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天国の嘘・ゼロ 深流の仮面  作者: やまざかたかす
第一章 光なき研究室で芽生える希望

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第一話 努力の背中

 大学の古びた研究棟の三階。その最奥に位置する柿枝悠一カキエダユウイチの研究室には、大きく切り取られた四角い窓があった。


 秋枯れの冷たい西日が、ガラス越しに容赦なく室内に差し込んでいる。夕暮れ時の光は、世界を美しく染め上げるというよりも、部屋の中に乱雑に積み上げられた電子部品の山や、幾本もの配線コードの埃を不気味なほど鮮明に際立たせていた。


 窓の外を見下ろせば、キャンパスの中庭を談笑しながら歩く学生たちの姿が見える。彼らが生きる穏やかで凡庸な日常と、この部屋の空気は、まるで異なる次元のように断絶していた。改二があの世界――清濁の入り混じる永田町へと自ら飛び込んでいってから、悠一はこの地上階の部屋に引きこもり、たった一人で狂気的なデスマーチを続けていた。


 カタカタカタ、と、乾いたタイピング音だけが不規則に響く。

 悠一は、メインサーバの蒼白いモニターに向かい、狂気的な速度でキーボードを叩き続けていた。網膜に映るソースコードの文字列は、弟・改二が子供部屋のホワイトボードに描き残した、あの『バイオ・プログラミング・シェル』の構想を現実のロジックへと翻訳するためのものだ。


「またエラーか」


 悠一は低く、押し殺した声で吐き捨てた。画面に非情な赤文字のログが走る。


 部屋の奥に鎮座する円筒形の培養槽。その淡い緑色の培養液の中には、弟の夢を叶えるための器――人工細胞によって自己組織化されるはずの肉体の原型が浮かんでいた。

 しかし、それは美しく形を成すどころか、内側からの演算エラーによって形を維持できず、ドロドロと崩壊しかけた歪な肉塊として揺れている。


 改二の放つ発想は、いつも凡人の過程をすっ飛ばした特異点そのものだった。その飛躍したビジョンを形にするため、悠一は今、心筋から神経、皮膚の末端に至るまで、すべての細胞の挙動を手作業で一つずつ定義するという、途方もないボトムアップのアプローチに忙殺されていた。


 だが、人間の肉体という神のシステムはあまりにも複雑で、悠一のどれほどの努力をもってしても、計算量は一瞬で飽和し、エラーの沼から抜け出せずにいた。自らの不甲斐なさと、弟を一人で永田町へ行かせてしまったという焦燥感が、悠一の精神を内側からじりじりとすり減らしていく。


 その時だった。静寂に支配されていた研究室のドアが、遠慮がちに、けれど確かな熱を持ってコンコンと叩かれた。


「チッ、誰だ。鍵は開いている。用があるなら手短にしろ」


 悠一は画面から一切目を離さず、背後へ向かって冷淡な声を投げた。


 ガチャリとドアが開き、一人の青年が部屋へと足を踏み入れてくる。それが、のちに悠一の人生を決定的に変えることになる男、里村清一サトムラキヨイチとの最初の邂逅だった。


 里村は、サイエンス誌をまるで家宝のように両手で大事そうに胸に抱きしめ、その眼鏡の奥の瞳を、壊れやすいガラス細工を見つめるかのようにキラキラと輝かせていた。彼は悠一の背中に向かって、緊張で少し上ずった、けれど熱狂を隠しきれない声で捲し立てた。


「初めまして! 突然の訪問をどうかお許しください! 私は今年度からこの大学の門を叩いた、里村清一と申します。……こちらの研究室が発表された論文の、『ナノグラフェンとDNAを組み合わせたプログラマブル人工細胞核』の初期構想に、文字通り魂を撃ち抜かれました! 凡百の生化学をすべて過去にする、あまりにも美しく、飛躍した発想の特異点……! あの、柿枝改二さんは、どちらにいらっしゃいますか!?」


 里村の言葉は、純粋な憧れに満ちていた。その真っ直ぐな熱量は、この冷え切った研究室にはあまりにも不釣り合いで、眩しすぎるものだった。


 しかし、悠一はキーボードを叩く手を止めない。それどころか、その横顔には、氷のように冷め切った影がスッと落ちていた。


「弟なら、もうここにはいない」


 地を這うような悠一の声音に、里村の捲し立てるような言葉がピタリと止まる。


「え?」

「耳が腐っているのか? 弟ならもういないと言ったんだ。あいつは大学を出て、スーツを着て、薄汚い政治家どもの仲間入りをするために永田町へ行った。二度とこのラボに戻ることはない」


