、それを現実に繋ぎ止めるために、これほどまでにおぞましく、泥臭く、命を削るような努力を続けているもう一人の天才がいることを、誰が知っているだろうか。


 改二が『発想の特異点』なら、この兄・悠一は、間違いなく『努力の怪物』だった。

 里村の胸の中で、何かが激しく弾け飛んだ。柿枝改二という偶像への落胆など、もうどうでもよくなっていた。目の前のモニターに映し出された、あまりにも不器用で、圧倒的で、壊れそうなほど美しい狂気的なまでのコードの山が、里村清一という理系の怪物の血を、これ以上ないほど激しく沸騰させたのだ。


「――馬鹿げてます」


 里村の目が、獲物を定めたバランサーのそれに変わっていた。彼は身を乗り出し、悠一のキーボードを奪い取るようにしてコンソールを引き寄せた。


「馬鹿げてますよ、先輩! そんなボトムアップのアプローチじゃ、それこそ超並列サーバを何万台並べたって、一人の人間の寿命が何回巡ってきたって、この器は完成しません! 計算量が初期段階で飽和して、無限ループに陥るに決まっています!」

「なんだと……?」

「なぜ、受精卵を模倣しないんですか!? すべての細胞の完成図をあらかじめ定義するんじゃない。私たちが書くべきなのは、最初の一核における環境適応の指向性だ! そこから、周囲の物理干渉に合わせて、細胞自身が自動で最適化しながら組織化していくような、トップダウンの同期制御ネットワーク構造にすればいい。そうすれば、先輩が手作業で書いている数億行の無駄な静的定義は、すべてたった数千行の発生アルゴリズムに集約できる!」


 里村の口から流れるように吐き出される、寸分の狂いもない正論。


 その瞬間、悠一の脳内で、これまで世界を縛り付けていた古い格子が、ガラガラと凄絶な音を立てて崩れ落ちていく感覚があった。


「初期ノードからの……トップダウンの同期制御……」


 悠一の硝子のような網膜が、激しく蠢いた。


 盲点だった。悠一は改二の発想を現実に落とし込むことだけに盲進するあまり、すべてを自分のロジックで制御しようとする、傲慢な力任せの檻に囚われていたのだ。


 しかし、この目の前の奇妙な後輩は、その檻の壁を、最も冷徹で、最も美しい理論の完全性によって一瞬で粉砕してみせた。


(動く……。こいつの言うネットワーク構造なら、改二のプログラムは自己組織化の速度を、数万倍に跳ね上げる……!)


 悠一は、隣に立つ里村の横顔を、初めて一人の対等なエンジニアとして、強烈な驚愕と共に凝視した。


 これまでの人生で、悠一の泥臭いコードを、その努力の裏にある執念の価値を、ここまで正確に見抜き、あまつさえその限界を超えたダメ出しをしてきた人間など、ただの一人もいなかった。誰もが『改二の兄』としてしか自分を見なかった世界で、この里村清一という男だけは、柿枝悠一というエンジニアの魂に、真っ向から火花をぶつけてきたのだ。

悠一の唇の端が、これまでにないほど愉しげに、傲慢に吊り上がった。


「おい、里村」

「なんですか、柿枝先輩」

「その、受精卵のアプローチの初期関数、今すぐここに書き直せ。お前の黄金比とやらの論理が本物かどうか、俺の目の前でコンパイルしてみせろ」

「言われなくとも、そのつもりです。先輩、そのキーボード、ちょっと斜めにズレてますよ。平行に直してください。私の集中力が削がれます」


 そう言って、里村は不敵に笑いながら画面へと指を走らせた。

 流れるような指さばきで打ち込んだ初期関数が、メインマシンのコンパイラを通過した瞬間、それまで画面を真っ赤に染め上げていた致命的なエラーログの奔流が、一瞬にして静止した。


