プロローグ ファンタジーの種子(2)
それは、あまりにも無垢で、あまりにも早すぎた、世界の理をひっくり返す発想の特異点の萌芽だった。病気も怪我もしない体。永遠の命。おとぎ話の絵本や、出来損ないのファンタジーアニメが手垢まみれになるほど繰り返してきた、退屈極まりない妄想だ。そう、切り捨てるはずだった。
だが、悠一の冷徹な網膜は、ホワイトボードの隅に改二がマーカーで描き足した、奇妙な幾何学模様の図形を捉えていた。
それは炭素原子が蜂の巣状に結合した、美しい六角形の格子。生化学の教科書には絶対に載っていない、けれど物理学の最先端で囁かれ始めたばかりの、強靭な二次元物質の構造。
「改二。お前、そのエルフの耳の横に描いた六角形の網目はなんだ。生体組織のシミュレーションに、なぜそんな静的なトポロジーが混ざり込んでいる」
悠一の声から、いつの間にか他者を見下すようなトゲが消えていた。
改二は、ホワイトボードマーカーを握ったまま、一瞬だけきょとんとした表情で兄を振り返った。その瞳は、兄のただならぬ気配に怯える風でもなく、ただ自分の頭の中に広がっている鮮明な答えの風景を、そのまま口にするように、あまりにも淡々と、当たり前のこととして言葉を紡いだ。
「え? ええと、細胞のプログラムを……ナノグラフェンで回路を組んで、DNAと組み合わせるんだけど?」
――ナノグラフェン。
その単語が、子供部屋の静かな空気を鋭く引き裂いた瞬間、悠一の指先からシャーペンがカランと音を立てて床へ落ちた。転がったペンを拾うことすら忘れ、悠一の身体は凍りついたように硬直した。
「ナノグラフェンで、回路だと?」
「うん。そうしたら、どれだけ激しい熱変化があっても演算エラーが起きないでしょう? もし病気というバグが出ても、プログラムが自己組織化して、異常な細胞核のコードを勝手にリライトしてくれるかなって。ほら、この格子をこう繋げば、炭素の導電性がDNAの塩基配列を直接制御できる気がするんだ」
改二は、まるで「今日の晩ご飯は何かな」と話すくらいの無垢なトーンで、世界の全生物学者がひっくり返るような異次元のパラダイムシフトを口にしていた。
凡人が何十年、何百年の研究と実験のプロセスを積み重ねて、それでも辿り着けるかどうかも分からない生化学の臨界点。それを、この十歳に満たない弟は、自らの直感という名の特異点だけで、一足飛びに答えに触れていた。
(なんだ、これは……。おとぎ話なんかじゃない。これは、システムだ)
悠一の脳内で、狂気的な速度の演算が始まった。改二が直感で並べた不格好な落書きが、悠一の持つ圧倒的なロジックの網の目に囚えられた瞬間、カチリ、と世界の歯車が噛み合う悍ましい音が聞こえた。
天国や魔法といったファンタジーの皮を剥ぎ取れば、そこに現れたのは、これ以上ないほど冷徹で、強固な「人間をアップデートする最強の物理的器」の基礎概念だった。
「……っ!」
悠一は弾かれたように椅子を蹴立てて立ち上がると、改二の小さな肩を掴み、突き飛ばすようにしてデスクへと縋り付いた。
心臓が、未だかつてないほどの激しさで鐘を打ち鳴らしている。全身の血液が沸騰し、指先が歓喜でガタガタと震えた。
「改二、お前のその発想……ナノグラフェンの構造式と塩基のプログラミング。……繋がる。すべて繋がるぞ!」
悠一は白紙のルーズリーフをひったくり、狂ったような速度で数式を書き殴り始めた。ペン先が紙を削り、激しい摩擦音が部屋に響く。改二が放った突拍子もないファンタジーを、悠一の執念が、現実のコードへと、神への反逆の武器へと落とし込んでいく。
「できる……。できるぞ、改二! お前のこの発想があれば、神が作った不完全で、脆くて、すぐに壊れる人間の肉体を、根元から完全に上書きできる! 病気も、老いも、死すらも、すべてはただのバグとして排除できる最強の器が作れるんだ!」
ノートに書き殴られた複雑な数式の羅列を見つめながら、悠一は獰猛な獣のように、狂おしい歓喜に全身を震わせて笑った。
弟が夢見た、誰も傷つかない、病気も怪我もしないエルフの世界。それをこの現実の地球上に、物理的なシステムとして建造してやる。お前がその奇跡を発想するのなら、俺がそのすべてを現実に翻訳してやる。
悠一の背後で、改二は「わあ……兄さん、やっぱりすごいや」と、自分の頭の中の絵の具を想像通りの絵画に変えてくれた兄の背中を、誇らしそうに、どこまでも純粋な笑顔で見つめていた。
悠一の叩きつけたペン先がルーズリーフに刻んだ数式は、未来への青写真そのものだった。神の設計図を書き換える禁忌の技術。その光に包まれた二人の天才は、間違いなく世界の中心にいた。
だが、その歓喜の絶頂を冷酷に切り裂くように、廊下の奥からカツン、カツンと、硬く乾いた足音が近づいてきた。それはこの家を支配する、逃れられない大人の足音だった。少しだけ開いたドアの隙間から、二人の気配が静かに立ち上る。先祖代々から続く政治家家系としての重圧を背負う、柿枝家の両親だった。