 悠一はそこでようやくタイピングを止め、ゆっくりと椅子を巡らせて里村を正面から見据えた。その瞳には、深い疲弊と、他者を寄せ付けない傲慢な冷徹さが宿っていた。


「ここはただの、俺というエンジニアの居残り作業場だ。お前が求めるような『きらきらした発想の天才』に会いたいなら、こんな西日のうるさい研究室にへばりついていないで、家に帰ってテレビの国会中継でも見ていろ」


 悠一の容赦のない言葉が、ナイフのように室内の空気を切り裂いた。

 その瞬間、里村の顔から、まるで魔法が解けたかのようにパッと光が消え去った。期待に満ちていた肩が目に見えて落胆に震え、胸に抱えられたサイエンス誌が、急にただの無価値な紙の束に見えてしまったかのように、その指先がわずかに弛む。


 悠一はその里村のあからさまな落胆を、冷めた目で見つめていた。胸の奥を、ドロドロとした苦い自嘲が満たしていく。


(――やはりな。どいつもこいつも、求めるのはあいつの方だ)


 世界中の誰もが、改二のあの華やかな発想の美しさにのみ群がる。その発想を現実の泥臭いシステムに落とし込むために、この部屋で血の涙を流しながらコードを書き殴っている悠一の努力の価値など、誰一人として見ようとはしない。


「用件はそれだけだろう。お前が憧れる天才はここにはいない。私の作業の邪魔だ、さっさと帰れ」


 悠一は、まるで出来の悪いバグを処理するかのように冷たく言い放つと、里村に背を向け、再び蒼白いモニターの深淵へとその意識を没入させようとした。


 完全に拒絶された室内には、再びメインマシンの排熱ファンが立てる低い唸りと、キーボードを叩きつけるような硬い破裂音だけが戻ってきた。


 悠一はすでに、背後に佇む闖入者ちんにゅうしゃの存在を思考から完全に消去していた。目の前のモニターでは、数十万行に及ぶエラーログが滝のように流れ落ち、奥の培養槽からは、組織の結合エラーを告げる鈍い電子音が規則的に鳴り響いている。

 悠一の指先は、焦燥感に突き動かされるようにして、不完全な人工細胞の塩基配列を力ずくで修正するためのコードを打ち込み続けていた。


 一方、落胆の深淵へと突き落とされた里村清一は、胸に抱えたサイエンス誌を絞り込むようにして、しばらくその場に立ち尽くしていた。憧れ、狂信し、ようやく辿り着いた聖域の扉。しかし、その向こう側にいたのは、求めていた『きらきらとした発想の特異点』ではなく、西日にまみれて呪詛を吐き散らす、傲慢で冷酷なエンジニアの男だった。


「わかりました。お忙しいところ、取り乱してしまってすみません」


 里村は、消え入りそうな声で小さく頭を下げた。眼鏡の奥の瞳からは先ほどの眩い輝きが失われ、ただただ、自分の場違いな熱量を恥じるような暗い影が落ちている。彼は力なく踵を返し、重い足取りで研究室のドアへと歩みを進めた。


――だが、その足が、ドアノブに触れる直前でピタリと止まった。


 部屋を出ようと背を向けたことで、里村の視界に、この研究室の異常なレイアウトが別の意味を持って飛び込んできたのだ。

 彼のエンジニアとしての鋭い嗅覚が、部屋の最奥で淡い緑色の光を放つ培養槽と、悠一の操るモニターの異様さに、本能的な警報を鳴らしていた。


 スクロールしていくモニターのログの速度が、明らかに異常だった。通常のコンパイルやシミュレーションの速度ではない。マシンのCPUが限界を超えて熱を帯び、排熱ファンが悲鳴を上げているのは、グラフィックの描画などではなく、文字通り「天文学的な数字の力任せの計算」をリアルタイムで行っているからだ。


 里村は、引き寄せられるように、無意識のうちに数歩、後ずさりをした。そして、失礼極まりないことであると頭では理解していながらも、悠一の肩越しに、その蒼白いモニターの画面を食い入るように覗き込んだ。


 その網膜に、流れ落ちる文字列と、不格好に組み上げられたC言語の関数群が焼き付いた瞬間――里村は、呼吸をすることすら忘れて絶句した。


「ちょっと、待ってください」


お読み頂きありがとうございました。評価、ご感想を頂けましたら幸いです。

本編『天国の嘘』もよろしくお願いします。


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