 次の瞬間、モニターに走り出したのは、目に鮮やかなエメラルドグリーンの文字列だった。


『ステイタス:同期状態は安定しています』


「嘘だろ」


 悠一の口から、驚愕のあまり掠れた声が漏れた。


 部屋の奥に鎮座する円筒形の培養槽。その淡い緑色の培養液の中で、先ほどまでドロドロとした歪な肉塊として崩壊を繰り返していた人工細胞群が、まるで目に見えない指揮者のタクトに導かれたかのように、自己組織化を開始したのだ。


 ナノグラフェンの六角形格子がDNAの塩基配列と美しく噛み合い、電気信号を同期制御していく。骨格が組み上がり、筋肉の繊維が自律的に編み込まれ、その上を滑らかな人工皮膚が覆っていく。


 それは、ベースとして組み込まれた柿枝兄弟のDNAに起因して、仄かに改二の、そして悠一自身の面影をも宿した、驚くほど曖昧で、驚くほど端正な子どもの顔立ちを急速に形作り始めていた。


 二人の天才は、言葉を失ってその光景を見つめていた。神が何億年もの進化の果てに作り上げた発生のプロセスを、この薄暗い研究室の西日の中で、たった数千行のコードが上書きしてみせたのだ。


 息を呑むような沈黙。世界で初めて、本物の奇跡が産声を上げた瞬間だった。


――しかし、天才たちの感動の賞味期限は、驚くほど短かった。


 時計の針が深夜の二時を回る頃、研究室は奇妙な、そして異様な熱気に包まれていた。

 ブレイクスルーを果たした二人は、そのまま狂気的な深夜のデスマーチへと突入していた。肉体の自律制御環境定義のインポート、神経ネットワークの同期シミュレーション。やるべきことは山積みだった。


 そして、作業が佳境に入ったその時、デスクの上には、里村の「エンジニアとしての業」が生み出した奇怪な建造物がそびえ立っていた。


「おい、里村」


 悠一がモニターから目を離さず、けれど極めて不快そうな声を絞り出した。


「なんですか、柿枝先輩。私のタイピング速度を落としたいなら、もう少しロジカルなアプローチをしてください」

「お前のタイピングはどうでもいい。俺の視界の右斜め四十五度、正確には私のマウスパッドの北北東に位置する、その不愉快なオブジェクトはなんだ」


 悠一が指し示したのは、里村がこの数時間で飲み干したエナジードリンクの空き缶の山だった。それは単に散らかっているのではない。レッドブルの青と銀、モンスターエナジーの黒と緑、さらには別のブランドの鮮やかなオレンジ色の缶が、ミリ単位の狂いもなく、色彩のグラデーションを成すように、正四角錐のピラミッドとしてデスクの上に構築されていた。しかも、すべての缶のロゴマークが、寸分のズレもなく正確に正面を向いている。


「オブジェクトとは失礼な。これは私の集中力を極限に高めるための論理的配置です」


 里村は眼鏡をクイと上げ、大真面目な顔で言い放った。


「各銘柄のカフェインおよびアルギニンの含有比率を計算し、私の脳内代謝の推移に合わせて美しくスタックしてあります。この缶ピラミッドの黄金比が一ミリでも崩れた瞬間、私の空間認識能力は著しく低下し、このメインプログラムの第十四層にある同期関数に致命的なバグが混入することになります。ですから先輩、絶対にそのマウスを大きく振らないでください。私の宇宙が壊れます」

「知るか。お前の宇宙のせいで俺のデバッグ作業の空間が物理的に三十パーセント圧迫されている。今すぐそのアルミゴミをすべて等価圧縮してゴミ箱という名のブラックホールへ叩き込め」

「断ります。これは芸術であり、私のエンジニアとしてのプライドです」


 世界初の人造肉体を完成させつつある緊迫したラボの中で、二人の天才は、缶の配置というこの世で最も生産性の低い論争を、恐ろしく高度なボトムアップの論理で繰り広げていた。

 だが、そんな小競り合いは、その後に勃発した本物の戦争に比べれば、ただの小競り合いに過ぎなかった。


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。

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