二人の息子を、彼らは心から平等に愛していた。命に変えても惜しくない、大事な、大事な宝物だった。だからこそ、その閉ざされた会話から漏れ聞こえてきたのは、親としての引き裂かれるような苦渋の選定の言葉だった。
「先祖代々から続くこの柿枝の血脈を、私たちの代で絶やすわけにはいかない。それがこの家に生まれた者の、決して逃れられない宿命だ。……悠一も改二も、私の命に代えても惜しくない、等しく大切な我が子だ。だからこそ……この性質の選定は、私の胸を不条理に引き裂く」
父親の、重苦しく、擦り切れたような声。続いて、息子たちを想う母親の、張り裂けそうな優しさと諦念を孕んだ声が響く。
「ええ、分かっています。悠一は強い子です。生まれ持った冷徹な合理性と、果てのない野心。あの子の強靭な精神なら、清濁を併せ呑む泥沼のような政界の荒波をも、自らの力で泳ぎ切るでしょう。我が家の未来は悠一に背負わせましょう」
「けれど、改二はあまりにも純粋で、真面目すぎるわ。みんなから愛されて真っ直ぐに育ったあの子の心は、永田町の底知れぬ毒気に触れれば、一瞬で粉々に砕け散ってしまう。改二には、どうか綺麗な世界のままで、その優しい笑顔を曇らせずに生きてほしい。あの子の幸せを、あの地獄で磨り潰させたくはないの。……改二は、悠一の影に隠して守りましょう。表向きは兄の引き立て役にでも据えて、決して泥が跳ねない安全な場所に置いておくのです」
それは、彼らなりの精一杯の、深い深い愛情の形だった。我が子の夢を砕くことになるとしても、家系を守り、同時に最も脆い息子を戦場から遠ざけるための、親としての苦渋の決断。
だが、その会話を耳にした瞬間、悠一の端正な顔が獰猛に歪んだ。
「チッ……」
悠一は激しい苛立ちと共に、床のシャーペンを乱暴に蹴り飛ばした。自分の未来を勝手に永田町の泥沼に固定しようとする親への反発。そして何より、たった今、自分に世界の心理を授けてくれた発想の天才である改二を、ただの守られるべき弱者として、自分の引き立て役として勝手に値踏みした親の愛の浅さへの、烈火のような怒りだった。
しかし、悠一の隣で、改二は怒らなかった。
彼はただ、少しだけ寂しそうに、けれど全てを受け入れたかのような、酷く静かな微笑みを浮かべていた。
改二は聡明だった。真面目で優しい彼は、ドアの向こうの両親が、自分たちを傷つけようとして言っているのではないことを痛いほど理解していた。あれは、自分を壊したくないという、親の必死な優しさなのだと。
理解しているからこそ――改二の胸の奥で、恐ろしいほどの自己犠牲のロジックが完成してしまった。
(親切なパパとママ。僕を愛してくれてありがとう。……だけど、それは違うんだ)
改二は、悠一が狂ったように書き殴った数式のルーズリーフを見つめた。そこに踊るナノグラフェンの構造式。これは世界を新しくリライトする、神のコードだ。兄さんは不器用で口は悪いけれど、自分のめちゃくちゃな夢を本当の科学にしてくれる、世界一綺麗で、尊い天才なのだ。
(兄さんを、汚い大人たちの世界に行かせちゃいけない。あんな泥沼に兄さんを落としたら、この綺麗な数式は全部、あいつらの金儲けの道具にされて汚されてしまう。兄さんのあの手は、世界を救うための手なんだ)
だったら、向いていないのは分かっている。汚い世界が怖いのも本当だ。けれど――。
(僕が、兄さんの身代わりになればいいんだ)
改二は、小さな手のひらをギュッと、爪が肉に食い込んで白くなるほど強く握りしめた。
自分がスーツを着て、政治の表舞台に立ち、パパたちの地盤を継ぐ。汚い大人たちの相手も、泥水をすする汚れ仕事も、全部僕が盾になって引き受ける。そうして僕が永田町から莫大な予算を引っ張ってくれば、兄さんはこの静かな子供部屋で、ずっと綺麗なままで、誰にも邪魔されずに世界を救う研究を続けられる。
「兄さんの研究は……僕が、僕の命に代えても守るんだ」
その小さな呟きは、誰の耳にも届かないほど静かだった。
政治家に最も向いていないはずの、みんなから愛された純白の特異点。彼がその深く優しすぎた愛情ゆえに、自ら永田町という地獄の檻へ飛び込む決意を固めた瞬間だった。
この時、二人の少年の運命は残酷に反転した。
兄を守るために地獄へ行った弟と、その弟の犠牲を知らぬまま研究に没頭し、のちに弟を食い殺した世界へ最大級の復讐を誓うことになる兄。
親の深い愛がもたらした、最悪のボタンの掛け違い。破滅へのカウントダウンが静かに、けれど確実に始まり、柿枝兄弟の小さな聖域は、夜明け前の深い闇へと暗転していった。
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